第2話 隣の家
朝、目を覚ます。
午前6時43分。
カーテンを開ける。
向かいのマンション、307号室。
佐伯健司。
43歳。
妻、佐伯美和。
娘、佐伯優奈。
三人家族。
僕は今日も、
彼らのことを知っている。
世界認識が生まれてから、
「隣人」という言葉の意味は変わった。
昔なら、
隣の部屋に誰が住んでいるかなんて、
知らないことも珍しくなかったらしい。
今は違う。
引っ越してきた瞬間に、
その人の情報が頭に入る。
名前。
年齢。
仕事。
家族。
過去。
だから、
挨拶をする必要すらない。
「初めまして」
という言葉も、
ほとんど使われなくなった。
初めて会う前から、
相手を知っているからだ。
朝7時12分。
向かいのマンションのカーテンが開く。
佐伯健司。
眠そうな顔。
昨日の睡眠時間、5時間42分。
妻の美和は、
まだ寝ている。
娘の優奈は、
学校へ行く準備をしている。
僕は、
いつものように眺める。
別に、
覗いているわけではない。
世界認識が勝手に教えてくれる。
でも世界認識にはその言葉の裏側までは表示されない。
僕は、なぜか気になった。
佐伯健司は、
妻に何を思っているんだろう。
検索する。
――情報なし。
もう一度。
――情報なし。
当然だ。
世界認識は、
思考を読めない。
僕は妻を見る。
隣で朝食を食べている。
「どうしたの?」
「いや」
「何か考えてる?」
僕は少し迷って、
聞いてみた。
「僕のこと、どう思ってる?」
妻は箸を止めた。
「急に何?」
「なんとなく」
妻は笑った。
「知ってるんじゃないの?」
「そうじゃなくて」
「じゃあ、何?」
「……聞かないと分からないことを知りたい」
妻は、
しばらく僕を見た。
そして、笑った。
「変なの」
「そうかな」
「じゃあ、教えてあげる」
妻は少し考えてから言った。
「あなたは、思ってるより寂しがり屋」
僕は黙った。
世界認識には、そんな情報はなかった。
会社へ向かう。
駅まで歩いていると、
佐伯健司が前を歩いていた。
僕は彼のことを知っている。
会社。家族。昨日の夕食。今日の予定。
すべて。
だから話しかける必要はない。
でも昨日の老人との会話を思い出した。
「知っているからこそ、話してみたい」
僕は少し早足になった。
「佐伯さん」
男が振り返る。
「あれ?」
僕を見る。
「……佐藤さん?」
「はい」
「初めて話しますよね?」
「そうですね」
佐伯は笑った。
「なんか不思議ですね」
「何がです?」
「あなたのこと、昔から知ってるような気がするのに」
僕は笑った。
「僕もです」
二人で歩く。
駅まで、
たった7分。
「佐藤さん」
「はい」
「うちのこと、知ってますよね?」
「……まあ」
「僕の妻のことも?」
「はい」
「娘のことも?」
「はい」
佐伯は少し黙った。
「じゃあ、
妻が最近、何を考えてるか分かります?」
僕は答えられなかった。
「……分かりません」
「ですよね」
佐伯は笑った。
「僕も分からないんです」
僕は、
少し驚いた。
「奥さんのことを?」
「知ってることは、
たくさんありますよ」
「でも?」
「好きかどうかは、聞かないと分からない。」
駅に着いた。
佐伯は別のホームへ向かった。
「じゃあ、また」
「はい」
たった数分。
それだけだった。
でも僕は妙な感覚を覚えていた。
夜。
帰宅すると娘がリビングにいた。
「お父さん」
「ん?」
「今日、学校でね」
「うん」
「友達に好きな人ができたんだって」
「そう」
「でも、その子のこと全部知ってるんだよ」
僕は笑った。
「世界認識があるからね」
娘は首を振った。
「違う」
「何が?」
「全部知ってるのに、
その子が自分を好きかどうかは分からないんだって」
僕は言葉を失った。
娘は続けた。
「だから聞くんだって」
「何を?」
「好き?って」
僕は笑った。
「それが一番怖い質問だね」
「なんで?」
「答えが分からないから」
娘は、
少し考えた。
そしてこう言った。
「でも、
分からないから聞くんじゃない?」
その夜。
僕はベッドに入っても眠れなかった。
妻は隣で眠っている。
僕は彼女を見る。
43歳。
僕の妻。
好きな食べ物。好きな映画。
学生時代。仕事。友人。家族。
全部知っている。
でも、今、
僕の隣で眠っている妻が、
僕を見て何を感じているのか。
それだけは分からない。
僕は妻に、
聞いてみた。
「ねえ」
「……なに?」
眠そうな声。
「僕のこと好き?」
妻は目を開けた。
数秒、僕を見る。
そして笑った。
「今さら?」
「うん」
「好きだよ」
「……どうして?」
妻は少し考えた。
「分からない」
僕は笑った。
「分からないんだ」
「うん」
「世界認識でも?」
「世界認識でも」
妻は目を閉じた。
「だから、
あなたと結婚したんじゃない?」
部屋が静かになる。
僕は天井を見る。
83億人。
世界中の人間を知っている。
でもたった一人の人間の、
「好き」
という言葉だけは、
本人に聞かなければ分からない。
翌朝。
世界認識を起動する。
いつもの画面。
83億人。
その中から、
「佐伯健司」
を検索する。
情報が表示される。
名前。年齢。家族。職業。
昨日の会話。
すべて。
しかし、一番下に、
昨日とは違う表示があった。
「未確認情報:1」
僕はそれを開こうとする。
――アクセスできません。
もう一度。
――アクセスできません。
そして、
一瞬だけ、
文字が浮かんだ。
「その人が誰を愛しているかは、本人にしか分からない。」
僕は画面を閉じた。
その日から僕は少しだけ、
人を見る目が変わった。
83億人。
全員のことを知っている。
なのに、一人として、
完全には理解できない。
だったら――
僕たちは本当に、
83億人を知っているのだろうか。
それとも、
知っていると思い込んでいるだけなのだろうか。
そして同じ頃。
世界のどこかで、一人の女性が、
存在しない人物について誰かに話していた。
「私はその人のことを知っています」
相手が聞く。
「名前は?」
女性は答える。
「……分かりません」
「年齢は?」
「分かりません」
「どこに住んでいる?」
「分かりません」
「では、なぜ知っていると言えるんです?」
女性は静かに答えた。
「その人を、忘れたことがないからです。」
そして、
世界認識の画面から一人の人間の情報が、
ゆっくりと消え始めた。




