第二十五週・名前
12月に入り、木枯らしの頼りが伝えられる時期になった。
年明けまではまだ1ヵ月弱はあるが、クリスマス商戦やら、おせちの話題やら、歳末恒例の風物詩が世間を握わせている。
輝はリビングのソファーに深く腰掛け、スマホで自然科学系の記事を読んでいた。
輝の25週においての健診は、問題なくパスした。
だが輝の状態は、世界的にもほとんど先例がないため、安定期でも隔週で受診し、併せてメンタルケアも続けている。
輝本人の遺伝子検査では、事前の予想通り、男女双子のキメラという診断が下された。
それでも世界は広く、自然界まで視点を広げると魚類ではあるが、雌雄同体で自家繁殖できる動物がいるらしい。
もちろん、その魚にとっては、遺伝子的にそれが標準的であって、同時に別の個体とも繁殖できる、とその記事には書かれていた。
その魚が、どのようにして進化して現在のかたちへ至ったのかまでは、輝には想像もつかない。
だが、ふと自分の立場に置き換えてみると、もし自分にパートナーがいたらどうなるのか。
そんなことが頭をよぎった。
ちょうどその時ーー
輝のスマホが鳴る。
その相手は、輝の父・北越剣。
地球の裏側、南米アンデス山脈で技術者として、天体観測施設の建設に携わっている。
空気が綺麗で淀みがなく、雨も少ない、標高5千メートルの高原。
携帯電話の電波など届かず、衛星通信も観測の妨げになるため、使用禁止の環境だ。
当然、輝が病院に運ばれた際にも連絡がつかず、剣が状況を知ったのは、既に退院した後のことだった。
もちろん、輝の話を聞いたとき、彼はまさに飛んで帰りたかったことに偽りはない。
が、残念ながら物理的な距離だけはどうしようもなく、結局、帰国はもう少し先の正月休みと言うことになってしまった。
そこで、剣が備品の調達で麓の街まで下山(といっても標高3千メートル付近だが)し、スマホの電波がつながる環境で、オンラインで話しをすることになったのである。
輝がビデオ通話開始のボタンをタップすると、ワイシャツ姿の男性――剣が寝室の椅子で待っていた。
「久しぶりだな、輝……やっと話せるな。大変だったのに、遅れてすまない」
剣は開口一番、輝に対し謝罪を告げる。
「しょうがないよ。仕事が仕事なだけに。父さんは体調は平気?」
「だいぶ慣れたよ。高山病対策はゆっくりと体を慣らすのがマストだからな。だがお前こそどうなんだ? それこそ、体もそうだが、心だってまともにいられないくらいは、オレだってわかる」
回線の都合で、音声にタイムラグが発生する距離感。
それでも画面を通してではあるが、剣はいまの息子の姿を見つめていた。
輝は、男性のショートから少し伸びてウルフカットになった髪。
前髪が軽く額にかかり、後ろは襟足がなんとなくふわりと揺れていそうな程度まで長くなっている。
衣装はかなりゆったりとしたラージサイズのホワイトパーカーであるが、2つの胸が膨らみ、何より腹部が大きく自己主張している事は、誰の目も明白であった。
剣は一瞬だけ言葉に詰まったが、すぐに家族らしい、温かい声で呼びかけようとする。
「……輝がこうやって話せる状態で、よかった」
その声音には驚きよりも、会えなかった、そして話せなかった時間を悔やむような申し訳なさが滲む。
輝は、少し緊張した面持ちで視線を上げた。
「……うん。なんとかね」
剣は画面に近づき、自分の子ども、そして孫の成長を確かめるように、直視する。
「入院のとき……本当に悪かった。圏外で連絡が取れなくて……気づいたら退院してたって聞いて、胸が痛かった」
その声には、親としての悔しさと心配が滲んでいた。
いたたまれなくなった輝は目を伏せたが、その横で鷹子が間をつなぐ。
「剣さん、あの時は仕方なかった。でも今こうして話せるんだから、それでいいじゃない」
剣は深く頷き、改めて輝の姿を見つめた。
「……少し雰囲気が変わったな。でも、ちゃんと前を向いてる顔だ」
輝は小さく笑う。
「母さんに助けてもらいながら、なんとかね」
「この子は、悩みながらもちゃんと自分で進んでる。あなたにも見てほしいの、今の輝を」
剣は、まっすぐに輝を見た。
「もちろんだ。父さんだって、ちゃんと向き合う」
その言葉に、輝の中で張りつめていた何かが少しだけほどけた。
オンラインの画面越しとはいえ、久しぶりに家族が揃った空間には、どこか懐かしい空気が漂っていたが、同時に、これから話すべきことの重さも静かに漂っていた。
剣はティーカップを手に取り、しばらく黙っていたが、やがて落ち着いた声で口を開く。
「……輝。母さんから色々聞いた。でも、お前の口からちゃんと聞きたい。今、どんな状況で……これからどうしたいと思ってるのか」
その声音には、父親としての責任と、長く家を離れていたことへの後ろめたさがまだ見え隠れしていた。
輝は少し緊張した面持ちで、自分の言葉を探しながら話し始める。
妊娠していること。
体調は安定してきていること。
母と相談しながら生活を整えていること。
大学の単位は問題なく、卒業は可能であること。
バイトは退職して、今は無理をしないようにしていること。
そして、今後のあり方については、子どもを最優先に考えていきたいと感じていること。
輝は、ゆっくり、慎重に、しかし確かに自分の正直な気持ちを言葉にしていった。
剣はその間、一度も口を挟まず、ただ真摯に耳を傾けている。
驚きも戸惑いもあったはずだが、その表情には責める色は一切なかった。
輝が話し終えると、剣は深く息を吐き、静かに言葉を紡いだ。
「……よく話してくれたな。まず、金の心配は一切しなくていい。オレは家にいられる時間は少ないが……今もこうやって稼ぐことだけはできる。だから、お前は安心してくれ」
その言葉は、親としての覚悟そのものだった。
輝もその心意気を察したのか、自然と真顔になる。
剣は続けた。
「子どもが生まれたら、家には母さんがいる。お前が子育てをするにしても、働くにしても、家のことは心配しなくていい。俺たちが支える」
その言葉は、輝の胸に重く、そして温かく響いた。
これまでずっと二人の会話を聞き続けていた鷹子は優しく言葉を添える。
「剣さんがそう言ってくれるだけで十分。この子も、ずっと不安だったんだから」
剣は照れくさそうに頭をかいた。
「……父親なんだから、これくらいは言わせてくれ」
場の空気が少し和らいだところで、鷹子がふと思い出したように言った。
「そういえば……そろそろ考えないとね。孫娘の名前」
剣と輝は同時に思わず息を呑み、同じセリフを呟く。
「名前……」
母は、父子の反応に思わずニコッとなる。
「反応が、二人ともシンクロしてる。やっぱり親子だね。さて、それはそれとして、名前はまず、お腹の中の子の親であるあんたがどうしたいか、教えてほしいな。あんたの娘なんだから」
剣も頷いた。
「俺も考えるが……まずはお前の気持ちを聞きたい。どんな名前をつけたいんだ」
輝は腹部に手を当て、まだ小さな胎動を感じながら、ゆっくりと息を吸った。
「……実は、一人で考えていたら、完全に煮詰まってしまって。客観的? そういうちゃんと、この子に合う名前を、とか思い始めると、頭の中でぐるぐるって」
剣は腕を組み、少し照れくさそうに笑った。
「わかるぞ、お前の名前をつける時が、まさにそうだった。考えれば、考えるほど、どつぼにはまって、収拾つかなくなるんだよな」
「じゃあ、まずはベタに姓名判断でも見てみる?」
鷹子は言うが早く、要領よくサッとスマホを取り出し、既に姓名判断のサイトを表示していた。
「相変わらず、そういうの好きだな母さんは……輝の時はガラケーで検索してたっけ?」
「そうなんだ?」
よくよく考えてみれば、輝は自分の「かがやき」という名前について、ぼんやりとした由来しか知らない。
「小さくてもきらりと光輝くように」という意味あいなのは理解していたが、肝心な命名エピソードはまったくの初耳だった。
「俺の時はどんなふうに決めたんだ?」
輝が両親に尋ねると、その解答をすべく挙手をしたのは、画面の向こうにいる剣だった。
「『かがやき』という名前はな、母さんが妊娠してた時に、一緒に夜空を見上げながら決めたんだ。ちょうど今くらいの時期、望遠鏡で星を観ながらな」
すると、鷹子も懐かしそうに言葉を繋ぐ。
「お父さんは光学機器メーカーの技術者。だからね、望遠鏡や双眼鏡を仕事でも、休みでも、好きで好きでずっと触ってた。それが今や、どんどんエスカレートして、大きなものを地球の裏側まで行って造ってるくらいだけれど」
剣はやや照れ気味に、声色も若干恥ずかしさを醸し出しつつ続ける。
「ああ。そして天の川を眺めていて、ここから観える数千億個の、星々一つ一つが燃えて光ってる。遠くにあって小さく見える星も、でも近くに行けばどれも大きな存在なんだ、って話を母さんにしたんだ」
鷹子は、輝をしっかりと見つめて言う。
「そこでわたしが、じゃあ、星は一つ一つ、みんな本当は力強く輝いているんだねって。だから、そんな願いを込めて『かがやき』になったんだよ」
生まれたばかりの輝を腕に抱いたとき、鷹子はその表情を見て「こんなに小さくても立派に輝いてる」と感じたという。
その際、隣で見守っていた剣も、生まれたての小さな輝が、大きく光り輝いていたと話す。
そんな両親からの話を聞いた輝は、両眼からぼろぼろと涙が流れ落ちて止まらない。
ホルモンバランスが変わって、涙脆くなっているのだろうか。
いや、そんなこと関係なく、嬉しさがこみ上げてくる。
ただ、それだけのことだった。
◆
その後、3人は姓名判断のサイトを覗きこみ、画数や響き、意味をあれこれ話し合いながら、候補を出していった。
出産予定の見込みは3月上旬。
春の花が咲き始める季節。
自然と、花の名前が候補に挙がり始めた。
「桜はどう?」
「綺麗だけど、人の名前としてはありきたりかも……」
「菜の花も春らしいけど、むしろ菜の字は葉物とか初夏なイメージというか」
「椿もいいけど、漢字だと読みにくい?」
そんなやり取りが続く中、輝がふと、静かに口を開いた。
「……桃、ってどうかな」
鷹子が顔を上げる。
「桃?」
輝は少し照れながら続けた。
「桃って……邪気を払うとか、子どもの健やかな成長を願う意味があるってここに書いてあって。春の花でもあるし……なんか、いいなって思った。あと単純に俺の大好物だし!」
剣はしばらく考えこんでから、ゆっくりと口を開く。
「そういえば昔から、お前は桃の缶詰に目がなかったな。好きなもの、か……柔らかくて、生き生きしてる。お前がそう思うなら、それが一番だ」
鷹子も同意する。
「じゃあ、『桃』を使った名前にしましょうか。この字の下に、漢字一文字加えるとしたら、どうする?」
輝は少し考え、やがて、はっきりとした声で言った。
「……桃の花。北越桃花」
その瞬間、剣と鷹子の表情がぱっと明るくなった。
「おおっ、桃花か!」
「可愛い。すごくあったかい響き」
「うん。桃花……ちょうど春になって、桃のつぼみが、花として咲くころに生まれてくる子だから……」
輝は腹にそっと手を添えた。
今の時間は、活発に胎内で動いている。
まだ小さな命が、この名前を聞いて、テンションが上がったのだろうか。
この子は「桃花」という、自分の名前に対し、どんな感想を持つのだろう。
そのとき、鷹子が閃く。
「じゃあ、今から桃の缶詰を開けて、桃花ちゃんへの栄養にしましょうか!」
「お、いいな。って、こっちのオレ食べられないんだけど!」
さすがに、剣の滞在先に都合よく桃の缶詰などあるはずもなく。
結局、輝と鷹子がシェアし頬張っている姿を、画面越しに眺めるしかなかった。
「待ってるぞ、桃花。俺、がんばるから……」
輝は口いっぱいに桃の果肉をかみしめながら、自分の娘に語りかける。
こうして、北越家4人目の家族の名前が決まった。
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