第二十四週・ヨガスタジオ
※この作品はフィクションです。症例をはじめとする医療情報・法的制度など現実の事象に着想を得ていますが、実在のものとは異なり、いっさい関係ありません。
医師から「ヨガは問題ないですよ」と許可をもらったその日の夜。
輝は夕食後、鷹子のいるリビングへそっと顔を出した。
「……母さん、また相談したいことがあって」
鷹子はテレビの音量を下げ、「どうしたの?」と振り向いた。
輝は、朝陽からヨガ体験会に誘われたこと、医師から許可をもらったこと、
そして――
ヨガウェアの問題を話した。
「……身体のラインが出るのが、ちょっと怖くて。特に……股間のところが、どうしても……」
言葉にするのは勇気がいった。
けれど、鷹子は驚きもせず、ただ冷静になって返答を返す。
「そうね。ヨガは身体を動かすものだし、ウェアもよく見かけるものは、ぴったりしたのが多いもんね」
少し考えたあと、彼女は立ち上がり、クローゼットから何かを取り出してきた。
「でもね、工夫はいくらでもできるよ」
テーブルに置かれたのは、ゆったりとしたサルエル風のパンツ。
股上が深く、布がふんわりと落ちるデザインで、身体のラインがほとんど出ない。
「これなら、股間のラインも目立たないんじゃない? お腹も締めつけないし、動きやすいはず」
輝は思わず手に取った。
柔らかい生地が指先に心地よい。
「……すごい。こんなのあるんだ」
鷹子はさらにスマホで検索し、結果の画像を見せながら語り掛ける。
「それとね、これはメンズのスイムインナー。水着の下に履くものだけど、股間を安定させてラインを整えるのに使えるやつ。あんた、メンズの使ったことあるでしょ? ヨガでも十分役に立つはず」
輝は目を見張った。
「……そんな使い方があるんだ」
「ある。大事なのは、あなたが安心して動けることなんだから!」
カウンセラーの飛騨に言われたことと同じだ。
隠すためじゃなくて、守るため。
「……試してみてもいい?」
「もちろん」
輝は自室に戻り、母から渡されたサルエル風パンツに加え、時期はずれでタンスの肥やしとなりかけていたインナーサポーターを引っ張り出し、身につけてみた。
鏡の前に立つ。
ウィッグをつけ、ゆったりしたトップスを合わせると――
鏡の中には「ヨガに行く妊婦」として自然な姿の自分が映っていた。
股間のラインはほとんど目立たない。
腰の丸みも、妊娠で柔らかくなった体型と馴染んでいる。
「……これなら、行けるかもしれない」
不安はまだある。
でも、母の工夫と支えが、その不安をそっと包み込んでくれていた。
輝はスマホを手に取り「行きます」という内容の返信を、朝陽に向けてゆっくりと打ち始めた。
◆
翌週の午前中。
ヨガスタジオは、輝の住む市から、鉄道で川の県境をまたいだ隣街にある。
その駅前で朝陽を待ちながら、輝はバッグの中身を何度も確認していた。
マイナ保険証、大学病院の診察券、そして母子手帳は、体調が急変した時のために毎回持参することになっている。
他にはタオルや水分補給用の水筒、もちろん財布やスマホも。
衣装に関しては、特に汗をかくような激しい動きはしない(できない)ため、現地では着替えず、家からそのままの姿でよいという。
母と一緒に選んだヨガウェア――
冷やさない格好がベターということで、トップスはゆったりネイビーなロング丈のシャツ、ボトムスは黒のサルエル風パンツ。
そして、股間のラインを整えるためのメンズインナーパンツ。
11月に入り寒くなってきたため、屋外では男女兼用のダウンコートを羽織って待つ。
こうしてみると、意外に荷物は少なく済んでしまった。
「……大丈夫。今日は準備してきた」
そう自分に言い聞かせていると、ロータリーの右方向から、朝陽が明るい笑顔で手を振ってきた。
彼女はやわらかそうなラベンダー色のコート姿で、相変わらずにこやかさだけは誰にも負けないように、喉元から声が出ている。
「おはよう、かーやちゃん! リアルでは初めまして、だね!」
そう。
この日は、ふたりがSNSで知り合って以来、最初のオフ会でもあった。
そのアプリでは、成人した同性同士が直接会うことをを禁止してはいないが、トラブルを避けるため、オープンな場所でのコンタクトを推奨していた。
いわば、マタニティヨガ教室がその場として選ばれたわけだが、輝が一番最初に抱いた感情や懸念を払しょくするためにも、むしろ好都合だったのかもしれない。
「おはよう。約束通り、やってきたよ」
その声からは、緊張が少しだけほどけた様子がうかがえる。
ふたりは、ゆっくり歩きながらおしゃべりをしつつ、ヨガスタジオへと向かう。
会場は駅からほど近いビルの一室。
エレベーターから降りると、木製のドアの横にスタジオ名がデザインされた看板がある。
扉を開くとすぐに受付があり、スタッフが優しく案内してくれた。
「まずはトレーナーによるヒアリングと、必要事項を用紙に記入していただきます」
受付横には1台のテーブルがあり、両側に4席分の椅子が用意されている。
輝と朝陽は隣同士で揃って着席し、それぞれ氏名や通院先の産婦人科、といった個人情報を記していった。
また体調確認のため、その場で簡易測定機器を使い、血圧や体温などの数値も割り出していく。
そうこうしているうちに、今回のインストラクターがスタジオから現れ、挨拶をする。
「こんにちは、担当の黒部です。あ、お座りになったままで。まずはご懐妊、おめでとうございます。そして体験会への参加、ありがとうございます」
黒部は女性インストラクターではあるが、今回の体験会では輝や朝陽同様、露出の少ないウェアであった。
本人曰く、利用者さんと同じ動きをするのだから、似たような服装の方が安心してもらえるから、という。
さらに黒部は、ふたりの現在の週数や運動経験などを把握し、それぞれにマッチした動きや無理ない呼吸をコーチングするそうだ。
ヒアリングを終えると、黒部は先に準備のためフロアへ向かい、ふたりは受付係にロッカールームを案内される。
「更衣室はカーテンで仕切られていますので、ご安心くださいね。それと、ロッカーキーの紛失にはくれぐれもご注意ください」
その言葉に、俺は心底ほっとした。
更衣スペースで、視線を遮れるだけで、こんなにも安心できるとは思わなかった。
朝陽と同時にそれぞれ更衣スペースに入り、カーテンの内側へ。
もっともやることといえば、コートと靴下を脱いで裸足になり、バッグと一緒にロッカーへ収納することぐらいしかなく、ものの数秒で終了する。
鏡で確認すると、股間のラインはほとんど目立たない。
母と相談してよかった、と心から思った。
だが――
途中で、ふと気づく。
「……あ、ムダ毛……」
足の甲に生える毛が、思ったより目立つ。
通常はソックスで隠れていたから気づかなかったが、ここでは滑り防止のため素足にならなければならない。
そういえば医師からの話で、妊娠中の女性は、髪や体毛が抜けにくく、量も多くなるという説明を思い出した。
今となってはどうにもならないため、輝はあきらめる。
「……まあ、今日はこれでいいか」
完璧じゃなくても、今の自分で行くしかない。
ウィッグを整え、深呼吸してカーテンを開けると、朝陽が笑顔で待っていた。
「すごく似合ってるよ、かーやちゃん!」
「ありがとう。あさちゃんも素敵だよ」
ロッカーの暗証番号を設定し、二人でメインフロアへ向かう。
フローリングされた広いスタジオ内では、すでにリピーターとなっている数人の妊婦たちが、ヨガマットの上で準備している。
みんなウェア姿で、中には臨月に迫るのだろうか、腹部がドーム状になって、動くのもつらそうな大きさの人もいる。
(……俺も、この輪の中に入っていいんだよな)
そんな思いが胸をよぎる。
そこに黒部が現れ、柔らかい声で挨拶をした。
「今日もよろしくお願いします。無理のない範囲で、ゆっくり身体を動かしていきましょう」
まずはルーズニング。
鼻からゆっくり吸って、口から細く長く吐く。
他にも体をほぐすなど、いわば準備運動だ。
輝は腹に手を添えるてみるが、娘の胎動はなく静かにしているのがわかる。
「……大丈夫だよ、一緒にやろうな」
続いて、アーサナと呼ばれる、様々な姿勢を試す。
背中を伸ばすポーズ。
腕をゆっくり上げ、肩を開く。
そのまま左右に倒す。
輝は動くたびに、身体がぎこちないのを感じた。
肩はつっぱり、背中は固く、腰も思うように回らない。
(……俺、こんなに固かったのか)
ふと視線を横に向けると、年齢も輝とそう変わらそうな金髪の妊婦がいるが、彼女は腹を抱えながらもゆったりと動いている。
その姿がしなやかで、少し羨ましかった。
次は骨盤をゆっくり回す動き。
黒部が輝に声をかける。
「無理をしない範囲で、骨盤を大きく円を描くように動かしましょう。赤ちゃんのスペースを広げるイメージで」
輝は胡坐をかき、ゆっくりと腰を回した。
サルエルパンツのおかげで、股間はまったく目立たない。
その安心感が、動きを少しだけ軽くしてくれている。
「……これなら」
朝陽と目が合い、二人で小さく笑い合う。
その後、仰向けになって足を左右に動かしたり、瞑想の姿勢をとったりしていると、1時間の体験は、あっという間に過ぎていった。
終わったあと、輝は心も身体もふわりと軽くなっていた。
「行ってよかった……」
体験会の1時間が終わり、スタジオから参加者が散ってゆく。
参加者たちはそれぞれスッキリした表情でマットを片付けている。
輝と朝陽も、インストラクターの黒部にお礼を伝えたあと、その場で入会手続きを済ませることにした。
再び受付横の椅子に腰かけ、テーブルの上に用意された会員カードに自分の氏名を書く。
費用に関しては、単発だと1レッスン2千円のところ、5回分セット券で8千円だそうで、ふたりとも迷わず即刻、一括払いで済ませた。
まんまとヨガスタジオの戦略に乗せられているような気もするが、満足度が高かったこともあり、気にもとめていない。
その後、書き終えた二人は「楽しかったね」「また来ようね」と口にしながら、スタジオを後にしようとした。
そのとき――
「なんで! 開かないじゃんかっ……!」
輝と朝陽は顔を見合わせ、声のする方に視線を向けた。
どうも、その叫びはロッカールームから聞こえてきたようである。
ふたりが足を運ぶと、そこには、ピンクのTシャツに黒のレギンスを履いた、先ほど輝が視線を向けた女性がいた。
彼女は、スタジオ内にもいた利用者のひとり。
朝陽が、心配そうに尋ねる。
「どうされましたか?」
「あ……ロッカーがあかなくなっちゃって。番号いれても全然反応が……」
声は震え気味だった。
そこに、黒部がやってくる。
「番号、覚えてますか? ダメならマスターキーで開錠するんで」
しかし、いくら番号を入力しても、マスターキーを差し込んでも開かない。
どうも鍵本体が破損しているようで、いくら取っ手を引っ張っても、ましてや押しても、びくともしなかった。
鍵の部分には防犯のためネジも存在せず、サイズもあって、ロッカー本体を動かすのはほぼ不可能な状態。
「マジかぁ..…どうしよ……」
金髪の女性は、焦りの色が濃くなってきている。
そのような状況で、輝が口を開いた。
「これ...…物理的に破壊してもいいですかね?」
「破壊?」
朝陽が輝に聞き返す。
「簡単に言うと、てこの原理で。工具のバールは...…なさそうですけど、マイナスドライバーならありますか?」
「あ、そっか!」
「ちょっと待っててください!」
すると、黒部は急いで備品置き場に向かい、ドライバーセットの箱を抱えて跳んできた。
「これでいいですか?」
「はい、大丈夫です」
輝は一番大きなマイナスドライバーをチョイスすると、壊れたロッカーの鍵に近い隙間に差し込む。
次に縁を支点にして、持ち手に思い切り体重をかけた。
すると、わずかずつながら、徐々に隙間が広がっていく。
バンッ――
勢いよくロッカーの扉が開き、同時に鍵の部分が落下する。
彼女は驚いたように輝を見たあと、ロッカーの中身を確認した。
「ひぇーっ、ありがと……! マジ感謝!!」
彼女は何度も頭を下げた。
「ウチ、開け方、全然思いつかなかったわ……」
「ぜんぜん、気にしないでください。それにロッカー壊しちゃったし」
その横で黒部が、ばつが悪そうに話しかけてくる。
「大丈夫ですよ。これは我々の責任なんで! それより、本当にご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」
朝陽と輝は笑っているが、金髪の彼女はやや涙ぐみながら言った。
「せめてお礼をさせて。近くにデカフェのメニューが豊富なお店があってさ、ちょうどランチだし、よかったら奢らせて。ウチのオススメなの!」
朝陽と輝は、最初そこまでのこともないからと遠慮したが、金髪の彼女の熱心さに断り切れず、厚意に甘えることにした。
三人が向かったのは、スタジオからほど近いデカフェ専門のカフェ。
晩秋という季節の中、木の温もりが感じられる店内には、光がやわらかく差し込み、妊婦でも安心して飲めるドリンクメニューが豊富に並んでいた。
三人はランチセットの温野菜メニューに加え、輝は野菜ミックスジュースを、朝陽はハーブティーを、金髪の彼女はホットのノンカフェインラテを注文し、テーブルにつくと自然と会話が始まった。
先に輝と朝陽が自己紹介をする。
続いて金髪の彼女は背筋をピンとさせ、丁寧に言葉を選ぶように話し始めた。
「改めまして、ウチ、白鷺能美。いま23で、こんど2人目が24週なの」
バリバリの金色に髪を染め、細かいデザインのネイルを足指にも施し、その見た目も口調も、まさにザ・ギャルママといった雰囲気を醸し出している。
朝陽が興味深そうに身を乗り出す。
「2人目なんですね。上のお子さんは何歳なんですか」
「3歳の男の子。今日ダンナが遊園地に連れてってくれてて……その隙にヨガに来たんだけど、まさかあんなことに、みたいな?」
能美は恥ずかしそうに下を向く。
輝は、落ち着いた声で言葉を添える。
「ヨガスタジオだし、フィットネス機器があるから、メンテ用にドライバーくらいはあるんじゃないかなって。そうしたら、ドンピシャだったわけで」
「あーなるほど! マジ天才かよ……」
能美は輝に尊敬のまなざしを向けた。
「でも思ったより、派手に扉が外れて、驚いた」
「うん、あたしも。でもかーやちゃん、動きすごくすごく力強かったよ!」
輝は朝陽の、その言葉を聞いて、焦った。
そしてごまかすように笑う。
「ははは、てこの原理だから、少しの力で、ってハズなんだけどなぁ?」
そこへ能美は輝のニックネームが気になったのか、話しかける。
「てゆーか、輝ちゃんって同学年? いまの、かーやちゃんって呼び方、マジカワイイんですけど!」
「早生まれだから、そのはず」
「えー、あたしが一番上じゃないの? もしかして」
三人は食事を口にしながら、わいわい語り合っていった。
話題は自然と、夫や家庭のことへと移っていく。
朝陽は、少し照れながらも楽しそうに話す。
「うちの夫、最近はあたしの体調を気にしてくれるんだけど、気にしすぎて逆に疲れる時があって……」
能美は大きく頷き、笑いながら返した。
「あるある! ウチも1人目のときは、ダンナが『何かあったらどうしよう』って、ずっとそわそわしてて……でも今は慣れすぎて、逆に放置気味ってゆーか」
「でも、さっきみたいなことがあると、やっぱり頼りになるのは夫というか」
「それは確かに」
会話は愚痴半分、惚気半分。
妊婦同士だからこそ共有できる、軽やかで温かい空気がテーブルを包んでいた。
輝は、そんな二人のやり取りを静かに聞きながら、時折相槌を打ち、笑顔を見せている。
聞き役に徹するその姿は、一方で二人の話にどうしても届かない部分を浮き彫りにする。
輝が複雑な事情を抱えてることなど、朝陽も能美も知る由がなかった。
「本当にありがと! また連絡するわ!」
そうはいっても、きょうは輝に、もう一人の「マタ友」ができた日になったのは事実である。




