第二十三週・マタニティクラス
※この作品はフィクションです。症例をはじめとする医療情報・法的制度など現実の事象に着想を得ていますが、実在のものとは異なり、いっさい関係ありません。
本日は、大学病院がオンライン開催する「母親学級」がある。
自治体の保健センターや医療機関で実施されるマタニティ向けの出産・育児研修会であるが、呼び方も様々で、父母揃って参加できる会というものも多いらしい。
今回、輝は病院からの案内もあり、自宅で会議アプリを使って臨むことになった。
従来からある現地開催型は依然として主流ではあるが、母体の体調であったり、遠隔地でスケジュール的に難しいなどの理由で、移動が難しい人向けに設けられているという。
多人数の場ではなく、外出せず、しかもプライベート空間にいながら参加できるため、精神面での負担を軽減できるそうだ。
開始前、輝は鏡の前に立ち、ゆっくりとウィッグを手に取った。
オンラインとはいえ、ライブ通信により、顔出しをすることには変わりない。
髪が伸びるまでは、どうしても男性っぽい名残が出てしまう。
だから、朝陽とのビデオ通話同様、ウィッグをつ被り、軽いメイクを施す。
服は、淡いグレーのマタニティパンツに、白いゆったりしたトップス。
動きやすくて、実習にも向いている。
まさか、朝陽とのやり取りのために練習した対策が、そのまま役立つことになるとは思わなかった。
「……今日は、これで行こう」
輝は、リビングのテーブルに設置したタブレット端末を点けて、いざ開始時間を待つ。
しばらくして定刻に近づくと、オンラインルームが入室可となり、ボタンをタップして認証を済ませる。
すると、画面はいくつかに分割された、ウインドウが映し出される。
輝は、就活などでこの手のアプリには馴染みがあり、音声などの動作確認も難なくこなした。
そして改めてウィッグを整える。
母親学級に参加する妊婦としての装いは、少し照れくさいが、輝自身に嫌がる気持ちは微塵もなく、この1か月間での心境の大きな変化を物語っていた。
画面には、さまざまな妊婦たちが映り始めている。
20代後半の若く、割と派手な髪を何度も掻き分ける人。
30代の様子で、後方を子どもが通過し注意しているお母さん。
40代とみられる落ち着いた雰囲気の女性も。
こうして見ると、自分が一番若い。
「……ほんとに、いろんな人がいるんだ」
講義が始まると、まず白衣姿の男性医師が現れた。
「妊娠中の体調管理について、今日は詳しくお話しします」
ホルモンバランスの変化。
妊娠糖尿病のリスク。
切迫早産の兆候と予防。
輝はノートを開き、真剣にメモを取る。
「……これまでの食生活、ちょっと反省しないと」
コンビニ食、甘いもの、夜更かし。
娘のために、変わらなければ。
次の、栄養士の講義では、食事のバランスや摂取量の目安が示された。
食品サンプルの写真が映し出され「この量が一食分です」と説明されるたびに、輝は自分の「なんとなく」で食べていた日々を思い出し、ヒヤッとする。
さらに理学療法士より、運動についての話。
「マタニティヨガやスイミングは、体調管理にとても有効です。ただし、激しい運動や無理な動きは避けましょう。参加は当院の医師にご相談ください」
講師の声は穏やかで、でも芯がある。
輝は、ヨガのポーズを取る妊婦の画像を見ながら「……体、動かさなきゃな」と思った。
後半はグループワーク。
画面が少人数モードに切り替えられ、4人ずつのグループになり、それぞれの妊娠生活について話し合う。
輝のグループでは――
「私は、仕事しながらなんとかやってます。でも、通勤がつらくて……」
「うちは上の子がいて、今回は二人目。でも、年齢が離れてるから、また一からって感じです」
「40代で初めての妊娠なので、毎日が不安で……でも、夫がすごく支えてくれてて」
輝は、自分の番が来ると少しだけ躊躇した。
「……学生で、実家にいます。母がすごく支えてくれてて、なんとかやれてます」
それだけを伝えた。
でも、画面の妊婦たちからは優しい言葉をかけられる。
「若いのにしっかりしてるね」
「うちは実家遠くて。お母さんがそばにいるの、羨ましいです」
「体力あるのってメリットだよ」
なるほど、この研修はこうやって他の妊婦さんと交流する目的も兼ねてるのか、と納得する。
「……妊婦って、本当にいろんな人がいる。でも、みんなそれぞれの形で頑張ってる」
輝はノートを見返しながら、静かにつぶやいた。
◆
部屋に戻った輝は、バッグを置くとベッドに腰を下ろし、スマホを手に取った。
朝陽に、今日のことを伝えたくなったのだ。
画面を開き通話ボタンを押すと、すぐに声が聞こえてきた。
「わー、こんにちは! 寒くなってきたねぇ」
「こんにちは。今日は外出られないよ。だからね、オンラインで母親学級に参加したんだ。初めてで緊張したけど、すごく勉強になった」
「えっ、母親学級! どうだったの? あたしも今度参加する予定だから気になる〜」
相変わらずな彼女の明るさに、輝の肩の力が少し抜けた。
「ホルモンバランスの話とか、妊娠糖尿病のリスクとか……食事のこともすごく詳しくて。正直、今までの食生活を反省……」
「わかるよ〜! あたしも仕事柄、栄養バランスとか敏感になりがちだもん。だから、自分でもレシピとかクッキングとかアップしてるんだけどね。でもさ、運動の話とかもあった?」
輝は、講義で見たヨガのポーズを思い出した。
ゆったりとした呼吸、無理のない姿勢。
あれなら自分にもできるかもしれない――
そう思った瞬間、ふと口が開く。
「あった。マタニティヨガとかスイミングがいいって。ちょっと興味出てきたり」
「ヨガ! いいね! 実はね、来週、うちの市の駅近で無料体験会があるの。よかったら、一緒に行かない?」
その言葉が耳に入った瞬間、輝の胸がふっと温かくなった。
「誘われた」という事実が、嬉しかった。
けれど――
その直後、胸の奥に小さなざわめきが生まれた。
「どうしよ……」
ヨガ。
体を伸ばす。
姿勢を整える。
人前で、ゆっくりと動く。
――自分の身体は、一般的な女性ではない。
ウィッグの下はショートヘア。
胸は妊娠のおかげで膨らんでいるけれど、骨格は男性のまま。
ピッチリしたヨガウェアを着れば、何より男性の部分を隠しきれない。
「……あ」
輝はスマホを持つ手を少し強く握った。
朝陽の前で、この姿を見せることになるのだろうか。
今、話をしてる通話や、母親学級のようにオンラインではない。
返事を返そうとして、言葉に詰まった。
行きたい。
でも、怖い。
その二つの気持ちが胸の中でせめぎ合う。
電話の向こうで、朝陽はきっと何も知らずに楽しみにしている。
輝は深く息を吸い、ゆっくりと告げた。
「先生にやっていいか相談してみるね」
◆
夕方のキッチン。
窓の外は少しずつ薄暗くなり、街のイルミネーションがちらほらと灯り始めていた。
輝はエプロンをつけて、煮物の火加減を確認する。
母が仕事から帰ってくる前に、夕食を整えておきたかった。
「……いつまでも頼りっぱなし、ってわけにもいかないからな」
冷蔵庫の中の食材を見て、母の好きな味付けを思い出しながら、手を動かす。
お金の心配は大丈夫と鷹子は言うが、本来ならとっくに内定が決まり、来春の入社に向けて色々準備を進めている時期である。
それが、秋の段階で未定というのは、相当まずい状態だったとの自覚もある。
もっとも、いまはお腹の子最優先だから、それどころの話ではなくなってしまったのだが。
ヨガの話に関しても身体の問題だけでなく、そもそも金銭的余裕がないと受講できるのかもわからない。
そうこう思いを巡らせているうちに玄関の鍵が開く音。
鷹子が帰ってきた。
「ただいま。……あら、もう夕食の準備してくれてたの?」
「うん。今日は母さん直伝、ぶりの煮物つくってみた」
「わ、ありがとう! やっぱ和食よねぇ」
鷹子は匂いにつられると目をキラキラさせ、すぐに満面の笑みで手を洗いに向かった。
食卓に並んだ料理は、米飯に加え、ぶりの煮物、味噌汁、ほうれん草のおひたし。
母がダイニングの椅子へ座ると、先に座っていた輝は静かに口を開いた。
「……さっき、母親教室参加してさ、いろんな人がいたよ」
母は箸を止めて、目を見つめてきた。
「……そう。どうだった?」
「俺の髪も服装も、誰も気にしてなくて、講義の中身に集中できたよ」
「でしょう? これからはいよいよ、身の回りの準備に取り組まなくちゃね。健康維持のこともあるし」
「そうそう。だから、今日の夕食も味の調整をして、薄味にしてるんだ。減塩必須って言われて」
「適度に体も動かさなきゃね」
「うん、それで相談があって。もし明日の検診で許可が下りるようなら、マタニティヨガやってみようかと思うんだけど……」
「ヨガ?」
ここでも鷹子の箸が止まる。
「そう。それで、単刀直入に言うと、費用のことなんだよね。ただでさえ、子どものことでお金かかるのに、まだ学生だから育休とかの手当ても出ないし。当面は無職? そういう身分だから」
輝が訴えたのは、ヨガ教室への月謝の話だった。
輝の父が現在、海外単身赴任中だが、それなりの所得を稼いでいて、正直、食べていくだけなら問題ない。
だが、大学の学費も無奨学金で両親に出してもらっていて、それも卒業してようやく子育てが終わるはずだったのに、子どもは無職で、孫まで生まれるというのだ。
出産費用や児童手当など、支給がないわけではないが、やはり自分で稼いだ金でカバーできるものは払いたい、というのが輝の正直な気持ちだった。
「だから、そういうのは、なるべく自分で払いたいなぁって」
輝がそこまで語ったところで、鷹子は間髪入れずに結論を述べた。
「じゃあこうしましょう。実はあんたが食費として、家に入れてくれてたバイト代の一部。あれ毎月貯めていたのね。なんかあった時のために。それをここで使えばいいじゃない?」
「え? それは?」
そんなお金があったとは、つくづく親の心子知らず、である。
「本当はね、車の免許とか、マイカー買うのに使ってもらおうと思ってたのだけれど、あんた就活長引いて、全然免許取りにいけてなかったでしょ? ……今思ったけれど、あんた先に車の免許とって、就職先の選択肢増やしとくべきじゃなかったの?」
「今それ言う!?」
2人は冗談混じりの会話を交わす。
とにかく、金銭面での心配はなくなった。
一応、自分で稼いだ金には違いなかったが、免許や車の話は図星で、輝にとって耳が痛かったのは間違いない。
さらに鷹子が朗報を口にする。
「……そうそう。今日、連絡があったの。お父さん、やっぱり年末休みにならないと帰国できないって」
輝はは思わず顔を上げた。
「……ほんと?」
「ええ。結局、一時帰国はまだ先。先にあんた、時間を作って、お父さんとじっくり話しておいた方がよくない?」
◆
翌々日、曇り空で肌寒い気候の中、輝は1週間ぶりに大学病院へやってきていた。
今度は産科外来で23週目の定期受診。
オンライン参加の母親学級とは異なり、実際に来院しての診察だ。
相変わらずほとんど人がいない待合の静かな空気の中で、順番を待つ。
輝はバッグの中に入れたメモ帳をそっと開いた。
そこには、母親学級で学んだこと、そして朝陽からの「ヨガ無料体験会の誘い」に対する迷いが走り書きされている。
診察室に入ると、担当医の三国が穏やかに迎えてくれた。
「調子はどうですか? 23週目ですね」
「だいぶ気持ちが落ち着いてきました」
既にエコーで赤ちゃんの様子を確認し、娘の心音が規則正しく脈動していることを確認していた。
「順調ですよ。胎児の発育も問題ありません」
三国の言葉に、輝は胸を撫で下ろした。
診察が一段落したところで、輝は少し勇気を出して口を開く。
「あの、こちらの母親学級で見た……マタニティヨガに興味があって。参加するには、医師の許可が必要だと聞いたんですが……」
医師は頷き、カルテに目を落とした。
「あなたの場合、妊娠経過は安定しています。無理のない範囲であれば、ヨガは問題ありませんよ。ただし、体を締めつける服装や、強い負荷のポーズは避けてくださいね」
「……はい」
医師は続けた。
「安定期に入っていますから、次の受診からは2週間後で大丈夫です。何かあればすぐに連絡してくださいね」
その言葉にまずは安心するが、これだけで輝の懸念材料が払しょくされるわけではない。
輝はその足で相談室へ向かった。
担当カウンセラーの飛騨に、今日の診察を踏まえ、ヨガの体験会の誘いについて話すためだ。
「ヨガ……いいじゃないですか。身体を整えるのにも、気分転換にもなりますよ」
飛騨は優しく言った。
しかし、輝は少し視線を落とし、言いにくそうに続ける。
「……でも、ヨガウェアって、身体のラインが出ますよね。俺……腰のラインは丸くなってきたけど、股間は……まだ、男性のままで……」
言葉が途切れた。
しかし飛騨は、すぐに輝が言いたいことを理解したように頷いた。
「なるほど。でもね、諦める必要はありませんよ」
「……え?」
「ヨガウェアにもいろいろあります。股間のラインを目立たせない工夫ができる服装もありますし、
インナーでカバーする方法もあります。あなたが『どう見られたいか』に合わせて選べばいいんです」
輝は目を瞬いた。
「……隠すためじゃなくて、自分が安心して動けるように、ですか?」
「そうです。あなたが安心して参加できることが一番大事です。身体の構造はあなたの一部であって、恥じる必要はありません。でも、周囲に配慮したい気持ちも大切にしていい」
その言葉は、輝の身体へ静かに染み込んでいった。
「……行けるかもしれない」
「行きたい、と思っているんでしょう?」
「……はい。」
「じゃあ、工夫してみましょう。お母様とお金の話もできたのですから、何が可能なのか、一緒に探してみてください」




