第二十二週(前)・ヴァレイ
※この作品はフィクションです。症例をはじめとする医療情報・法的制度など現実の事象に着想を得ていますが、実在のものとは異なり、いっさい関係ありません。
ピーチたろー、という名前でSNSに登録してから、数日が経った。
輝はここ数日、夜になると自然とスマホでアプリを開くのが日課になっていた。
投稿には年齢層や妊娠週数、あるいは生後何ヶ月などといった情報が表示される。
ハンドルネームとはいえ、輝にとっては、相手の状況がわかるのは大いにありがたかった。
それぞれの時期に、世の母親たちは、どんな悩みを抱え、どんな解決法があるのか。
輝は特に妊娠中の食事について興味があり、時短の調理法だったり、味付けと栄養バランスの工夫など、目からウロコの情報がてんこ盛りだった。
「母さんに今度材料揃えてもらって、自分で作ってみるか......」
バイトを辞めてしまったことで、現在の状態は言い方は悪いが、タダ飯食いである事は間違いなかった。
しかも実家暮らしで、これまで母に頼りきりだったこともあり、料理スキルは正直乏しい。
体調優先なのは当然であるが、いま時間の余裕があるうちに、最低限の自炊可能なレベルまでは持っていきたかった。
何より、せめて食事ぐらいは、パートとして働いてもいる母の負担を減らしたかった。
輝がそんなことを考えながら、マタニティ向け料理の投稿写真を眺めていると、ひときわ興味深いユーザーが目に入る。
ヴァレイ(20代前半・妊娠20週)
22である自分と同じくらいの世代。
週数は2週後だが、比較的近い。
投稿内容も、一般的な和洋中だけでなくスイーツまで幅広く及び、しかもプロ顔負けなクオリティー。
また投稿されている文章も、基本的に明るく、特に料理に関しては、本人の楽しんでる様子がこちらにも伝わってくるほどだった。
「……すごいな。調理過程の写真まで載ってるから、わかりやすい」
興味を引かれ、ヴァレイのタイムラインを追ってみる。
基本的に食べ物の話題が多いが、その合間合間には、やはりマタニティー特有の悩みも綴られていた。
「最近、胎動が増えてきて嬉しいけど、夜眠れない日もあります」
「つわりで、お料理作っても、食べたくないと思っちゃうのがツラいです」
「周りに相談できる人が少なくて……ここが心の支えです」
その言葉に、自分の胸がきゅっと締めつけられた。
――ああ、この人も不安なんだ。
気づけば、返信を書いていた。
「自分も22週で、最近よく動くようになりました。眠れないときは、たまに横向きに寝ると少し楽でしたよ」
数分後、通知が鳴る。
「ピーチたろーさん、ありがとうございます。近い週数の方からの言葉、とても心強いです」
その一文だけで、輝はほんわかした。
それからは、ピーチたろーとヴァレイのやりとりは自然と増えていった。
「今日は検診でした。赤ちゃんは元気に動いてました」
「よかったですね! うちは四日後が検診です」
「体調はどうですか?」
「悪阻は、ここ数日は落ち着いてきました」
短いやりとりでも、画面越しに誰かとつながっているというだけで、心がふっと軽くなる瞬間があった。
自分は、ネット上では「ピーチたろー」として存在している。
性別も事情も誰にも言っていない。
ただ、妊娠している一人の人間として、同じ境遇の人たちとつながっている。
それが、どれほど救いになるか――
輝自身が一番驚いていた。
そして次の夜も、ヴァレイからメッセージが届いた。
「ピーチたろーさんは、周りに相談できる人はいますか?」
輝は少し迷ってから、正直に返した。
「母と、病院のカウンセラーの方がいます。でも……それ以外の人と話せるのは、ここだけです」
すぐに返事が来る。
「あたしも同じです。だから、こうして話せるのが嬉しいんです」
その言葉に、輝はスーッと静かに息を吸った。
画面の向こうにいる誰かと、同じ時間を共有しているという事実が、自分の心をそっと支えていた。
しかし、次の一文を見た瞬間、心臓が跳ねる。
「ピーチたろーさん、いつか直接お会いできたら嬉しいです」
その一文を見た瞬間、自分の心臓が跳ねた。
「.......リアルで、顔を合わせる?」
彼女とは、オンラインでのやりとりは自然に深まっていた。
近い週数、同じ年代。
悩みも喜びも似ていて、文字でやりとりしているだけで、心が落ち着く。
会ってみたい――
そう思う気持ちが、確かに自分の中にもあった。
けれど同時に、胸の奥に重い不安が広がる。
「……俺、見た目……どうなんだろう」
声は男性としては高めで、女性としては低め。
中性的とも言え、違和感は少ない。
問題は――外見だった。
鏡の前に立つ。
ショートヘアの自分が映る。
妊娠しているとはいえ、顔立ちは化粧もしておらず、まだ男性の面影が濃い。
もちろん、妊婦なので腹は膨らみ、バストやヒップも丸くなってきてはいるのだが、そもそも肩幅も広いし、骨格も完全に男性のそれだ。
「……このままじゃ、女性に見えないよな」
マタニティ服を着れば、パッと見はそれらしく見える。
でも、髪型は男性としか言いようがない。
ヴァレイは20代前半。
自分と同世代の女性。
投稿を見る限り、社交的で明るい人だ。
だからこそ――
会ったときに驚かれるのではないかという不安が強くなる。
「……どうしたらいいんだろう」
オンラインではピーチたろーとして自然に話せる。
でも、現実の自分は――
そのギャップが、怖かった。
スマホの画面に戻る。
ヴァレイのメッセージが、優しく光っている。
「無理にとは言いません。それに、まずはアプリの通話機能でお話しするところから、の方が安心ですし」
会いたい。
でも、怖い。
その両方が、胸の中で揺れていた。
そこでヴァレイの言うとおり、とりあえず通話からスタートすることにした。
「じゃあ、昼間なんですけれど、明日の14時ごろ、通話しましょうか?」
昼間なら静かな夜と違って迷惑になりにくいだろう。
鷹子もパートに出かけているので、聞かれる心配もない。
輝なりに考えた、通話できる時間帯を書いて送ると、すぐに「おねがいします!」とレスがついた。
◆
翌日、いつものようにSNSを開き待機しているとスマホの着信音が鳴る。
このSNS独特の曲なので、ヴァレイからの電話とすぐにわかった。
「こんにちはっ! 改めまして、ヴァレイです。ピーチたろーさんですか?」
その声を聴くと同時に、自分の胸がざわついた。
20代前半であるのは判っていたことだが、もっと大人びたものとの予想は外れ、まるでアイドルのような、かわいい声だったからだ。
意を決して、輝も応じる。
「あ、改めまして、ピーチたろーです。よろしくお願いします」
「わぁ、思ってたよりもハスキーなお声ですね! ちなみに、年齢お尋ねしてもだいじょぶですか?」
「3月に誕生日なんで、満だと21なんです。実は大学4年で...…」
「え、わかっ……! あ、ごめんなさい。ちょっとびっくり。あ、あたしは24になったところなんで、2学年違いですね」
「そうなんですか! じゃあヴァレイさん先輩じゃないですか!」
「たしかに。あ、でも先輩後輩みたいな感じで敬語でおしゃべりするのって、なんか堅苦しいんですよねぇ。もしよかったら、タメ語でお話しませんかー?」
「いいんですか? じゃあ、遠慮なく、よろしくです!」
「あ、それまだ敬語っ!」
やはりヴァレイは気さくな女性だ。
会って話をしてみたい。
そう思う気持ちが芽生えたのは事実だ。
だが――
同時に、胸の奥に重い影が落ちる。
(……ヴァレイさん、人妻なんだよな)
プロフィール欄には「既婚・第一子妊娠中」と書かれている。
当たり前ではあるが、妊娠したのだから、よほどの事情がない限り、パートナーがいるのは自明の理だった。
やましい気持ちを抱いてはいけない。
そんなことは、頭ではわかっている。
自分は妊娠している。
そして、その娘の父親であり、母親でもある。
そんな状況で、誰かに恋愛感情を抱く余裕などない。
――はずなのに。
(……俺、まだ男なんだな)
その事実が、改めて胸に突き刺さる。
自分は男性として生きてきた。
身体は変わりつつあるが、心も、身体も、男性としての反応が確かに残っている。
それが、ヴァレイとのやりとりで浮き彫りになってしまった。
(……こんな気持ち、持っちゃいけないのに)
罪悪感と戸惑いが入り混じり、胸が苦しくなる。
2人の会話の裏で、輝は揺れていった。
◆
検診日、輝は検診後の相談室の扉を叩いた。
「どうぞ」
飛騨はいつもの穏やかな笑顔で迎えてくれる。
輝はソファに腰を下ろし、しばらく黙ったまま視線を落とした。
「……今日は、少し言いにくいことなんですけど」
「大丈夫ですよ。ゆっくりで構いません」
輝は深呼吸をして、言葉を絞り出した。
「SNSで……近い週数の妊婦さんと話してて。その人、既婚者なんですけど……俺、なんか……変な気持ちになってしまって」
飛騨は驚くことなく、静かに頷いた。
「変な気持ち、というのは?」
「……いつか会えたらって言われて。自分も……会ってみたいって思ってしまって。でも、その人は人妻で……俺がそんな気持ちを持つのは、間違ってるって……」
飛騨は少し真剣な表情になって、口を開く。
「北越さん、それは『間違い』ではありませんよ」
「……え?」
「あなたは今、妊娠という特別な状況にありますが、同時に20代前半の若い男性でもある。誰かに好意を抱くこと自体は、とても自然なことです」
輝は息を呑んだ。
「でも……」
「大切なのは、自制して『行動に移さないこと』です。気持ちが生まれるのは自然。でも、その気持ちをどう扱うかは、あなたが選べます」
飛騨の声は落ち着いていて、責める気配は一切なかった。
「それに……あなたは今、孤独を感じやすい時期です。女性としては、いわゆるマタニティブルーもあります。誰かに優しくされると、心が揺れるのは自然です」
輝は胸の奥がじんわりと熱く焼けるような感覚になった。
「……俺、弱いですね」
「でもね、弱いからこそ、人間らしいんですよ。そして、あなたはちゃんと自分の気持ちを制御しようとしている。それはとても大切なことですよ」
輝はゆっくりと頷く。
「……ありがとうございます。少し、楽になりました」
飛騨はいつものように、優しく微笑んだ。
「会うかどうかは、焦らずに時間をかけて考えましょう。通話で、何度もお話をされて、相手の方を知って。それに相手の方は、あくまでマタニティ女性同士の立場で、お声がけされてるはずです。その気持ちは大切にしないといけませんね。北越さんが落ち着いて、準備が整ってからでも遅くはないはずです」
輝はお腹に視線を向けた。
娘は静かにしていたが、その存在が、自分を現実に引き戻してくれる。
一番、守らなきゃいけないものに、絶対に辛い思いをさせてはならない。
その事実が、輝の心を支えていた。
◆
その夜、輝は母に相談を持ち掛けた。
「母さん……ちょっと話したいことがある」
鷹子は夕食の片付けをしながら、振り返る。
「どうしたの、輝」
「SNSで……近い週数の妊婦さんと話してて。その人が……会ってみたいって言ってくれて。でも、俺……見た目が……」
「その人は、あんたをどう見ているの?」
「まだ自撮り写真は見せてはいないけれど……たぶん、普通の妊婦の女性として」
鷹子は少し考え、ゆっくり頷いた。
「なるほどね。じゃあ、輝が本当に『女性として見られたい』なら、そのための準備をすればいいだけよ」
「……準備?」
「そう。髪型は今すぐ伸ばせないけど……ウィッグならどう?」
輝は目を見開いた。
「ウィッグ……」
「自然なロングでも、ショートボブでも選べるし、顔立ちの印象も柔らかくなる。マタニティ服と合わせてお化粧すれば、普通の妊婦さんに見えると思う」
輝はしばらく黙り込んだ。
ウィッグをかぶり化粧をし、女として人前に出れば、それは、男としての姿を手放すことでもある。
衣装のこだわりは、ナチュラルで楽になる、という建付けでクリアできた。
しかし今度は、自分から女の姿になろうとする点で大きく異なる。
でも――
今の輝は、娘を守るために、そして相手を不安にさせないために、女性として振る舞う、という選択をする必要があった。
「……うん。今回は……ウィッグをかぶって、女性として接しようと思う」
鷹子は真顔で、それでいてどこか暖かさも併せ持つようなトーンで返す。
「だいじょうぶ? 今まで姿で悩んでいたけれど、本当にそれでいいのね? でも、輝がそう決めたなら、わかった。手伝ってあげる」
母も輝の意思を尊重してくれている。
「……ありがとう、母さん」
翌日、ウィッグを買って帰った鷹子と一緒に、輝は洗面所の鏡の前に立っていた。
「じゃあ、まずはかぶってみましょうか」
鷹子が差し出したのは、自然なブラウンのショートボブ。
派手すぎず、落ち着いた色合いで、誰にでも馴染みそうなデザインだ。
輝は少し緊張しながらウィッグを手に取った。
「……なんか、変な感じだな」
「最初はみんなそうよ。まぁ、かぶってみて」
母の言葉に背中を押され、輝はウィッグをそっとかぶった。
鏡の中に映った自分は――
確かに、いつもの「北越 輝」とは違って見えた。
男性的なショートヘアのときよりも、顔の印象が柔らかくなる。
頬のラインが少し隠れるだけで、雰囲気が変わる。
「……あ、意外と……」
「ほら、言ったでしょう。あとは、ちょっとだけメイクね。濃くしなくていいの。あくまで自然に見える程度で」
「メイクなんて……やったことないよ」
「大丈夫。私が教えるから」
鷹子は化粧ポーチを開き、まずはBBクリームを手に取った。
「これは肌を整えるだけ。ファンデーションほど重くないから安心して」
指先で軽く伸ばされると、肌の赤みやムラが自然に消えていく。
「……すごいな、これ」
「でしょ? 次は眉。輝は眉がしっかりしてるから、少し整えるだけで十分よ」
母は眉尻を少しだけ描き足し、形を整えた。
「最後に、ほんの少しだけ色を足すわね」
薄いピンクのリップを軽く乗せる。
塗ったというより、血色がよく見える程度。
鏡を見た輝は、思わず息を呑んだ。
「……俺、こんな顔になるんだ」
男性の面影は残っている。
でも、ウィッグと軽いメイクで、女性として見ても不自然ではない姿になっていた。
鷹子は優しく微笑む。
「輝。あなたは今、妊娠している母親でもあるのよ。その姿に合わせて外見を整えるのは、何もおかしくないわ」
輝は再び腹に手を当てた。
すると、娘が小さく動いた気がした。
「……うん。これなら……ヴァレイさんに顔を見せても、驚かれないかな」
「大丈夫。あなたはあなたのままでいい」
鏡の中の自分を見つめながら、輝は呼吸を整えた。




