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俺の中にいる桃のつぼみ  作者: ニボシ
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第二十一週・雨上がり

※この作品はフィクションです。症例をはじめとする医療情報・法的制度など現実の事象に着想を得ていますが、実在のものとは異なり、いっさい関係ありません。

 市の保健センターは、平日の午前中にもかかわらず静かで、どこか病院とは違う、生活の匂いがする場所だった。


「北越さん、こちらへどうぞ」


 案内された小さな相談室には、落ち着いた雰囲気の女性が二人座っていた。


 一人は保健師・加賀かが

 柔らかな物腰で、白衣ではなく淡い色のカーディガンを羽織っている。

 もう一人は、市の子ども健康課の職員・ 白山しらやま

 書類を整えながらも、輝に向ける視線は真剣だった。


「本日はお越しいただきありがとうございます。まずは……大変驚かれたことと思います」


 白山の言葉に、輝は小さく頷いた。


「……はい。でも、ちゃんと話さないといけないと思って」


 隣に座る鷹子が、そっと輝の背中に手を添える。

 白山は書類を開きながら、慎重に言葉を選んだ。


「まず、妊娠届と母子健康手帳の交付についてですが……戸籍上『男性』の方への交付は、当市では前例がありません」


 輝の胸がぎゅっと縮む。

 やっぱり、そうだ。


「ですが――」


 白山ははっきりと輝を見た。


「法律上、妊娠している方は『母性保護』の対象となります。条文という点では、運用面の変更で対応して、あなたを『母性』として扱うことで対応できます。これは差別ではなく、あなたと赤ちゃんを守るための方法です」


 輝は息を呑んだ。


 母性として扱う――


 その言葉は、どこか不思議な響きを持って胸に落ちた。

 男として生きてきた自分。

 でも、今は妊娠している自分。

 あくまで事実に基づいた言い方だった。

 加賀が優しく微笑み、話を引き継ぐ。


「北越さん、体調はいかがですか? 外出や日常生活で困っていることはありませんか」

「……最近は、少しずつ慣れてきました。でも、悪阻ってやつなのかな……夏になってからずっと気持ち悪くて。最初、夏バテかなぁって思ってたんですが」

「いま妊娠21週ですから、だいたい落ち着いてくる傾向がありますが、無理は禁物です。外出は短時間にして、必ず休憩を挟んでくださいね」


 加賀はメモを取りながら続けた。


「お腹が大きくなるにつれて、腰痛や息切れも出てきます。もし痛みが強いときは、産婦人科に相談してください」


 輝は少しだけ肩の力を抜いた。


「……ありがとうございます」

「それから、精神面も大切です」


 加賀は柔らかい声で言った。


「病院のカウンセリングを受けているのは、とても良いことです。『男だからこうあるべき』という考えに縛られず、今のあなたの状態を自然に受け入れることが大事ですよ」


 その言葉は、飛騨の言葉と重なって聞こえた。


 ――今の自分を否定しないで、自然に過ごすこと。


 輝は改めて心に留める。

 白山が書類を揃え、輝に向き直る。


「では、妊娠届の提出についてですが……こちらで必要事項を記入していただければ、母子健康手帳は通常通り交付できます。 諸々、内部処理で対応しますのでご安心ください」

「……本当に、もらえるんですか」

「もちろんです。あなたは妊娠している。それだけで、母子健康手帳を受け取る権利があります。それと、保険証も兼ねたマイナンバーカードは、次のカードの有効期限更新分からは、券面にあった性別欄の記載がなくなっています」

「え! そうなんですか! 確かもうすぐカードを交換するタイミングだったはず。じゃあ、身分証として見せるだけなら、そもそも気にしなくていい……」


 輝の胸に、静かな安堵が広がった。

 母がそっと輝の手を握る。


「よかったね、輝」

「……うん」


 自分でも声が少し涙声になったのがわかった。


 ◆


 21週目の検診日午後は雨だった。

 そのかわり季節外れの南風が吹き、気温は摂氏20度を超えている。

 産婦人科の待合室は本来、そろそろ暖房も本格稼働させるようなひんやりした空気に包まれるはずであったが、実際には逆に蒸し暑さも感じるほどだった。


(厚手のトレーナーは失敗だったかな?)

 

 輝は天気予報を確認せず、病院に来てしまったことを少し後悔した。

 若干汗もかいているのだろうか。

 輝の心拍は静かに高鳴っていた。


「七三〇番さん、どうぞ」


 看護師に呼ばれ、検査室に入る。

 エコー台に横になり、腹部を露出すると、冷たいジェルが塗られた。


「では、見ていきますね」


 超音波検査技師がプローブを当てると、モニターに白と黒の影が浮かび上がる。

 最初はぼんやりしていたが、角度が変わるたびに輪郭がはっきりしていく。

 小さな頭。

 背骨の弧。

 手足が動く様子。


「……動いてる……」


 輝は思わず息を呑んだ。


「順調に育っていますよ。大きさも週数通りです」


 技師の声は落ち着いていたが、輝はモニターに映る胎児の姿を見せつけられ、何かが揺れていた。

 そして――


「性別ですが……女の子ですね」


 その瞬間、輝の心にびくっと衝撃が走った。

 女の子。

 自分の中にいる、小さな命。

 自分が父親であり、同時に母親でもあるという、奇妙で、でも確かな現実。

 モニターの中で、彼女が小さく手を動かすのが見える。


「……俺の……娘……」


 声が震えた。

 技師はにこやかに声をかけつつ、さらに角度を変える。


「ほら、ここ。手を握って口元に持っていってますね。果物食べてるみたい。元気ですよ」


 輝は画面に釘付けになった。

 胸の奥が熱くなり、視界が滲む。

 今まで「妊娠している」という事実は、どこか遠い出来事のようだった。

 胎動を感じても、まだ夢のようだった。

 でも――

 今、目の前に映っている。

 自分の子どもが。

 自分の身体の中で生きている、小さな命が。


「……守らなきゃ……」


 思わず漏れた言葉に、技師が優しく頷く。


「その気持ちがあれば大丈夫ですよ。あなたはもう、立派な親です」


 親。

 その言葉が胸に深く染み込んだ。

 検査が終わり、着替えながら輝はお腹にそっと手を当てた。


「……女の子、か」


 その後、産婦人科へ移り、三国からはこの検査写真をもらう。


「前回のエコーでは、赤ちゃんの角度の関係で、まだわからなかったんですけれど、今日ハッキリと映りましたね。本当に順調です」 


 診察を終え、輝が診察室から出てくる。

 母の鷹子が待合室で立ち上がり、輝の顔を見るなり表情を和らげた。


「どうだった?」

「……元気だった。すごく……ちゃんと動いてて……それで……女の子だって」


 鷹子は目を細め、輝の両肩に手を置いた。


「そう……よかった...…輝...…」

「……うん」


 父親としての責任。

 母親としての守護。

 その両方が、自然に心の中に芽生え始めていた。

 輝はエコー写真を何度も見返し、静かに息を吸うと、お腹を優しく撫でた。


  ◆


 その後、輝は相談室の扉を開いた。

 飛騨はいつもの穏やかな笑顔で迎えてくれる。


「北越さん、お席へどうぞ。今日はどんな気持ちで来られましたか」


 輝は少し息を整え、ゆっくりと話し始めた。


「……さっき、エコーで……娘の姿を見て。あ、女の子だったんです! なんか……すごく、実感が湧いて……俺、父親でもあるし、母親でもあるんだって……初めて、ちゃんと感じたんです」


 その言葉には、戸惑いと、確かな温かさが混じっていた。

 飛騨は柔らかく微笑む。


「とても大切な気づきですね。どちらかでなければならない、という考えから、少しずつ自由になってきているように感じます」


 輝は小さく頷いた。


「……それで、服のことなんですけど」

「服、ですか?」

「はい。今まで……男としてのこだわりがあって。『男なんだからこういう服を着るべきだ』って、自分で自分を縛ってた気がします」


 飛騨は静かに耳を傾ける。


「でも……もう、身体も変わってきてるし……何より、娘を守るためには、ちゃんと体調管理しないといけない」


 輝はさらに膨らみつつある胸に手を当てた。


「だから……男としてのこだわり、いったんやめようと思います。今の自分に合う服を着て、無理しないで過ごすほうがいいって……やっと思えました」

「それは『諦め』ではなく、『選択』ですね。あなたが自分のために、そして娘さんのために選んだこと。とても前向きな変化です」


 輝は少し照れたように笑った。


「……母にも言われました。『男女とか関係なく、身体を冷やさない服を着なさい』って。今までなら反発してたと思うんですけど……今は、なんというか、素直に聞けるんです」

「それは、あなたも赤ちゃんも、ふたりとも守るためだから、ですね」


 飛騨は言葉を続ける。


「服装は、外の世界とのコミュニケーションでもあります。だからと言って、それを無理に、強引に保とうとすると、身体にも心にも負担がかかってしまう。でも、今のあなたが、あなた自身の選択で、無理にならない服を選べば、周囲との関係も自然に保てるかもしれません」


 輝はその言葉を噛みしめる。


「……確かに、そうかもしれません」

「北越さんは今、慣れない環境で毎日悩みの連続だと思います。だからこそ、一人ぼっちにならないことがとても大事です。頼れるところは、遠慮なく頼ってください」


 輝は深く息を吸い、ゆっくり吐き出した。


「……はい。もう一人で抱え込むのはやめます。娘のためにも、ちゃんと周りと関わっていきます」


 飛騨はいつもの優しい笑顔で頷いた。


「その気持ちがあれば大丈夫です。でも、北越さん。覚えておいてくださいね。導ける正解って一つだけじゃないんです。途中でやり方が違うと思ったら、また少しずつ変えればいいんですから」


 雨はやみつつあった。

 カウンセリングを終えて帰宅の車中、まだ前面のワイパーが時折左右に動いている。

 鷹子はハンドルを握りながら、輝に話しかける。


「輝、カウンセリングどうだった?」


 その声に、輝は少しだけ緊張を解いた。


「……母さん、ちょっと」

「どうしたの?」


 輝は深呼吸をして、ゆっくりと、そしてはっきりと、言葉を紡いでいく。


「……服のことなんだけどさ。今まで、男だからこうあるべきって、どこかで思い込んでたんだと思う。でも……いったん、そのこだわりは手放そうと思う」

「そう……飛騨さんと話して、そう感じたの?」

「うん。身体も変わってきてるし、娘のためにも無理しないほうがいいって……それに、あくまで俺の場合だけど、こだわりにしがみついてると、『自分自身が苦しくなる』って気づいたんだ」


 輝は再び、胸に手を当てた。


「だから、ユニセックスの服も、メンズの服も着るけど……普通のマタニティ服も、試してみようと思う。身体に合うものを選んだほうが、楽だし……安心できるから」

「輝……それは自分を大切にするってことね」

「……そう思う。娘を守るためにも、今の自分に合う服を着るのが一番だって……やっと思えたんだ」


 信号待ちのタイミングで、鷹子は吐息を漏らした。


「嬉しいよ。あんたが自分の身体と心をちゃんと見つめて、無理のない生き方を選ぼうとしているのが伝わってくるもの。いつまでも気を張ってたら、疲れちゃうもんね」


 輝は少し照れくさそうに笑った。


「でも母さんが買ってきてくれた服、着てみたら意外と楽でさ。メンズのああいうのも悪くないなって……だからどっちも着るよ」

「じゃあ、今度一緒に選びに行きましょう。あんたに合うもの、もっと探してあげるから」

「……うん。お願い」


 丁度雨が上がり、夕日に照らされて、暗闇が迫る東の空には虹が二重に架かっているのだった。


  ◆


 夜。

 輝は自室のベッドに腰を下ろし、スマホを手に取る。


「……妊娠 中期 生活 注意点……」


 検索欄に打ち込むと、無数の記事が表示される。

 食事、睡眠、体重管理、運動、メンタルケア――

 知らなかったことばかりで、読み進めるほどに不安と安心が入り混じるが、スクロールしていくうちに、ふと目に留まるものがあった。


「出産・育児向けSNSアプリ」


 妊婦や子育て中の人たちが、ハンドルネームで交流し、日々の悩みや喜びを共有しているという。


「……こんなの、あるんだ」


 興味本位でアプリを開くと、そこには妊娠週数ごとのコミュニティや、初産の不安を語り合うスレッド、赤ちゃんの写真で出産報告する投稿が並んでいた。

 温かい言葉が飛び交い、誰かが誰かを励まし、同時にたわいもない悩みから、金銭事情、果ては旦那の愚痴まで、多種多様な文章が寄せられている。


「……俺も、登録してみようかな」


 もちろん、戸籍上は男性だ。

 自分の状況をそのまま書くつもりはない。

 ただ、同じように妊娠を経験している人たちの声を聞きたかった。

 ハンドルネームを入力する画面で、輝は少し迷う。


「名前……どうしよう」


 ふと、エコーで見た娘の姿が脳裏に浮かぶ。

 検査技師の話していた、あの小さな手を口元に持っていく「果物を食べているみたい」な手のかたち。

 

「……ピーチたろー、でいいか」


 桃を意味する英語。

 実は輝、桃が大好物である。

 実際、鷹子に頼みこみ、キッチンの収納棚の中には桃の缶詰が常備されているほどで、これまではおやつ代わりに度々口にしていた。

 もっとも食事面で、フルーツなど甘いものの食べすぎは控えるよう三国からは言われしまい、さすがに爆食というわけにはいかなくなったが。

 それに「たろー」を付け足すわけだから、まんま「桃太郎」だ。

 確かに自分は男子でもあるので、ある意味、嘘はついてない。

 が、そのネーミングセンスには賛否両論あるかもしれない。


「ピーチたろー」


 その名前を入力し、登録ボタンを押す。

 画面が切り替わり、「ようこそ、ピーチたろーさん」と表示された瞬間、心が少しわくわくした。

 コミュニティを覗くと様々な時期の妊婦たちが、胎動の話や体調の変化を語り合っている。


「21週目、最近よく動くようになりました!」

「腰痛がつらいけど、赤ちゃんが元気だと嬉しい」

「性別わかりました!女の子でした!」


 輝は思わず微笑んだ。


「……俺と同じだ」


 投稿を読み進めるうちに、自分だけが特別なのではないという感覚が、少しずつ心に広がっていく。

 もちろん、輝の状況は誰とも違う。

 父親であり、母親でもあるという特異な立場。

 身体の構造も、妊娠の経緯も、誰とも重ならない。

 それでも――

 同じく妊娠している人としての悩みや喜びは、確かに共有できる。

 その事実が、輝の胸に静かな安心をもたらした。


「……ここなら、少しは……話せるかもしれない」


 画面を見つめる傍らには、きょうのエコー写真が置かれ、そこには胎内で元気に育つ娘の姿があるのだった。


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