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俺の中にいる桃のつぼみ  作者: ニボシ
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第二十週(後)・自宅

※この作品はフィクションです。症例をはじめとする医療情報・法的制度など現実の事象に着想を得ていますが、実在のものとは異なり、いっさい関係ありません。

 二日後、輝は一定の回復がみられたことで退院し、在宅療養に切り替えることになった。

 救急搬送された原因は貧血だったようで、適切な処置が功を奏し、苦痛も緩和している。

 だが当分は毎週、産婦人科を受診し、カウンセリングも同時に受けることになった。

 それに三国医師から食生活の改善について、特に念を押された。

 

「食べられるもの、食べられないもの、か」

 

 母の運転で帰宅中、輝は病院で貰った「妊娠中の食事」という冊子を開き、パラパラとめくりつつ呟く。

 カフェイン摂取など、妊婦が避けるべきものというのは、知識としては心得ていた。

 だがいざ実践するとなると、その選択肢が想像以上に狭いものだと気づかされる。

 同時に、肉料理やこってり系のラーメンなど、これまで大好物だった食べ物への執着が薄れてきていたことに、自分でも驚いた。

 これが、よく聞く「好みの変化」なのだろうか、と半分嫌になりつつも、妙に腑に落ちている。

 そうこうしているうちに自宅に到着し、玄関の扉を開くと、空気がどこかいつもより重く感じられた。

 扉の外が台風一過で秋晴れなのとは、まったくの対照的に。

 病院で聞いたこと、飛騨との対話、母との言葉のやり取り――すべてが胸の奥で渦を巻き、落ち着く場所を探しているようだった。


「輝、ちょっと部屋で採寸しましょう。服を買うにも、サイズがわからないと始まらないから」


 鷹子の声はいつも通り穏やかだったが、その節々にある緊張を輝は感じ取っていた。

 部屋に入り、カーテンを閉めると、鷹子は裁縫箱からメジャーを取り出す。


「……じゃあ、上着とシャツ、脱いでくれる?」


 輝は小さく頷き、ゆっくりと服を脱いだ。

 トランクスだけを残し、鏡の前に立つ。

 その瞬間、息が詰まった。


「……こんなに……」


 まっ平だったはずの胸板は、入院前よりさらに丸みを帯び、脂肪が柔らかくついている。

 腰部は、ただ太ったというより、尻に向かって丸く膨らんでいる。

 胸板は、どこか女性的なラインを描き始めていた。

 そして腹は、へそを中心に丸く膨らみ、その形状がはっきりしてきた。

 妊娠20週――医師の言葉が現実味を帯びて迫ってくる。

 そして、腰から太ももにかけてのラインも、ふっくらとしてきており、体重増加だけでは説明できない変化が、そこにあった。

 だが、トランクスの下には、男性としての象徴がそのまま残っている。

 そのアンバランスさが、今の自分の心をそのまま表しているようで、心臓がきつくなるようだった。


「輝……ちょっと腕を上げて」


 鷹子は努めて平静を保ちながら、メジャーを胸の下に回した。

 手つきは慣れているはずなのに、どこか慎重で、震えを抑えているようにも見えた。


「……痛くない?」

「うん、大丈夫」


 胸囲を測り、次に腹囲へ。

 鷹子の手がそっとお腹に触れた瞬間、輝は思わず息を呑んだ。


「……本当に、赤ちゃんがいるんだね」


 鷹子の声はかすかに震えていた。

 喜びとも、切なさともつかない複雑な感情が滲んでいる。

 輝は視線を落とし、かすれた声で言った。


「……母さん、俺……こんな身体になってたなんて、全然気づかなかった」


 鷹子は腹囲を測りながら、そのまま言葉を返す。


「でもね……今はもう、わかってる。あんたの身体は、あんたのせいじゃないし、誰のせいでもない。こうして変わっていくのは、命を守るためなんだから」


 輝は、膨らみ続けている胸が熱くなる。

 鷹子はメジャーを巻き取りながら、明るい声を作った。


「さて、サイズはわかった。買い物は私が行ってくる。あんたが行く必要はないし、店員さんにも『うちの子のです』って言えば済む話だから」

「……そんなのでいいの?」

「いいのよ。それに、必要最低限、身体を保護するためのものだし。何日か前にも言ったけれど、マタニティ用のインナーは、どうせ下に隠れるものだから。外側はあんたが着やすい、男性用のゆったりした服を選べばいいだけ」


 輝は少しだけ肩の力を抜いた。


「……母さん、ありがとう」

「当たり前でしょ。あんたは私の子なんだから」


 鷹子はメジャーを片付けながら、ふと輝のお腹に視線を落とす。


「……それにね。あんたのお腹を見ると……やっぱり、嬉しいのよ。孫がいるって思うと」


 輝は目を伏せ、その表情は見せない。


「……俺も、いつか……この子のことを嬉しいって思えるのかな」

「ゆっくりでいいの。焦らなくていいのよ」


 そして、数時間後―――

 鷹子が買い物から戻ってきたのは、カラスが鳴き、夕暮れが差し込む頃だった。

 紙袋を抱えた母の姿は、どこか使命を果たした人のように見えたのは、気のせいだろうか。


「輝、ただいま。必要なもの、そろえてきたよ」


 袋をテーブルに置くと、鷹子はひとつひとつ丁寧に中身を取り出していく。

 まずは下着類。

 地味なカラーで柔らかい素材のブラジャーは、いわゆるスポブラみたいなもので、胸を締めつけずに支えるためのものだと店員に勧められたらしい。

 最初、女性ものの下着と聞いて、派手な彩色やデザインを想像していた輝は、やや拍子抜けした。


「胸が発達してきてるから、嫌かもしれないけれど、これは必須。肩こりや痛みの予防にもなるって」


 輝は胸元に手を当て、少しだけ思い返す。

 確かに、最近は重さを感じることが増えていたし、擦れると痛いのも事実だった。

 次に出てきたのは、落ち着いた色のショーツ。

 前側が大きく、お腹を包み込むような形になっている。


「これも派手なのは避けたから。こういう色なら、あんたも抵抗少ないでしょう?」

「……うん。ありがとう」


 鷹子は続けて、外側に着るための衣類を取り出した。

 そこには、ゆったりとしたシルエットのTシャツや、体型を拾わないラージサイズのパーカーなどが並んでいた。


「店員さんに『お腹が大きい息子で動きやすい服を探してる』って言ったら、いろいろ教えてくれたの。メンズのでも、体重が多い人向けのになっちゃったけれど」


 輝は思わず目を見開いた。


「……これ、全部『女性用』じゃないんだ?」

「そう。あんたが無理に『女性の服』を着る必要はないし、そもそもサイズ合わないでしょ? 元の身長も170近いんだし。身体を守れて、自然に見えるものを選べばいいの」


 鷹子は、淡い色のジャケットを手に取った。


「これなんて、前を開けて着ても違和感ないかな。素材も柔らかいから、動きやすいと思う。シャツとかも、冬になるからゆったり系の防寒着を羽織れば、露出も少なくて済むし……」


 輝は手に取り、そっと触れた。

 確かに、見た目は普通の服というより、力士でも着られそうな大きさのものだ。

 妊婦用だとは誰も思わないだろう。


「……母さん、本当にいろいろ考えてくれたんだね」

「当然。あんたが外に出るとき、不安にならないようにしたかったのよ。じゃあ、試してみましょう。サイズが合ってるか確認しないと」


 輝は自室に戻り、まずは下着から身につけた。

 ブラは驚くほど軽く、胸を優しく支えてくれる。

 ショーツはお腹を包み込むようにフィットし、安心感があった。

 だが同時に、この上ない羞恥心が芽生えてくる。

 いつまでもこの格好でいるのは身が持たないと悟った輝は、次に母が選んだ上下のアウターを着てみた。

 鏡に映る自分は――確かに、妊娠しているとはわからない。

 胸の丸みも、お腹の膨らみも、布の落ち方で自然に隠れていた。


「……これなら、多少太ったといえば、外に出ても大丈夫かも」


 輝は小さく呟いた。

 扉を開けると、鷹子が心配そうに待っていた。


「どう? 苦しくない?」

「うん。すごく楽。……なんか、安心する」


 鷹子はほっと息をつく。


「よかった。これで、少しは気持ちも軽くなるね」

「……母さん、本当にありがとう。俺……一人だったら、絶対に無理だった」

「一人になんて、しないよ! 絶対」


 その言葉に、輝は目を伏せた。

 不安はまだ消えない。

 でも――母がそばにいる。

 その事実が、輝の心を静かに支えていた。


 ◆


 週の後半、輝は母が購入してくれた服を着て、再び病院の相談室前に座っていた。

 前回よりは少し落ち着いているものの、胸の奥にはまだ重い不安が沈んでいる。


「八〇一番さん、どうぞ」


 プライバシーに配慮し受付番号で呼ばれると、飛騨がいつも発する柔らかな声に迎えられ、輝はソファに腰を下ろした。

 部屋の空気は静かで、外のざわめきから切り離されたようだった。


「その衣装、お似合いですよ」


 飛騨は優しく声掛けをする。

 一方、輝は少し考え事をするかのように右耳の後ろへ掌を回し、困惑した表情のまま口を開いた。


「きょうは、これからの生活のことを……就活のこと、大学のこと……バイトも休んでて。このまま出産ってなったら、どうなるんだろうって……」


 飛騨は頷き、輝の言葉を遮らずに受け止める。


「じゃあまず、大学の単位はどうですか?」

「必須科目はすべて取ってます。卒論も進めてて……卒業は、たぶん大丈夫です」

「それは大きな安心材料ですね」


 飛騨の声は落ち着いていて、輝の不安を少しずつほどいていく。


「就職活動についてですが……今は無理に進めなくていいと思います」

「……やっぱり、そうですよね」

「はい。妊娠20週という状況では、身体的にも精神的にも負担が大きいです。企業側も、今の状態では選考を進めるのは難しいでしょう。『今は休む時期』と考えてください」

「……でも、仕事しないと……お金が……」

「金銭面の不安は当然です。ですが、妊娠が確認されている以上、自治体からの支援も受けられます。母子手帳の交付もその一つです」

「……母子手帳……?」


 その言葉に、輝は複雑な気持ちを抱えたまま目を伏せた。


「俺……男なのに、母子手帳って……」

「『母』という言葉に引っかかるのは自然です。デリケートな部分ですもんね、言葉って。でも、あれは『妊娠している人と子どもを守るための手帳』です。一番の目的は、あなたと赤ちゃんの安全が最優先ですから」


 輝はゆっくりと息を吐いた。


「……来週、また産婦人科の検査があって。ほかにも、なんか市役所に妊娠届っていうのを出さなくちゃいけないって聞いたんです。妊婦向けの行政サービスを受けるためにって」

「ええ。そのときに母子手帳自治体の窓口で交付されます。不安なら、先に電話で事情を伝えてから、お母さまと一緒に行くのが良いでしょう」


 さらに飛騨は少し間を置き、輝の懸念を先取りしていたかのように質問をする。


「それから……性別に関することも、気になっていますか?」


 輝は驚いたように顔を上げた。


「……正直、わからないです。俺は男として生きてきたし……でも、身体は……」

「混乱するのは当然です。もし将来的に『戸籍上の性別を変更したい』という気持ちが生まれた場合、病院として診断書を作成することができますよ」

「……診断書……?」

「はい。現在行っているカウンセリングの記録や、医師の診断を踏まえた上で、家庭裁判所に申し立てを行うことができます。もちろん、今すぐ決める必要はありませんし、変える必要がなければそれで構いません。『選択肢がある』ということだけ覚えておいてください」


 飛騨の話を聞いた輝には「選択肢」という言葉が、強く強く刺さる。

 今回の件は、そもそもが不可抗力だった。

 自分で抗うすべも許されない、強制イベントが連続する展開で、好むと好まざるとにかかわらず的な事態にこれまで輝は押し流されてきた。

 それが、ここへきて服の件といい「自分で決められる」ことが増えてきたのだ。

 

「……俺、全部一人で抱え込んでた気がします」

「抱え込むには大きすぎる問題ですよね、これって。だからこそ、こうしてお話ししに来てくれることが大切なんですよ」


 飛騨は続ける。


「北越さん、あなたは今、人生の大きな岐路に立っています。でも、それは『終わり』ではなく、『これから』どう生きるかを選ぶ時期なんです」


 輝は飛騨のその言葉を心に刻み込み、病院を後にした。


 ◆


 さらに数日が経ち、輝の生活はゆっくりと、しかし確実に変わり始めていた。

 最初は戸惑いだらけだった下着も、若干慣れたのか、難なく手に取れるようになった。

 胸を支えるブラは肩の負担を減らし、ショーツはお腹を包み込んでくれる。

「気にしていても始まらない」という割り切りが、少しずつ心を軽くしていった。

 そして――

 飛騨の「選択し」「これから」という言葉が、胸の奥で何度も反響していた。

 だが、それはそれとして、現実的な問題にも向き合わなければならない。

 まず、バイト先には「体調不良による退職」という形で連絡を入れた。

 実際、入院していたこともあり、店長は驚きつつも、無理をしないようにと温かく送り出してくれた。

 就職活動も、事実上終了した。

 そもそも11月になろうと言うのに、未だに内定が取れていなかったのだ。

 おまけに、今の身体では説明会にも面接にも行けない。

 飛騨の「今は休む時期」という助言が、輝の背中をそっと押してくれた。

 だが――

 次に待っていたのは、行政とのやり取りだった。

 妊娠届と母子手帳の交付。


「……俺、戸籍上は男なのに受理されるのか?」


 母子手帳という言葉に、どうしても引っかかりがあった。

 だが、飛騨の言葉が頭をよぎる。


 ――妊娠している人と子どもを守るための手帳。


 それでも、前例がないのは事実だった。


「母さん……役所に相談したほうがいいよね」

「そうね。事前に話しておけば、向こうも準備できると思う」


 母と一緒に市役所へ電話を入れ、事情を説明した。

 すると、担当者は少し驚いた様子だったが、丁寧に対応してくれた。


「前例はありませんが……担当の保健師が部屋をとって面談をしたいとのことです」

「面談……?」

「はい。妊娠届の扱い、母子手帳の交付方法、支援制度などを整理するために。お母さまと一緒に来ていただいて構いません」


 電話を切ったあと、輝は深く息を吐いた。


「……なんか、すごいことになってきたな」

「大丈夫。ちゃんと話せば、きっと理解してくれるわ」


 母の言葉は温かかったが、輝の胸には緊張が広がっていた。

 自分が「妊娠している男性」であるという事実を、初めて「社会」に向けて説明することになる。

 それは怖かった。

 でも、いつまでも向き合わず逃げてばかりではいられない。


「……行くよ。ちゃんと話す」

「ええ。一緒に行きましょう」


 輝はお腹にそっと手を当てた。

 その瞬間――

 お腹の奥で、ぽこっ、と何かが動いた。


「……え?」


 輝は思わず言葉を失う。


「どうしたの?」


 鷹子が心配そうに近づく。


「い、今……なんか……動いた……」

「……胎動ね」


 鷹子はそっと輝の手に自分の手を重ねた。

 そのとき、また小さな動きがあった。

 まるで内側から軽くノックされたような、不思議な感覚。


「……これが……」


 輝はその後に続く言葉が出てこなかった。

 鷹子は顔をほころばせ、しかし目には涙を浮かべている。


「輝……この子、生きてるよ。ちゃんと、あんたの中で」


 輝は息を呑んだ。

 今まで「男だから」と自分に言い聞かせていた。

 妊娠していることを、どこか現実から切り離していた。

 でも――

 この小さな動きは、どんな言い訳も通用しない事実だった。


「……俺……」


 胸の奥がじんわりと熱くなり、視界が滲む。


「俺……本当に……妊娠してるんだ……」


 鷹子は輝の肩を抱き寄せた。


「そう。でもね、輝。飛騨さんも言ってたんでしょ? 『これから』って」


 輝はゆっくりと頷いた。

 飛騨の言葉が、今になって深く響いてくる。


 ――男であることを否定する必要はない。

 ――でも、妊娠している自分を否定する必要もない。


 そのどちらも「今の自分」なのだ。


「……なんか、少しだけ……わかった気がする」

「うん。輝は輝のままでいいのよ」


 鷹子の声は温かく、優しく、揺るぎなかった。

 輝はお腹に手を当てたまま、静かに息を吸った。

 胎動はもう感じられなかったが、あの一瞬の感覚は、確かに刻まれていた。


「……この子のためにも、ちゃんと向き合わなきゃな」


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