第二十週(前)・病院
※この作品はフィクションです。症例をはじめとする医療情報・法的制度など現実の事象に着想を得ていますが、実在のものとは異なり、いっさい関係ありません。
二〇二八年十月。
男子大学生・北越輝は日に日に焦りが濃くなっていた。
就活の荒波が直撃し、四年生の秋になっても、未だ内定が出ていない。
同じゼミの知人たちなど、夏休み前にはとうに内々定まで至っていて、残り少ない学生生活をバイトに費やす者、運転免許取得に挑戦する者、はては海外へ放浪に旅立つ者など各々充実しているようだった。
そんな彼らを横目に、輝は連日、セミナーに参加し面接に挑むのだが、連戦連敗。
おまけに、ここ数ヶ月はずっと体調的な違和感を抱えていて、それが本番でのミスにつながっていた。
気づけば腹のあたりが重く、胸の肉が妙に柔らかくなっている。
酒も飲まないし、食べ過ぎてもいないのに太るなんて、と最初は笑い話にしていたが、鏡に映る自分の体型は、笑い飛ばせる範囲をとうに超えていた。
もともと体育会系ではなくスポーツは苦手。
体は硬く、しかも運動といえば最近はせいぜい、駅と面接会場との間を徒歩で移動する程度だった。
「完全な運動不足だよな……」
母親の鷹子からも「もっとストレッチとかやりなさい」などと注意されるが、なかなか気が進まない。
そんなある日の就活セミナーからの帰り道、視界が急に白く霞んだ。
胸の奥がムカムカし、胃がひっくり返るような感覚。
次の瞬間、地面が迫り、誰かの叫び声が遠くで響く。
気づけば救急車の中だった。
◆
大学病院に運ばれ、そのまま入院となった輝は点滴を投与されつつ、数日間、血液検査、超音波、MRI、内分泌系の検査を次々と受けた。
幸い、食欲はそれなりにあったのが救いで、今までなら食べないような、さっぱりとした病院食も意外に満足のいくものであった。
しかし、理由がわからない不安が、胸の奥でじわじわと広がっていく。
そして迎えた検査結果の説明日。
仕事を休んで駆け付けた鷹子が心配そうに付き添い、輝は深呼吸を繰り返す。
だが、案内された先が「産婦人科」だった瞬間、輝の思考は完全に停止した。
「……え? なんで産婦人科なんですか?」
女性医師――三国は、落ち着いた声で言った。
「北越さん、驚かれるのは当然です。ですが、検査の結果、あなたの体内に子宮が存在し、現在妊娠20週であることが確認されました」
「……は?」
声が震えた。
鷹子が息を呑む音が聞こえる。
「ちょ、ちょっと待ってください。俺、男ですよ? なんで……」
三国は資料をめくりながら、しかし目線は優しく輝に向けられていた。
「北越さんの状態は『卵精巣性性分化疾患』と呼ばれるきわめて稀なケースです。これまでの検査の結果、精巣と卵巣がそれぞれ二つずつ存在していることがわかりました。遺伝子検査は1か月後の結果待ちですが、似たような症例では、たとえばあなたが胎児だった初期に、男女の双子が融合した『キメラ』である可能性が考えられます」
輝は言葉を失った。
理解が追いつかない。頭の中で「男なのに」「妊娠」「キメラ」という単語がぐるぐると渦を巻く。
「じゃあ……この子は……誰の……? 身に覚えなんてないんですが!」
輝が震える声で問うと、三国は一度沈黙し、改めて言葉を選んで応える。
「推測ですが……あなた自身の精子が、あなた自身の卵子に受精した可能性が高いです」
世界が音を失った。
母の鷹子が椅子に手をつき、かすれた声で「そんな……」と呟く。
輝は呼吸の仕方すら忘れたように胸が苦しくなり、喉が焼けるように熱くなった。
「そんな……そんなこと、ありえるんですか……?」
「通常はありえません。しかし、北越さんの生殖器官は、内側に放出できる構造があるようです。ただ、これまでは男性機能が強く働いていたため、女性機能が抑制されていたと考えられます。これまでも、血尿とかありませんでしたか? それが生理である可能性が高いです」
そういえば――数年前から、たまに数日だけ血尿が出ることがあった。
だがあまり痛みもなく終息し、その後はむしろ体調がよく、気にしていなかった。
しかも、もう半年近くなく、てっきり自然と治ったものだと思っていた。
まさか、あれが。
「……俺、気づかなかった……?」
「無理もありません。北越さんのように妊娠にまで至る例は、医学的にもこれまで報告がなく、そもそも外見的にも機能的にも男性として発達していましたから」
三国は長々と説明しながらも、輝の動揺を受け止めるように落ち着いた声を保っていた。
「そして……現在20週です。法律上、中絶が可能なのは22週未満ですが、手続きや準備を考えると、現実的にはもう選択肢には入りません」
輝の胸に、重い岩塊が落ちたような衝撃が走った。
逃げ場がない。
「……俺、どうすれば……」
声が震え、視界が滲む。
母がそっと輝の手を握った。
温かいはずなのに、その温度すら冷たく感じる。
三国は静かに言った。
「あなたの心の負担は計り知れません。ですので、心療内科のカウンセラー・飛騨を紹介します。彼女は多くの患者さんの相談経験もあります。まずは心を整えることから始めましょう」
輝は返事をすることすらできず、ただ俯いた。
自分の身体が、自分の知らないところで、自分の意思とは無関係に命を育てていた。
その事実が、胸の奥でゆっくりと、しかし確実に形を持ち始めていく。
恐怖と混乱と、そして言葉にできない感情が、渦のように輝を飲み込んでいった。
◆
カウンセリングが行われる相談室は、病院の中にありながらどこか柔らかい空気が漂っていた。
淡い木目の机と観葉植物、壁にかかった抽象画。
病室の白とは違う、落ち着いた色合いの壁紙が覆っている。
奥に見える窓の外には中庭があるものの、接近する台風の影響か、植栽が風雨で揺れていた。
「北越さん、どうぞ。座ってください」
飛騨は四十代前半ほどの女性で、声に刺がなく、聞く側に回ることを自然に心得ているような雰囲気を持っていた。
輝は深く息を吸い、ソファに腰を下ろした。だが、胸の奥のざわつきは収まらない。
「……何から話せばいいのか、わからなくて」
「順番は気にしなくて大丈夫ですよ。思いついたところからで構いません」
飛騨の、その言葉に背中を押されるように、輝は視線を落としたまま口を開いた。
「……俺、自分が何者なのか、わからなくなりました」
飛騨は頷き、続く言葉を待つ。
「男として生きてきて……でも、身体の中には女の部分もあって。しかも腹の中に子供がいるだなんて……そんなの、どう受け止めればいいのか……」
ぐちゃぐちゃになっていた感情を言語化にした瞬間、彼の目からは涙があふれだす。
「俺自身は『俺』なのに、身体は男でもあり女でもある。そんな自分を……どう扱えばいいのか、わからないんです」
飛騨はすぐに答えを押しつけるようなことはしなかった。
少しだけ間を置き、柔らかく語り掛ける。
「北越さんが感じている『揺らぎ』は、とても自然なものです。身体の情報が、これまでの自己認識と大きく食い違ったのですから。混乱するのは当然です」
輝は拳を握った。
「でも……これから産婦人科に通わなきゃいけないんですよね。俺、見た目は完全に男です。そんな俺が妊婦さんたちの中に混じって座ってたら……絶対、変な目で見られますよ」
その言い回しからは、恐怖が滲んでいる。
「俺のプライバシーはどうなるんですか。俺が『男なのに妊娠してる』って噂になったら……就活どころじゃない。大学にもいられなくなるかもしれない」
頭が真っ白になる、という表現がある。
だが、いまの輝の頭の中は、真っ黒だ。
外の天候のように、黒雲が渦巻き、雷鳴が鳴り、強風が吹き荒れ、横殴りの雨が四方八方から衝突してくる。
飛騨は静かに息を吸い、輝の目をまっすぐ見て話す。
「まず、病院側としては北越さんのプライバシーを最大限守る体制を取ります。産婦人科の受診も、ご希望があれば、一般の妊婦さんとは別の時間帯や個室で対応することができます」
「……そんなこと、できるんですか?」
「できます。もちろん、事前の予約は必要になりますが。今回のケースは、特に患者さんの個別事情に合わせて配慮すべきと考えます。わが院の倫理委員会でも、そのような指針が出されていますから」
輝の肩がわずかに下がった。
張り詰めていた糸が、ほんの少しだけ緩む。
だが間髪置かず、次の不安がすぐに糸を引き戻す。
「でも……それでも、俺自身が怖いんです。誰かに言われるんじゃないかって。俺が『普通じゃない』って思われるんじゃないかって」
飛騨は頷きながら、ゆっくりとした口調で、受け答えを続ける。
「北越さん、『普通じゃない』という言葉に、とても強い重みを感じているようですね」
「……だって、普通じゃないですよ。男で、妊娠してて、しかも自分の精子と卵子で……そんなの、どこにもいない」
「確かに、医学的には非常に稀です。でも、稀であることと、価値がないこと、は全く別です。北越さんは、北越さんという一人の人間であって、誰かの枠に無理に当てはめる必要はありません」
輝は唇を噛んだ。
「……でも、俺はどう見られるんですか。これから先、どう扱われるんですか」
飛騨は優しく微笑んだ。
「それを考えるために、私はここにいます。北越さんが『どう見られたいか』『どう生きたいか』を、一緒に、少しずつ整理していきましょう」
その言葉は、輝の胸の奥にゆっくりと染み込んでいった。
輝は初めて、飛騨の言葉に救われるような感覚を覚えた。
自分の中の混乱は消えない。恐怖も不安も、まだそこにある。
だが――それを言葉にしてもいい場所がある。
その事実が、輝の胸に小さな灯りをともした。
そして飛騨との対話が一段落した頃、輝はずっと胸の奥に引っかかっていた別の不安を、ようやく言葉にする決心につながる。
「……あの、もうひとつ相談したいことがあって」
飛騨は頷き、姿勢を少し前に傾ける。
話を受け止める準備が整っているという合図のようだった。
「妊娠してしまった以上、母体の安全とか……子どものことが最優先なのは、俺もわかってるんです。でも……」
言葉が喉でつかえた。
自分でも情けないと思うほど、口にするのが怖かった。
「……俺、これからどういう格好をすればいいですか?」
飛騨は驚くこともなく、むしろ自然に受け止めたように見えた。
「服装のことですね。当然、心配ですよね」
「だって……お腹が大きくなってきたら、絶対に目立つじゃないですか。男の俺が、普通の服のままお腹だけ出てたら……絶対に変に思われるし、怖いです」
輝は膝の上で手を握りしめた。
「でも、女性のマタニティ服を着るのも……なんか違う気がして。俺は男として生きてきたし、今もそのつもりで……でも、身体は……」
輝は声が震え、一呼吸おいて、いま彼がもっとも感じている本音を吐露する。
「……どうしたらいいのか、わからないんです」
飛騨は少しだけ考え、穏やかに口を開いた。
「北越さん、『男性としての自分』と『妊娠している自分』が、今はまだうまく折り合いをつけられずにいるんですよね?」
「はい……。どっちも嘘じゃないのに、どっちを優先すればいいのか……」
「どちらかを捨てる必要はありませんよ」
飛騨の声は、まるで硬くなった心をほぐすように柔らかかった。
「まず、病院に来るときの服装ですが、男性用のゆったりしたパーカーやジャケット、オーバーサイズのシャツなどであれば、お腹を隠しやすいです。性別を強調しない中性的な服装も選択肢になります」
輝は少しだけ顔を上げた。
「……そういうので、いいんですか」
「もちろんです。北越さんが自分らしいと感じられる範囲で、身体を守れる服装を選べばいいんです。無理に女性的な服を着る必要はありませんし、もちろん着たければ着ればいい」
飛騨は続ける。
「怖いと感じるのは自然です。でも、北越さんは一人ではありません。医療スタッフも、私も、お母さまも、あなたを守るために動きます。服装については、これから一緒に考えていきましょう。お腹が大きくなる時期に合わせて、無理のない選択肢を探せばいいんです」
輝は小さく頷いた。
「……ありがとうございます。少しだけ、前に進めた気がします」
「ええ。ゆっくりでいいんですよ」
飛騨の微笑みは、輝が抱えていた孤独をそっと溶かしていくようだった。
◆
相談室を出て、待っていた鷹子と合流し病棟へ戻る途中。
空いた自動ドアから外の風が吹き抜け、輝の頬にぶつかる。
その心はまだ晴れてはいない。
輝がベッドに座り込むと、付いてきた鷹子は、しばらく手をベッドのサイドレール置いたまま黙っていた。
輝はその沈黙が気になり、そっと母の横顔を見た。
「……母さん?」
「輝……ごめんね」
その声は震えていた。
「え……なんで謝るの?」
「だって……あんたをこんな身体に産んでしまったのは、私なんだから」
鷹子はゆっくりと息を吐き、視線を前に向けたまま言った。
輝は息を呑む。
「そんな……母さんのせいじゃないよ。医者も言ってたじゃん。キメラなんて、誰にも予測できないって」
「それでもよ。母親ってね、子どもに何かあったら、まず自分を責めるものだから」
鷹子は目を伏せ、唇を噛んだ。
「小さい頃、あんたが熱を出しただけで泣きそうになったのに……まさか、こんな大きなことを抱えてたなんて。運動しなさいって、無責任に云うだけで、気づいてあげられなかった自分が情けなくて」
輝は胸が締めつけられる。
思えば、建設の仕事で世界中を飛び回る父に代わり、母はずっとそばで見守っていてくれた。
一人っ子で寂しい思いをしないようにと、子どもの頃からあちこちへ遊びに連れて行ってくれたし、今も実家住まいの輝を支えてくれている。
それなのに、今は混乱し、何もできず、鷹子に苦労だけをかけている自分が、なんだか情けなくなってきた。
輝は表情を引き締める。
「母さん……俺、母さんに責められたことなんて一度もないよ。むしろ……守ってくれてるじゃん」
鷹子は小さく首を振った。
「守りたいのよ。あんたは私の子なんだから。でもね……」
鷹子はそっとお腹のあたりに視線を落とした。
「……孫ができたって聞いたとき、正直……嬉しいって思ってしまったの」
輝は驚いたように目を見開いた。
「……嬉しい?」
「うん。もちろん、あんたの身体のことを考えたら、不安や怖い気持ちのほうが大きい。でも……それでも、あんたの中に命があるって聞いて……胸がぎゅっとして……涙が出そうになったの」
鷹子は自分の胸に手を当て、静かに続けた。
「母親って、勝手ね。あんたの苦しみより先に『孫がいる』って事実に喜んでしまった自分がいて……そんな自分が嫌になる」
輝はしばらく言葉を失った。
母の気持ちが痛いほど伝わってきて、胸が熱くなる。
やや時間を置き、輝はゆっくりと言葉を紡いだ。
「……母さん。俺……正直、まだこの子のことを『嬉しい』って思えてない。怖いし、どうしていいかわからないし……自分の身体のことだって整理できてない」
鷹子は黙って耳を傾ける。
「でも……母さんが喜んでくれるなら……それは、なんか……救われる気がする」
鷹子の目が潤んだ。
「輝……」
「俺、まだ父親になる覚悟なんてないし……そもそも父親なのか母親なのかもわからないけど……でも、この子を守らなきゃいけないってことだけは、わかってる」
鷹子はそっと輝の手を握った。
「一緒に守りましょう。あんたも、この子も。私が全部支えるから」
輝はその手の温かさに、胸の奥がじんわりと満たされていく。
「……ありがとう、母さん」
「いいのよ。だって、あんたは私の大事な子で……お腹の子は、あんたにとっての大事な子なんだから」
鷹子は涙を拭い、少しだけ明るい声で言った。
「さあ、服のことだけどね。あんたも赤ちゃんも守るために、マタニティ向けのインナーは必要と思うの。お腹を支えるベルトとか。でも外側は、あんたが落ち着く格好でいいの。男性用のゆったりした服を選べば、誰にも気づかれない」
輝は小さく笑った。
「……母さん、頼りになるな」
「当たり前でしょ。伊達にあんたを育ててきたわけじゃないんだから」
ここへきて、輝は今日初めて心から笑うことができた。
不安はまだある。
未来はまだ見えない。
でも――母と一緒なら、少しずつ前に進める気がした。




