第三十八週(前)・桃花
※この作品はフィクションです。症例をはじめとする医療情報・法的制度など現実の事象に着想を得ていますが、実在のものとは異なり、いっさい関係ありません。
三月二日。
冷たい冬の終わりを告げるような、静かで穏やかな雨が、大学病院の窓ガラスを細かに叩いていた。
北越輝は、母の鷹子が運転する車の助手席に揺られ、病院へと向かっていた。
いよいよ明日、予定帝王切開の手術が行われる。
その前日入院の日が、ついにやってきたのだ。
三十八週を迎えた輝の身体は、すでに座っているだけでもお腹の重みで横隔膜が圧迫され、まともに空気を含めないような息苦しさを伴っている。
今日の輝は、すっぴんの顔に、白い使い捨てマスクを一枚つけただけの、飾り気のない姿だった。
そして、伸ばした黒髪が両肩をさすっている。
男としてのこだわりをいったん手放し、日々の生活を送るうちに、輝の地毛はすっかり伸びていた。
美容室で整えてもらったミディアムヘアの毛先が、優しく首元に触れる。
鏡の前に立つ自分は、どこからどう見ても、一人の子どもを宿した穏やかな妊婦の佇まいをしていた。
病院の受付を済ませると、すぐに産科病棟のスタッフに案内され、特別に用意された個室へと入る。
今回の輝の症例は、医学的にも極めて稀な、自家受精妊娠である。
大学病院側は、産科だけでなく、内分泌代謝科、小児科、さらには麻酔科や心療内科までを網羅した、輝のためだけの特別な医療チームを結成して明日の手術に臨むことになっていた。
病室のベッドに腰を下ろすと、鷹子が手際よく荷物をクローゼットへと移し替えていく。
スタッフから改めて説明された入院計画によると、経過が極めて順調なこともあり、手術後の合併症などがなければ、通常の帝王切開と同様に一週間ほどでの退院となる予定らしい。
案内された病室は、輝のプライバシーと精神的負担を最大限に考慮された、静かで清潔な個室だった。
通常、こうした個室には高額な「差額ベッド代」が発生してしまう。
出産一時金や自治体からの直接支払制度を利用しても、通例よりかなり高額な実費負担が生じるはずだ。
それを笑顔で「任せなさい」と引き受けてくれた両親には、感謝してもしきれなかった。
しかし、それだけではなかった。
今日の午前中、三国医師からある提案を受け、輝は一つの大きな決断をしていた。
『北越さんのケースは、今後の医学、特に性分化疾患を抱える方々の未来にとって、非常に貴重な臨床データとなります。もしよろしければ、個人情報を完全に伏せた上で、今回、さらにこの先の経過を臨床研究に協力する形で提供していただけないでしょうか。その場合、研究費から今回の個室の差額ベッド代や一部の特殊な医療費を実質補填することができます』
――俺のこの身体が、誰かの役に立つなら。
最初のうちは「普通じゃない」と絶望し、真っ黒な雲に覆われていた輝の心。
けれど、多くの大人たちに守られ、マタ友たちと励まし合う中で、自分の存在に価値を見出すことができるようになっていた。
輝は自らの意思で、その臨床研究の同意書に署名を残す。
自分の特異な身体を恥じるのではなく、同じように悩む誰かの道標にするための、それは確かな第一歩だった。
◆
午後になると、病室には入れ替わり立ち代わり医療スタッフが訪れ、明日に向けた説明と処置が次々と行われた。
まずは担当の看護師から、手術前後のタイムスケジュールが渡される。
手術を安全に行うための剃毛処置や、術前最後のシャワー浴の指示。
「今夜の二十一時以降は絶食になります。水分はお水かお茶に限り、明日の朝七時までなら飲んで大丈夫ですからね」
テキパキと、けれど優しい声で説明する看護師に、輝は静かに頷いた。
続いて、麻酔科の医師がやってきた。
手術中に使用する脊椎麻酔と硬膜外麻酔について、図を交えた丁寧な説明が行われる。
「明日は、手術台の上で背中を丸めていただき、背骨の隙間に細い針を通して麻酔薬を入れます。お腹から下は一切痛みを感じなくなりますが、意識ははっきりしていますので、生まれてすぐに赤ちゃんの産声を聞くことができます。術後の痛み止めも持続的に投与しますから、安心してください」
背中に針を刺す、という具体的な説明に、輝はゴクリと唾を呑んだ。
マスクの下で、わずかに唇が乾くのを感じる。
それでも、一つ一つの説明に「はい」と答えていくうちに、自分の輪郭が「一人の親」として研ぎ澄まされていくような、静かな覚悟が胸に宿っていった。
「輝、荷物は片付いたよ。お父さんもさっき、『現地は夜だけど、明日はずっとスマホを握りしめて待ってる』ってメッセージをくれたから」
鷹子は、ベッドのサイドテーブルに小さな桃の缶詰をそっと置くと、優しく笑った。
「ありがとう、母さん。……本当に、ここまでこれたのは母さんたちのおかげだよ」
「何言ってるの。あんたが自分の力で、この子を守ろうと頑張ったからでしょう」
夕方になり、面会時間が終わると、鷹子は「またね。一番に顔を見るからね」と言い残し、静かに病室を後にした。
パタン、と扉が閉まり、個室は深い静寂に包まれた。
夜の病院は、ひっそりとしていて、遠くで時折ナースコールの電子音が聞こえるだけだった。
輝は、支給された淡いピンクの入院着に身を包み、ベッドの上で横になった。
点滴の器具や、静かに脈打つ心拍モニターの音が、これから始まる戦いの前奏曲のように部屋に響いている。
輝はお腹の上に、そっと両手を重ねた。
横になると、自分の髪の毛が、シーツにさらりと広がる。
衣服越しに、ぽこり、と愛おしい振動が伝わってきた。
――桃花。
その名前を、頭の中で何度も反芻する。
――明日、いよいよお前に会えるんだな。
不思議なことに、恐怖は完全には消えていなかったが、それ以上に、早くこの手で抱きしめたいという強い渇望が胸を満たしていた。
「……一緒に、頑張ろうな」
輝は小さく、けれど誰もいない部屋に響く確かな声で呟いた。
お腹の桃花は、静かにその言葉を聞き届けるように、もう一度だけ優しくお腹を押し返してくる。
窓の外では、春を呼ぶ雨が静かに地を濡らし続けていた。
輝は、心地よい疲労感に包まれながら、明日という新しい始まりに向けて、ゆっくりとかみしめていった。
◆
三月三日、桃の節句。
窓の外には、朝から雲一つない美しい青空が広がり、春の柔らかな光が世界を満たしていた。
予定帝王切開の当日。
輝の朝は、静かな喉の渇きとともに始まった。
前日からの絶食、そして朝の七時以降は水分摂取も禁止されている。
乾いた唇に触れながら、輝はベッドの上で、左腕に通された点滴の針を見つめていた。
サラサラと静かに身体へ流れ込む輸液だけが、今日の彼の栄養である。
予めシャワーを浴び終え、その時を待つ。
午前九時前、病室に三国医師と、昨日説明をしてくれた看護師がやってきた。
輝は、淡いブルーの手術用ガウンに身を包み、肩まで伸びたミディアムヘアを後ろで一つに結んだ。
そして、すっぴんの顔にマスクをつけ、ベッドからゆっくりと立ち上がる。
車椅子ではなく、自分の足で手術室まで歩いていくことになっていた。
「北越さん、大丈夫ですか? 緊張していますか」
看護師が優しく声をかけてくれる。
「……はい。でも、不思議と、早く会いたいなって気持ちのほうが強いです」
一歩、一歩、歩くたびにお腹の桃花が重く揺れる。
この重みを感じながら歩くのも、これが最後なのだ。
病棟の自動ドアを抜け、厳重に管理された手術部門の重い金属扉が開く。
空気の匂いが変わり、ひんやりとした無機質な静寂が輝を包み込んだ。
案内された手術室の中央には、やや丸みを帯びた分娩手術台が置かれていた。
数え切れないほどの精密モニターや、天井から吊り下げられた巨大な無影灯が、これから始まる特別なオペの規模を無言で物語っている。
輝はスタッフに支えられながら手術台に横たわり、指示に従って横向きになり、膝を抱え込んで背中を丸めた。
「少しチクッとしますよ。動かないで頑張ってくださいね」
背骨の隙間に、麻酔の針が差し込まれる。
ツンとした独特の鈍い痛みが走り、輝はマスクの下で奥歯を噛み締めた。
ほどなくして、下半身がじわじわと温かくなり、氷の塊のようになって感覚が遠のいていく。
それからは仰向けに直され、鼻と口に酸素吸入器のマスクを装着された。
目の前には、胸のあたりを遮るように緑色の清潔なシーツの壁が立てられ、下半身の様子は完全に見えなくなっている。
感覚が完全に消失しているか、三国が冷たいアルコール綿をお腹に当てて確認する。
触られている感覚はあるが、冷たさは全く感じない。
「よし、麻酔はばっちり効いていますね。北越さん、尿の管を通しますよ」
看護師の声に続き、下半身に処置が行われる。
当然といえば当然のことだったが、挿入された導尿カテーテルは、男性用の長い仕様のものだった。
感覚が麻痺しているため痛みはなかったが、尿道を通るかすかな異物感に、自分が「男」としてこの台に横たわり、けれど「女」として今から出産するのだという強烈な事実が、頭の中に浮かび上がった。
その歪な現実を、医療チームは誰一人として奇異の目で見ず、淡々と、プロフェッショナルな尊厳を持って扱ってくれている。
その事実が、輝の心を強く支えていた。
「では、手術を始めますね。北越さん、気分が悪くなったり息苦しくなったら、すぐに言ってください。ずっと傍にいますからね」
麻酔科医が輝の頭元で優しく語りかけてくれる。
「はい……。お願いします」
メスが入った。
痛みは一ミクロンもない。
ただ、身体がわずかに揺すられ、何かが引っ張られるような、不思議な圧力だけが伝わってくる。
意識は恐ろしいほどはっきりしていた。
モニターが刻む規則正しい心拍音。医療スタッフが「血圧、安定しています」「出血量、問題なし」と冷静に交わす声。
輝は、麻酔科医と「今、地球の裏側でお父さんも起きて待ってくれてるんですよ」「それは心強いですね」などと、途切れ途切れに会話を続けた。
不思議なほど、時間は穏やかに、静かに流れていった。
三国が「少しお腹が圧迫されますよ。赤ちゃんが出ます」と声をかけた。
次の瞬間、ぐっと上体を強く押されるような感覚があった。
お腹の中から、すうっと重みが抜けていく。
――オギャアッ……!
――オギャア、オギャア……!
静まり返った手術室に、細く、けれど張り裂けんばかりに力強い産声が響き渡った。
「……あ」
輝の喉の奥から、言葉にならない掠れた吐息が漏れる。
シーツの向こうから、三国が血を綺麗に拭われた小さな、本当に小さな、赤みを帯びた赤ちゃんを抱き上げて、輝の顔の近くまで持ってきてくれた。
「北越さん、おめでとうございます。元気な女の子、桃花ちゃんですよ」
桃花は、小さな手をグーにして口元に持っていき、一生懸命に新しい空気を吸って泣いていた。
エコーで見た、あの果物を食べているような手の仕草、そのもの。
「……桃花……」
その名前を呼んだ瞬間、輝の目から、堰を切ったように熱い涙が溢れ出た。
マスクが瞬く間に濡れ、視界が激しく滲んでいく。
これまで抱えてきた、言葉にできないすべての葛藤。
男なのに妊娠してしまったという恐怖、社会からの孤立、身体が変わっていく羞恥心、命を失うかもしれないという極限の不安。
そのすべてが、娘の力強い産声によって、一瞬にして温かい光の中へと昇華されていくのを感じていた。
「生まれてきてくれて、ありがとう……。本当に、ありがとう……」
輝は涙で声を詰まらせながら、何度も、何度も語りかけた。
桃花は、まるでその声を聴き届けるように、微かに泣き声を和らげた。
小児科医に抱かれ、桃花が測定や処置のために隣室へ運ばれていく。
三国はそのまま、輝の子宮の収縮を促し、お腹を丁寧に縫合していくステップへと入った。
帝王切開の手術は、始まってしまえば実にあっけないものだった。
お腹を切って桃花が取り出されるまではわずか三十分。
縫合をすべて終え、輝が手術室の外へと搬出されるまでの時間は、全部合わせても一時間に満たなかった。
けれど、その一時間という一瞬は、輝の二十一年の人生の中で、何よりも濃密で、何よりも誇らしく、何よりも美しい奇跡の時間。
開花したばかりの桃の花のように、可憐で、力強い命が、今ここに誕生した。
輝の胸の奥には、父親として、そして母親として、この命を生涯かけて守り抜くのだという、揺るぎない確かな愛が満ち溢れていた。




