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俺の中にいる桃のつぼみ  作者: ニボシ
22/24

第三十七週・直前準備

※この作品はフィクションです。症例をはじめとする医療情報・法的制度など現実の事象に着想を得ていますが、実在のものとは異なり、いっさい関係ありません

 二月の末日。

 微かに春の匂いが風に混じる季節になっていた。

 桃花の名前の由来となった、桃の花が咲くまではまだ一か月ほど先だが、そろそろつぼみが現れ始めるかもしれない。

 北越輝の妊娠は、ついに三十七週を迎えていた。

 来週には、予定帝王切開での手術が決まっている。

 これまでは母の鷹子がコツコツと肌着や哺乳瓶などの基本アイテムを揃えてくれていたが、退院後の育児を前に、どうしても本人の意思決定が必要な備品が残されていた。

 それは、毎日使うベビーカーや抱っこ紐、そしてベビーシートといった、実際に使う者の体格や好みに左右される大きな買い物だった。


「やっぱり、あんたの身長に合わせて押しやすさを試さないとね。車に乗せる時の着脱もあるし」


 パートの休みをとってくれた鷹子の運転する軽自動車の助手席に揺られながら、輝は深くシートに身を沈めていた。

 シートベルトがお腹を圧迫しないよう、手で少し浮かせながら、ゆっくりと息を吐き出す。

 横隔膜が押し上げられ、一度に深く吸い込むことが難しくなっている。

 来週には、このお腹の重みから解放されるのだという実感が、未だにどこか現実味を欠いたまま、胸の奥でそわそわとした焦焦感を産み出していた。

 到着した郊外の大型ベビー用品店は、平日にもかかわらず、どこか柔らかい光とカラフルな色彩に満ちていた。

 輝は、母に支えながらゆっくりと降車し、腹のラインをサルエルパンツとゆったりしたアウターで自然にカバーしながら、鷹子の後に続いて自動ドアをくぐった。


「うわあ……すごいね。わたしの時とは、まるで違うわ」


 売り場に一歩足を踏み入れた瞬間、鷹子は驚いたように声を上げた。

 およそ二十年の月日は、育児を取り巻く環境やグッズを劇的にアップデートさせていた。

 鷹子が子育てをしていた当時に比べ、ベビーカーのフレームは驚くほど軽量化され、片手でボタン一つで折りたためる仕様になっている。

 抱っこ紐にいたっては、人間工学に基づいた独自のサポート機能がついており、試着した輝もその軽さに目を見張った。


「これなら、オレの体格でも肩や腰が痛くならなそう。お腹の負担も全然違うし……」

「本当にねえ。当時はもっとゴツくて重かったんだよ。それにほら、この調乳用のケトルなんて、スマホアプリと連動して温度管理ができるんだって。信じられない」


 鷹子は商品のポップを興味深そうに眺めながら、感心したようにため息をついた。

 実母の経験値は圧倒的に頼もしかったが、その母ですら、現代のシステムや機能の進化には目を白黒させている。

 そして、鷹子が何より驚いたのは、育児グッズの物理的な進化だけではなかった。


「一番の違いは、このスマホアプリだわ」


 鷹子は、売り場のパンフレットを指差した。

 そこには、体調のデータをスマホで共有できるシステムや、入院中の面会制限を補うための、オンライン立ち会い出産の案内が書かれていた。


「これがあれば、たとえパートナーが仕事で遠く離れた場所にいたり、感染症の予防で病室に入れなくても、ビデオ通話で繋ぎっぱなしにして、ずっと声をかけながら励ますことができるんだって。すごい時代になったものね」


 その言葉を聞いた瞬間、輝の胸の奥が、ほんの少しだけキュッと切なくすぼんだ。

 ――ビデオ通話で、励ます。

 普通なら、夫が妻の陣痛の痛みに寄り添い、画面越しに「頑張れ」と涙を流すのだろう。

 だが、輝には、その役割を担うべきパートナーは存在しない。

 自分は桃花の父親であり、同時に母親なのだ。

 強張った表情のまま、小さなベビーカーの車輪を試しにそっと転がしていると、輝のポケットの中でスマホが震えた。

 画面を見ると、南米のアンデス山脈にいるはずの父、剣からのメッセージが届いていた。


『輝、体調はどうだ。順調か?』


 時差があるため、あちらはちょうど夜中のはずだった。

 それでも、息子の身体と、もうすぐ生まれる孫娘を気にかけて、わざわざ連絡をくれたのだ。

 輝はすぐに、返信を送った。


『今、母さんと買い物に来てるよ。色々と進化してて、母さんが驚きっぱなし。父さん、夜中なのに大丈夫?』


 しばらくして、通知のアイコンが光り、レスが返ってきた。


『ああ、調達作業がひと段落してな。宿舎のWi-Fiが繋がったから、声がけしたんだ』

『うん、ありがとう。来週だから、なんだか実感が湧かなくて……。母さんが、今の出産はスマホでオンライン立ち会いができるって感心してたよ。まあ病院やパートナー限定とかなんだけど』


 輝が少し自嘲気味に笑いながら文字を打ち込むと、剣は少し置いて、穏やかな文体で応えた。


『そうか、わかった。……輝。俺は地球の裏側にいて、手術の瞬間に直接お前の手を握ってやることはできない。お前にとって、一緒に乗り越えるパートナーがいないことが、心細いと思う時もあるかもしれない。だがな』


 剣の書き込みには、遠く離れていても揺るがない、確かな父親としての強さがあった。


『お前が元気で、桃花が無事に生まれてきてくれれば、それだけで十分だ。俺はこうやって、お前といつでも繋がっている。お前が一人で戦っているわけじゃないってことだけは、忘れないでくれ』


 輝は、お腹の桃花を腹の上から優しく撫でながら、じっとその言葉を読んでいった。


『……うん。父さん、ありがとう』

『だからな、手術が終わって落ち着いたら、なるべく早めに桃花の写真を送ってくれると嬉しい。俺の大切な、三人目の家族の姿をな』


 剣の、その少し照れくさそうな言葉に、輝の胸の中にあった冷たい強張りが、少し軽くなった。


『わかった。じゃあ、まずはファーストショット楽しみにしててよ?』


 返信を送った後、隣でやり取りを眺めていた鷹子が、嬉しそうに目を細めた。


「お父さん、本当に楽しみにしてるね。さあ、それじゃあ桃花ちゃんを乗せるベビーシート、一番安全なやつを選びましょうか!」

「うん。……あ、母さん、この色が可愛くない?」


 輝が指さしたのは、淡いピンクとグレーのシックなデザインのチャイルドシートだった。

 桃花、という名前にぴったりな、桜のつぼみのような色合い。


「あ、本当にねえ。これなら取り付けも簡単そうだし、退院する時に車に乗せるのも安心」


 必要なものを一つ一つ自分たちの手で選び、カートに乗せていく。

 その作業は、かつて両親が、自分をこの世界に迎えるためにしてくれた準備と同じなのだと、輝は気づいた。

 そして今度は、自分が桃花のために、その準備をしている。

 ――一人じゃない。

 ――父さんも、母さんも、そしてお腹の桃花も、みんな繋がっている。

 お腹の奥で、ぽこっと、小さく、けれど意志を持った確かな胎動が響いた。

 輝は柔らかい微笑みを浮かべながら、その動きを愛おしそうに受け止めた。

 買い物を終えて外に出ると、どんよりとした冬の寒さはすっかり和らぎ、澄んだ青空から、眩しいほどの春の光が地面を優しく照らし出していた。


 ◆


 ベビー用品店を出た後、昼食を食べるため輝と鷹子はファミレスへやってきていた。

とにかく、臨月なので一動作を終えるたびに、ふうっと一息いれねばならない。

気分を落ち着かせようと、輝は席に着いてから料理が運ばれてくるまでの間、マタ友の三人グループのメッセージアプリを開いた。

 つい先日、朝陽が入院した直後は血の気が引くほど怯えてしまったが、今は多少落ち着いてもいた。


『かーやちゃん、お買い物中かな? いよいよ来週だね……! あたしはベッドの上で、自分のことみたいにドキドキして、心拍モニターの波形が上がっちゃいそう(笑)』


 朝陽からの、お茶目なメッセージ。

 そこに能美が即座に割り込む。


『あさダメじゃん(笑)。ウチは二人目なのに、かーやちの手術当日のこと考えたら、緊張でお腹減ってきた。今日マックでテイクアウトしたポテトLサイズ完食したばかりだけど!』


 思わず、輝は声を出して吹き出してしまった。

 相変わらずの二人のテンポが、重たくなりがちな臨月の気分を一瞬で吹き飛ばしてくれる。


『あさちゃん、よしみん、ありがとう。こっちもね、さっきチャイルドシート選んでる時、急に来週なんだって実感して、少しお腹がキュンってなったよ。やっぱり、メスを入れるのは正直めちゃくちゃ怖い』


 輝が正直な胸の内を打ち明けると、朝陽からのレスが優しく並ぶ。


『怖いよね……。でも、あたしも点滴のチューブに繋がれながら、いつもかーやちゃんのエコー写真を思い出してるよ。お互い、来月にはあのデカフェのカフェで、本物の赤ちゃんを隣に並べて、美味しいハーブティー飲んでるはず!』

『そうだよ! その時はウチの上のおバカ男子も引き連れて、お祝いパーティーするからね! かーやが「かーやママ」になる瞬間を、あさもウチも、全身全霊で応援してるから!』


 能美が、ふざけたウサギの安産祈願スタンプを何十個も連投してくる。

 スマホの画面を見つめながら、輝の目頭がじわりときた。


 ――あさちゃん。よしみん。


 男である自分が、女性として振る舞い、このお腹の命を産もうとしている。

 そんな奇妙で不自然な自分を、カミングアウトしてはいないとはいえ、彼女たちは、同じ「母親(マタ友)」として、ただ全力で愛し、励ましてくれている。

 その温かさが、これからの恐怖に立ち向かうための、何より硬くて強い盾になってくれる気がした。


『うん。みんなで絶対に美味しいカフェラテ飲もうね。あさちゃんも、安静頑張ってね。頑張ってくる』


 輝が送信ボタンを押すと、すぐさま二人の「任せとけ!」と言わんばかりの力強いスタンプが画面を埋め尽くした。

 隣でやり取りを覗いていた鷹子が、嬉しそうに目を細めた。


「いいお友達ができたね、輝」


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