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俺の中にいる桃のつぼみ  作者: ニボシ
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第三十六週・インフォームドコンセント

※この作品はフィクションです。症例をはじめとする医療情報・法的制度など現実の事象に着想を得ていますが、実在のものとは異なり、いっさい関係ありません。

 二月の中旬。

 暦の上では春が始まるとはいえ、窓の外にはまだ凍えるような寒風が吹き荒れ、どんよりとした灰色の雲が低く垂れ込めていた。

 妊娠三十六週、いわゆる「臨月」を迎えた輝の身体は、すでに限界に近い重みを湛えていた。

 お腹は前に大きくせり出し、歩くたびに腰の骨がきしむような鈍痛が走る。

 呼吸は常に浅く、少し動くだけで心臓が太鼓のように高鳴った。

 そして何より、輝の心には冷たい鉛のような不安が居座り続けていた。

 マタ友である朝陽が、少し前に切迫早産の恐れからそのまま緊急入院となったのだ。

 幸いにも母子ともに無事だったものの、彼女は今も絶対安静の状態で病室のベッドにいる。

 その事実が、輝に「出産とは命がけの戦いなのだ」という厳然たる現実を、容赦なく突きつけていた。

 そんな強張った心を抱えたまま、輝は大学病院の産科外来を訪れていた。

 いつも通りの丁寧な検診を終えた後、担当医の三国は、カルテから静かに顔を上げて輝を見つめた。


「北越さん、お疲れ様でした。桃花ちゃんはとても順調、位置も安定しています。……さて、今日は予定している『帝王切開』について、具体的な入院の流れと手術方法、そして同意書の説明をさせていただきますね」


 三国医師の声は、どこまでも落ち着いていて、知的な信頼感に満ちていた。

 輝はゴクリと唾を呑み、少し背筋を伸ばした。


「……はい。お願いします」


 三国は、分かりやすく描かれた図面をテーブルの上に広げた。


「まず、入院の流れから。手術日の前日に入院していただき、各種検査や剃毛、点滴の準備を行います。手術当日は、下半身麻酔します。これはお腹から下の痛みを取り除くもので、意識ははっきりしたままです。産声もその瞬間にしっかり聞くことができますよ」


 意識がある、という言葉に、輝は少しだけ緊張を覚えた。

 お腹を切られる感覚を、眠らずに経験するのだ。


「そして、切開の方法ですが」


 三国はペンで図の一箇所を指し示した。


「今回は『予定帝王切開』ですので、一般的な『横切開』を行います。縦に切るよりも少し時間はかかりますが、術後の痛みが比較的軽く、傷跡が下着に隠れて目立ちにくいという大きなメリットがあります」


 輝は、ずっと心の中で気がかりだった質問を、意を決して口にした。


「あの……傷を付ける場所なんですけど……。俺の、その、男としての部分には……影響はないんでしょうか」


 女性の妊婦であれば、恥骨のすぐ上を切る。

 だが、自分の身体には、まだ男性としての象徴が残っている。

 三国は優しく微笑み、首を横に振った。


「安心してください。切開線は、男性器のちょうど上の部分、恥骨結合の少し上になります。そこを通る神経や血管を傷つけることはありませんので、排尿などの男性としての基本機能に悪影響を及ぼすことはありませんよ」


 その説明に、輝は胸の奥のつかえが少しだけ取れるのを感じた。

 しかし、頭をよぎった別の考えが、彼に新たな言葉を促した。


「……あの、もし……。将来的に、その男性器を除去する手術を受けるとしたら……それはいつごろ?」


 言葉にしてから、輝は自分の唇がわずかに震えているのに気づいた。

 ここ数ヶ月、体内の女性ホルモンが急激に優位になっている影響からか、驚くほど急速に男性機能が反応しなくなっていた。

 朝陽とのやり取りの中で、男としての淡い恋心が友情へと綺麗に昇華したことも手伝って、輝は「自分はもう、このまま男としての身体に固執する必要はないのではないか」と考え始めていた。

 むしろ、桃花の親として、この中性的な身体を受け入れ、将来的には「その部分」を完全に除去する措置を受けることも、現実的な視野に入ってきている。

 三国は輝の目を真摯に見つめ返し、慎重に言葉を選んで答えた。


「結論から言うと、帝王切開と同時に除去手術を行うことはできません」

「……そう、なんですか」

「ええ。帝王切開は、それ自体が母体にとって非常に大きな手術です。産後は急速に縮んでいく子宮からの出血をコントロールし、全身の体力を回復させることが最優先になります。そこに、泌尿器科的・形成外科的な大手術である性別適合手術を同時に行うのは、感染症や大出血のリスクが跳ね上がるため、医師としてはできません」


 三国は、輝の落胆を和らげるようにトーンを落とした。


「もし除去を希望される場合は、産後の身体が十分に回復し、子宮やホルモンバランスが落ち着く『産後三か月から半年以降』が強く推奨されます。その時には、当院の適切な専門科をご紹介しますからね。今は焦らず、安全に出産することだけを考えましょう」


 輝は静かに息を吐き出し、ゆっくりと頷いた。


「わかりました……。その時が来たら、また相談させてください」

「ええ、もちろん。じっくり考えて選んでいきましょう」


 三国は、テーブルの上に何枚もの書類を並べた。

 手術同意書、麻酔同意書、輸血同意書。

 輝はペンを手に取り、自らの手で、自分の運命と桃花の誕生を決定づける署名欄に、一文字一文字、丁寧に名前を記していった。

 紙にペン先が走るカサカサという音だけが、診察室に静かに響いていた。


 ◆


 診察を終えた後、輝はそのまま心療内科の相談室へと向かった。

 温かいお茶の匂いが漂う部屋で、飛騨はいつもと変わらない柔らかな笑顔で迎えてくれた。


「北越さん、どうぞ。今日はお顔が少し強張っているように見えますね」


 輝はソファに深く腰掛け、両手で温かいカップを包み込むように持ちながら、しばらく黙っていた。

 けれど、胸の奥から溢れ出てくる感情を抑えきれず、ぽつりぽつりと口を開いた。


「……友人が、切迫早産で救急車で運ばれて、そのまま入院したんです」


 飛騨は相槌を打ち、輝の言葉を静かに待った。


「命に別条はなかったって聞いて、本当にほっとしたんですけど……。でも、急に怖くなってしまって。ヨガをやってる時、その人はあんなに元気で、楽しそうにしてたのに、一瞬でそんな状態になるんだって……。出産って、本当に命がけなんだなって、突きつけられた気がして」


 輝はカップを持つ手に、知らず知らずのうちに力が入っていった。


「俺……見た目は男だけど、身体の中はぐちゃぐちゃで。本当に無事に、桃花を産んであげられるのかな。もし手術中に何かあったら……俺、桃花を守りきれないんじゃないかって、毎日、夜になるとそればかり考えてしまうんです」


 震える輝の声を受け止めるように、飛騨は静かに、そして包み込むような温かさで語りかけた。


「お友達の搬送を目の当たりにして、恐怖が現実味を帯びて迫ってきたのですね。それは、本当に怖かったでしょう」


 飛騨は少しだけ上体を前に傾けた。


「でもね、北越さん。その『怖い』という感情は、決して悪いものではありませんよ。むしろ、あなたがそれだけお腹の桃花ちゃんを愛していて、何としてでも守りたいと思っているからこそ、生まれる感情なんです」

「愛しているから……ですか?」

「そうです。どうでもいいことなら、人はこれほど怯えたりしません。あなたが今、自分の特異な身体と向き合い、将来の機能除去まで視野に入れて悩んでいるのも、すべては桃花ちゃんを無事に迎え、一人の親として生きていくための覚悟の表れなんです」


 飛騨は優しく微笑んだ。


「一人で産むのではありませんよ。三国医師をはじめとする優秀な医療スタッフが全力であなたをサポートします。お母様も、地球の裏側でお父様も、そして私も、みんながあなたと桃花ちゃんを守るためにここにいます。恐怖を無理に消そうとせず、『怖いね、でも一緒に頑張ろうね』とお腹の赤ちゃんに話しかけてあげてください」


 輝は、お茶の湯気の向こうにある飛騨の目を見つめ、それから静かに息を吐き出した。

 強張っていた肩の力が、ゆっくりと抜けていく。


「……一緒に、頑張ろうね、ですか」

「ええ。赤ちゃんも、お父さんでありお母さんであるあなたと一緒に、一生懸命外の世界へ出ようと頑張っていますから」


 輝は、パーカーの上からお腹をそっと撫でた。

 すると、手のひらに、小さくぽこっと温かい振動が伝わってきた。

 まるで「ここにいるよ」と応えてくれているかのような、確かな動き。


「……うん。一人じゃない。桃花も、一緒に戦ってくれてるんだ」


 輝は顔を上げ、小さく、けれど確かな笑みを飛騨に向けた。

 窓の外では、依然として冷たい木枯らしが吹き荒れていたが、輝の胸の奥には、桃花の鼓動に似た、小さく温かい灯火が静かに宿っていた。

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