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俺の中にいる桃のつぼみ  作者: ニボシ
20/24

第三十五週・異変

前書き

※この作品はフィクションです。症例をはじめとする医療情報・法的制度など現実の事象に着想を得ていますが、実在のものとは異なり、いっさい関係ありません。

 二月の午後、ヨガ教室の窓の外はいかにもな寒空が広がり、ガラス越しに差し込む光がないためか、暖房をつけないと凍えてしまいそうな天候であった。

 輝、朝陽、能美の三人は、いつものように並んでマットを敷き、インストラクター・黒部の声に合わせて呼吸を整えていた。


「まだまだ寒くて体がこわばりやすいので、ゆっくり動いていきましょうね」


 黒部の声は相変わらず落ち着いていて、冬の空気を溶かすように優しい。

 ただ一方、輝と能美は三十四週であるため、そろそろマタニティヨガとしては「卒業」も見えてきた。

 一応、体調次第で分娩前までは可能らしいが、それでも輝にとってレッスンは今日も含めあと4回。

 出産後に医師の許可を得て、産後ヨガとして復帰するにしても、輝の場合は帝王切開なので三か月程度は間をとる必要があるという。

 みんなで取り組み過ごした、この時間がもう少しで終わってしまうとなると、やはり寂しさも出てくるものだ。

 休憩タイムに朝陽は、少し肩をすくめながら笑った。


「寒いと余計に動きたくなくなるよねー。でも冷え性とかあるから、手足は動かした方がいいんだけれど」


 輝はその横顔を見て、軽く笑い返す。


「あー、わかるわ。でも、動かないと余計に固まるし。じゃあ、こたつから出られるかというと...…」


 能美はちょっと苦笑いしながら反応する。


「でもさ、ウチなんか長男くんがいるから、なんだかんだで動くハメになっちゃうんだよねぇ。じっとしてないし」


 黒部によると、冷え性は女性の方が脂肪やホルモンの影響でなりやすいので、ヨガなどで体を動かし改善を図るのも目的の一つだそうだ。

 というわけで、後半のレッスンは、その手足をほぐすためのゆっくりとした動きから始まった。

 座って足を延ばし、両手両足を丸めたり開いたりを繰り返す。

 何回も同じ動きをリピートすることで、関節からして各々の指を暖めていった。 

 しかしその時だった。

 朝陽の表情が、ふっと曇った。

 輝はすぐに気づく。


「あさちゃん?」


 朝陽は腹部に手を当て、呼吸を浅くする。


「……なんか、急に……痛い……」


 その声は、いつもの明るさを失っていた。

 黒部がすぐに駆け寄り、朝陽の姿勢を支え横にする。


「お腹の痛みですか? 無理に動かず、このまま楽な姿勢で」


 朝陽は頷こうとするが、痛みの波が来るたびに眉が寄る。

 能美は不安を隠せず、朝陽の手を握る。


「大丈夫、落ち着いて。深呼吸して」


 そう言いながらも、声が震えていた。

 輝は隣で見守ることしかできず、胸の奥が冷たくなる。


「これはもしかして……」


 そんな思いが頭の中で渦を巻く。

 スタジオの空気は一気に張り詰め、周囲の参加者たちは動きを止めて見守っていた。

 黒部はこういう時の、危機管理のマニュアルを踏まえているのだろう。

 冷静に、かつ迅速に他のスタッフが呼ばれる。


「切迫早産のおそれがありますね。谷川さん、今から救急車を呼びます。かかりつけのクリニックや旦那さんにも連絡しますが、落ち着いて対処しましょう」


 ヨガスタジオ入会の際に必須の記入事項は、このような緊急事態のために記したものだった。

 もちろん、救急搬送などしないに越した事は無いのだが、妊娠中には、こういった事例もあり得ると輝も医師からも聞いていた。

 朝陽は横になったまま、かすれた声で呟く。


「ごめん……なんか、怖い……」


 輝は思わず手を握り返す。


「謝らないでよ。大丈夫だから。絶対大丈夫だから」


 そう言いながらも、声は震えていた。

 しばらくして救急隊が到着し、朝陽はストレッチャーに乗せられる。

 救急隊員が確認するように言う。


「ご家族の方は旦那さんですね。ではこちらが連絡先ということで。後は我々が引き継ぎます」


 その言葉に、輝は息を呑む。

 自分は家族ではない。

 付き添うこともできない。

 ただ見送るしかない現実が、胸に重くのしかかる。

 能美が朝陽の荷物を持ち、救急隊員に渡す。


「これが谷川さんの荷物。お願いしますっ」


 朝陽はストレッチャーの上で、輝と能美を見つめる。


「……ごめんね……」


 その弱々しい声に、輝の胸が締めつけられる。


「謝らないでいいよ。行って……ちゃんと診てもらって」


 救急車の扉が閉まり、サイレンが遠ざかっていく。

 輝はその場に立ち尽くし、しばらく動けなかった。

 能美がそっと肩に手を置く。


「かーや……大丈夫?」


 輝は唇を噛み、かすかに首を振る。


「……大丈夫じゃない……でも、どうしようもない……」


 ◆


 その後、輝たちは帰宅し、スマートフォンを握りしめたまま落ち着かない時間を過ごした。

 何度も画面を開いては閉じ、通知が来るたびに心臓がビクッとする。

 夜になり、朝陽からメッセージが届く。

 無事。その二文字に、輝は喉の奥に詰まっていた息をどうにか吐き出した。

 だが、安堵の後から這い上がってきたのは、心臓の奥が冷たく凍りつくような、恐ろしいほどの現実味だった。

 朝陽は三十三週。

自分よりたった二週遅いだけの、あのひまわりのように明るい女性だ。

 ついさっきまで、一緒にヨガをして笑い合い、ランチを食べていた彼女が、一瞬にして「命の危機」に瀕したのだ。

 ――出産は、命がけなんだ。

 現代の医療がどれほど発達していようとも、妊娠と出産は、常に死と隣り合わせの極限状態である。

 その厳然たる事実が、自分の身体の重みを通して、生々しく突きつけられた気がした。

 自分は男性の身体でありながら、この胎内に子宮を持ち、桃花を育ててきた。

 ここまでの経過が奇跡的に順調だったから忘れていたが、自分もまた、数週間以内に、血を流し、身体を引き裂かれるような苦痛を伴って、命を産み落とさなければならない。

 ――もし、俺に何かあったら。

 ――桃花が、助からなかったら。

 一度考え始めると、思考は真っ黒な泥沼のように輝を飲み込んでいった。

 ぎゅっとお腹を抱きしめるようにしてベッドに横たわる。

 シーツの匂いを嗅ぎながら、恐怖で身体が小刻みに震えた。

 そのとき、メッセージアプリの画面が再び静かに光った。

 発信者は、朝陽本人だった。


『かーやちゃん、よしみん、心配かけて本当にごめんなさい。点滴いっぱい打って、今は痛みも落ち着いてます。赤ちゃんも元気に心臓動いてるよ。でも……本当に怖かった。一瞬、目の前が真っ白になって、この子に何かあったらどうしようって……涙が止まらなくて』


 文字の向こうに、ベッドの上で青白い顔をして泣いている朝陽の姿が、痛いほど鮮明に浮かび上がった。

 能美がすぐにメッセージを送る。


『あさちゃん、謝らないで!! 無事で本当によかった、マジで良かったよぉ。今はスマホ見るのもツラいだろうし、とにかく何も考えないで休んで!』


 輝も、胸に渦巻く恐怖を押し殺し、画面に向かって言葉を紡いだ。


『あさちゃん、本当に本当によかった。自分のことみたいに怖かったよ。でも、あさちゃんは強いお母さんだから、赤ちゃんも頑張ってくれたんだと思う。今は自分の身体のことだけ考えて、ゆっくり休んでね』


 朝陽から、少し間を置いて返信が届いた。


『ありがとう。二人とも本当に優しいね……。でもね、ベッドで一人で天井を見てると、どうしても不安になっちゃうの。もしこのまま陣痛が来たら、あたし、ちゃんと産めるのかなって。痛みに耐えられるのかな、って……。情けないよね、もうすぐお母さんになるのに』


 朝陽のその吐露は、まさに今、輝が胸の奥底で悲鳴を上げている感情そのものだった。

 誰もが怖いのだ。

 経産婦である能美だって、二人目とはいえ、怯えていないわけがない。

 能美からのメッセージが画面を流れていく。


『情けなくなんかないよ! ウチだって一人目のとき、陣痛室で「もう無理!お腹切って!!」って叫び散らかして泣いたもん(笑)。何回産んだって怖いものは怖いよ。だから、怖いって言っていいんだよ』


 能美の飾らない、力強い言葉が、輝の凍りついた心を少しずつ溶かしていく。

 輝は、自分の膨らんだお腹にそっと右手を当てた。

 下着の中に残る男性としての証、そして、妊婦として丸みを帯びたこの身体。

 自分は「母親」なのか、「父親」なのか。そんなラベルはどうでもいい。

 自分は、この身体で桃花を抱き、命をかけて彼女をこの世界に迎えるのだ。

 輝は、これまで心療内科の飛騨や、母の鷹子から貰ったたくさんの温かい言葉を思い出しながら、スマホをタップする。


『あさちゃん。自分も実はすごく怖いんだ。毎日、夜になると、自分のこの身体で本当に無事に産んであげられるのか、不安で押し潰されそうになる』


 朝陽と能美が、静かに輝の言葉を待っているのが、画面の向こうから伝わってくるようだった。


『でも、病院のカウンセラーさんに言われたんだ。「導ける正解は一つじゃない」って。普通とか普通じゃないとか関係なく、みんなそれぞれのやり方で、目の前の小さな命と向き合えばいいんだって。あさちゃん。あさちゃんには、旦那さんもいるし、お母さんもいる。そして、俺たち「ママ友」がいるよ』


 輝は一呼吸おいて、力強く文字を打ち込んだ。


『一人じゃないよ。絶対に。だから、一緒に怖がろう。一緒に、怖がりながら、子どもを迎えに行こう』


 送信ボタンを押したあと、輝の目から、じんわりと温かい涙が溢れて頬を伝った。

 お腹の奥で、桃花がドン、と力強く、一度だけ輝の掌を押し返すように動いた。

 ――そうだな。お前も、一緒に戦ってくれるんだな。

 数分後、朝陽からのメッセージが届いた。

 そこには、文字と一緒に、涙を拭う可愛らしいキャラクターのスタンプが添えられていた。


『かーやちゃんの言葉、胸にすごく響いたよ……。涙が止まらない。そうだね、一人じゃないんだよね。あたし、この子と一緒に頑張る。かーやちゃんも、もうすぐだもんね。あたしも病室から、全力でエール送るからね!』


 能美もそれに続く。


『ウチも、二人分のパワー送る!! ギャル魂で安産祈願だよ! 三人で、絶対に元気な赤ちゃん抱っこして、またあのデカフェのお店で集まろうね!』


 スマホの画面を見つめながら、輝は声を出さずに、けれど心から笑っていた。

 窓の外の暗闇の向こうで、冷たい風は確実に和らぎ、春の確かな息吹が近づいているのを感じていた。

 不安が消え去ったわけではない。

 痛みへの恐怖も、自らの特異な身体への葛藤も、まだそこにある。

 けれど、繋がっている手が、ここにある。

 輝はスマホを胸元に抱きしめ、天井を見上げた。

 その表情には、恐怖に怯えるだけではない、一人の「親」としての静かで強い覚悟が、確かに宿り始めていた。

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