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俺の中にいる桃のつぼみ  作者: ニボシ
24/24

第三十八週(後)・祝福

※この作品はフィクションです。症例をはじめとする医療情報・法的制度など現実の事象に着想を得ていますが、実在のものとは異なり、いっさい関係ありません。

 三月六日。

 帝王切開の手術から、三日という月日が流れていた。

 病室の窓から差し込む朝の光は、日に日に春の温かさを増しているように感じる。

 術後すぐは立ち上がるだけでも傷口が激しく痛み、一歩を踏み出すのすら這うような有様だったが、日に日にその痛みは引き、だんだんと楽に歩けるようになっていた。

 同時に、輝の身体には、人間の生命の神秘としか言いようのない劇的な変化が訪れていた。

 今朝から、胸の張りが急激に顕著になっている。

 じわじわと熱を帯びるようにして重みを増した胸からは、術後すぐの黄色くごくわずかだった初乳とは異なり、サラサラとした白い乳汁がにじみ出始めている。

 量も質も、本格的に桃花を育てるための「母乳」へと変化を遂げていたのだ。


「北越さん、おっぱいの準備は万全ですね。桃花ちゃん、授乳室でお腹をすかせて待っていますよ」


 看護師に笑顔で促され、輝は優しく頷く。

 結ばずに肩のあたりでふわりと揺れるミディアムヘアの自毛を耳にかけ、ゆっくりと新生児室の隣にある授乳室へと向かった。

 授乳室の柔らかな光の中で、コットに寝かされていた桃花をそっと抱き上げる。

 数日前に比べて少し肌の赤みが落ち着き、みずみずしさを増した小さな我が子。

 ガウンをはだけてその小さな身体を胸元に抱き寄せると、桃花は本能的にちいさな口をちゅぱちゅぱと動かし、吸い付くように輝の胸に顔を埋めてきた。


「……あ、上手上手……。たくさん飲んでね、桃花」


 小さな唇がしっかりと乳頭を咥え込み、力強く吸い始める。

 胸の奥がキュンと心地よく引っ張られる感覚とともに、温かい母乳が桃花の喉へと流れ込んでいくのが分かった。

 ごくごく、と小さな喉が鳴る。

 その規則正しい吸う振動が、輝の身体全体に染み渡り、彼を心底から満たしていった。

 自分はこの子のママなのだという確かな輪郭が、授乳のたびに、より一層深く、揺るぎないものになっていく。


「本当に、輝にそっくりねえ……。おでこの形も、この可愛い鼻のラインも、あんたの赤ちゃんの時に瓜二つよ」


 午後になり、面会にやってきた鷹子は、輝の腕の中でぐっすりと眠る桃花を覗き込み、目尻をこれ以上ないほどに下げて囁いた。

 完全に桃花に溺愛している母の姿に、輝は思わずクスッと笑ってしまった。


「そうかな? オレ、こんなに可愛かった?」

「あったり前でしょう。わたしの宝物だったんだから。そしてこの子は、わたしたちの新しい宝物ね」


 鷹子はそっと桃花の小さな指先に触れ、愛おしそうに目を細めた。

 それからの鷹子の頼もしさは、まさに圧倒的だった。

 輝の着替えや必要な衣服の差し入れはもちろんのこと、実家に届いていた郵便物の整理、さらには「出生届」をはじめとする、自治体への様々な代理申請の手続きのために、仕事の合間を縫って東奔西走してくれていた。


「出生届、ちゃんと『北越桃花』で受理されたからね。これでこの子は、名実ともにあんたの娘よ」


 鷹子が手渡してくれた書類の控えに書かれた「桃花」の文字を見て、輝は胸の奥が熱くなるのを感じた。

 両親の深い理解と、惜しみないサポートがなければ、自分は今頃どうなっていただろう。

 感謝してもしきれなかった。

 輝は、ベッドの脇に置いたスマホを手に取る。

 一昨日、手術直後の混乱が落ち着いたところで、約束通り、地球の裏側にいる父・剣に向けて桃花のベストショットを送信していたのだ。

 画面を開くと、剣から熱いメッセージと、何枚もの宿舎の風景写真が届いていた。


『輝、本当に、本当によく頑張ったな。桃花の写真、仕事用のPCのデスクトップにしたぞ。同僚の外国人技術者たちに「マイ・グランドドーターだ!」って自慢して回っている。こんなに可愛い子はアンデス中を探してもいない。早く日本に帰って、この手で抱きしめたい。お前を誇りに思う』


 不器用な父が、地球の裏側でどれほど喜び、涙を流してくれたのかが、画面の文字から痛いほどに伝わってきた。

 輝は、マスクの下でそっと微笑んだ。


『父さん、ありがとう。みんなに自慢してくれて嬉しいよ。お正月、待ってるね』


 そして輝は、ずっと心の支えになってくれていた、大切なマタ友たちのグループメッセージを開いた。

 朝陽と能美には、桃花が生まれた三月三日の夜に、すぐに写真を添えて報告をしていた。

 画面には、二人からの溢れんばかりの祝福の嵐が、今も鳴り止まないかのように残っている。


『かーやちゃん!!! 本当におめでとう!!! 桃花ちゃん、めちゃくちゃ可愛い!! おめめがクリクリしてて、かーやちゃんにそっくりだよ〜!! あたし、病室のベッドの上で叫びそうになっちゃったよ。本当によく頑張ったね、お疲れ様!!』


 朝陽からの、涙の絵文字だらけのメッセージ。

 能美もそれに勢いよく続いている。


『かーやママ、マジでおめでとう!! ウチ、写真見た瞬間ガチ泣きしたからね。桃花ちゃん、完全に天使。これからよしみ叔母さんが美味しいおやついっぱい貢いであげるからね!! かーやちゃん、本当にかっこいいよ!!』


 二人の温かい、そして偏見のない「ママ友」としての祝福が、輝のこれまでのすべての苦難を、優しく抱きしめて消し去ってくれるようだった。

 輝は、ベッドの上で小さくキーボードを叩いた。


『あさちゃん、よしみん、本当にありがとう。二人のおかげで、俺は自分の身体を恥じることなく、胸を張って桃花のママになることができたよ。あさちゃん、体調はどう?』


 すぐに朝陽から、力強いメッセージが返ってきた。


『あたしもね、かーやちゃんが命がけで桃花ちゃんを産んだ姿を見て、すごく勇気をもらったの。点滴はまだ続いてるけど、お腹の張りも落ち着いてる。あたしも、かーやちゃんに続いて、絶対に元気な赤ちゃんを産んでみせるからね! 待っててね!』


 ――あさちゃん。

 輝は、お腹の傷にそっと手を当てた。

 痛みは確実に和らぎ、自らの内側からは、桃花を育てるための温かい生命力が満ち溢れている。

 つながっている。

 自分を産んでくれた母。地球の裏側で見守る父。

 そして、共に戦う大切なマタ友たち。

 輝は、抱き上げた桃花の頬に、自らの柔らかな髪が触れるのを感じながら、そっと目を閉じる。

 これから始まる桃花との日々が、どんなに険しくとも、この温かい光があれば、どこまでも歩いていける。

 輝の胸には、一人の誇り高き「ママ」としての、揺るぎない強さが宿っていた。


 ◆


 春の柔らかな日差しが、個室の白いシーツを淡いピンク色に染め上げていた。

 帝王切開の手術から四日が経ち、輝の体調は驚くほど順調に回復していった。

 ベッドの背もたれを少し起こし、胸元で静かに眠る桃花の温もりを感じていると、手元のスマホが小さく揺れる。

 画面に表示されたのは、真白ましろからのメッセージだった。

 退院や出産という急展開を隠しきれず、先日、輝は「無事に子どもが生まれた」とだけ、真白に報告を入れていたのだ。

 真白からの返信には、驚きと、それ以上の温かい喜びの言葉が溢れていた。


『輝、本当に本当におめでとう! 急な入院って聞いて心配してたけど、まさかお母さん……ううん、親になってたなんて驚いたよ。落ち着いたら、一度ビデオ通話でもいいから顔見せてね』


 輝は、胸元に抱いた桃花の小さな鼻先にそっと触れた。

 そして輝は覚悟を決めて、通話のボタンをタップした。

 数秒のコールの後、画面に真白の驚いたような、けれど嬉しそうな顔が映し出された。


「もしもし、真白。今、大丈夫?」

「輝! あ、繋がった。……って、え、輝……?」


 画面の向こうで、真白は一瞬だけ言葉を失い、目を丸くした。

 かつて短髪で、就活用のリクルートスーツに身を包んで焦燥しきっていた「北越 輝」の姿は、そこにはなかった。

 肩まで伸びた柔らかな髪、薄いピンク色のマタニティガウン、そして何より、すっかり優しく穏やかになったその表情は、誰の目にも一人の美しい「母親」そのままであったからだ。


「うん。驚かせてごめんね。色々と……話さなきゃいけないことがあって」

「ううん、驚いたけど……でも、すごく優しい顔をしてる。お化粧してないのに、なんだかすごく綺麗だよ。その腕の中にいるのが、赤ちゃん?」

「そうだよ。桃花ももか。三月三日に生まれたんだ」


 輝がスマホのカメラを少し下に向けると、淡いピンクの産着に包まれた桃花が、小さくちゅぱちゅぱと口を動かして眠っている姿が映り込んだ。

 真白の表情が、一瞬でとろけるように和らぐ。


「可愛いなぁ……。本当におめでとう、輝。色々と大変だったんだよね。身体は大丈夫なの?」

「うん。帝王切開だったから少し前までは動くのも大変だったけど、今はこうして授乳もできてるし、すごく元気だよ。……それでね、真白」


 輝は一度言葉を切り、じっと画面の中の親友の目を見つめた。

 嘘偽りのない、これからの自分の人生の、本当の選択を伝えるための沈黙だった。


「俺の、これからのことなんだけどね」

「うん、どうしたの?」

「この子が生まれて、俺、自分の身体とこれからの生き方に、やっと答えが出せたんだ。……桃花がもう少し落ち着く半年後か、あるいは一年後くらいに、俺、自分の男性器を切除する手術を受けるつもりなんだ」


 真白は声を立てず、ただ静かに輝の言葉を待った。その真摯な態度が、輝の心をどれほど救ったか分からなかった。


「身体を完全に女性器だけに一本化して……そのあと、戸籍の性別も、正式に女性へ変更しようと思ってる。男は卒業、かな」


 輝の声は、驚くほど澄んでいて、一本の確かな芯が通っていた。

 飛騨カウンセラーや三国医師から言われた「選択肢がある」という言葉。

 そして、自分の胸を一生懸命に吸い上げ、温かな初乳を飲んでくれた桃花の唇の感触。

 そのすべてが、輝にこの決断をさせていた。


「俺は、この子の『母親』として、これからの人生を全て捧げて生きていく。それが、今の俺の、一番自然で、一番誇らしい姿なんだって思えるから」


 長い沈黙が、電波を越えて二人の間に流れた。

 真白は深く、深く息を吐き出すと、画面の向こうで、これまで見たこともないような優しい笑顔を浮かべた。


「そっか。……輝が自分でそれを選んだなら、私は全力で応援するよ。あなたがパパでもママでも、私にとっては大切な親友の輝であることに変わりないもん。むしろ、その決意を聞けて、なんだかすごく胸が熱くなっちゃった」

「……真白、ありがとう」


 輝の目から、じんわりと温かい涙が溢れ、シーツの上に丸い染みを作った。

 友人のその変わらない態度が、彼がこれから歩む「女性としての未来」を、力強く肯定してくれた気がした。

 けれど、輝には、もう一つだけ、絶対に譲れない誓いがあった。


「それからね。……これは、俺と、俺の両親だけの秘密なんだけど」

 輝は、胸元で眠る桃花の小さな頭を、愛おしそうにそっと撫でた。


「桃花には、俺が元々男性として生まれて、自分の精子と卵子でこの子を授かったっていう事実は……一生、教えないつもりなんだ。この子が成人して、いつか俺の過去を知ることがあったとしても、この出生のあまりに特殊な秘密だけは、俺が死ぬまで……ううん、墓場まで持っていくよ」


 自分の特異な身体のことは、誇りに思っている。

 けれど、まだ幼い娘が、成長の過程でそんな「世界のどこにもない真実」を背負うのは、あまりに荷が重すぎる。

 この子は、ただ普通の女の子として、一人の優しい母親に愛されて育ったのだと、そう信じて真っ直ぐに生きていってほしい。

 それが、桃花に「命」を与えられた輝の、最大の愛であり、親としての不退転の責任だった。


「桃花には、ただ一人の、普通の『お母さん』として接していく。だから、この秘密は、俺の胸の中だけにずっとしまっておくんだ」


 画面の向こうで、真白は優しく涙を拭い、深く、重々しく頷いた。


「わかった。その秘密、私も一緒にお墓まで持っていく。輝は本当に……世界一強くて、世界一可愛い、最高のお母さんだよ。これからは、ママ友としてもよろしくね」

「……うん。ありがとう」


 通話を終え、暗くなった画面をベッドサイドに置くと、輝は深く息を吐き、静かに上を向いた。

 窓の外では、春を呼ぶ優しい風が吹き抜け、桜のつぼみをそっと揺らしているのが見えた。

 お腹の傷の痛みは、自分のなかの「男性としての過去」が薄れゆく痛みでもあった。

 半年後か1年後か、自分は本当の女性の身体になり、戸籍も変わり、名実ともに桃花の「ママ」になる。

 輝は、愛しい娘をさらに優しく腕の中に抱き寄せ、その小さな額に、誓いを与えるように静かに口づけを落とした。

 その頬を濡らす涙は、もう恐怖や悲しみの色を一切帯びていなかった。

 ただ、桃花を生涯愛し抜くのだという、果てしない光と、母親としての気高い決意だけが、静かにその胸を満たし続けていた。

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