第三十三週・ママトレ
※この作品はフィクションです。症例をはじめとする医療情報・法的制度など現実の事象に着想を得ていますが、実在のものとは異なり、いっさい関係ありません。
いつものマタニティヨガ教室。
今日も、輝は朝陽や能美とともに体を動かしたり、逆に脱力の練習を行ったりして、心身のリラックスに努めていた。
休憩時間には、こちらも3人組で、お馴染みの話題で盛り上がる。
今週は、時期的に母親学級の話がトークテーマになった。
(……俺、あのときほんとにダメだったな)
沐浴も、オムツ交換も、ミルクも。
頭では理解しているのに、手がぎこちなくて、思うように動かない。
(桃花にあんな抱き方したら泣かせちゃうよな……)
そんな弱気が胸の中に見え隠れしながら会話を進めていく。
「この間、後期の母親学級だったんだけど……全然うまくできなくて。沐浴もオムツもミルクも、手が震えて……ちょっと落ち込んでる」
この言葉に、朝陽が何度も頷きながら同意する。
「かーやちゃんも? わたしもだよー。それにぶっつけ本番でミスしたらって考えたら、ちょっと恐怖でしかないし」
すると、経産婦である能美は2人をフォローするように語りかける。
「かーやも、あーちゃんも、初めてなんだから当たり前だよ。ウチだって最初は全然できなかったし。でも毎日絶対やらなきゃいけなかったから、できるようになったってだけで……」
輝はその言葉に励まされながらも、ちょっとした願望を口にした。
「まあ、母親学級で体験といっても、時間的にちょっとしかできなかったんだよねー。もっとじっくり時間かけてできればよかったんだけど。だから自主トレするしかないかなぁって」
「あー、そうだよね。どっちにしても道具は必要だからそろそろ自分の分も買って、家でやるかな?」
朝陽も練習はしておいた方が良いとの立場だ。
ここで、能美は少し間を置いてから閃きの顔を見せ、2人に提案する。
「ねぇ、かーやも、あーちゃんもさ、よかったら今度、うちに来ない? 人形もあるし、沐浴セットも残してあるから、練習付き合ってあげられるよ。ウチは経産婦だから、前の時の事とか、いろいろ話せるし」
「「マジで!!」」
輝と朝陽は、それはもう芸術的と言えるほどのタイミングでハモってしまった。
能美も、楽しそうに応じる。
「マジだよー。やっぱ1人でやっちゃうとさぁ、煮詰まっちゃうし。だったら、みんなでワイワイしながらやったほうが楽しそうだし! ね、今度、あーちゃんがオフの日に合わせて」
これは良い機会ができた。
やはり、仲間がいたほうが心強いし、能美という経験者様々である。
その場で、能美宅での「プレママ合同自主トレ」が催されることが決まり、善は急げ、という朝陽の勧めもあって、三日後に開かれることになった。
◆
白鷺亭は、駅やヨガ教室のある市の中心街からは、車で二十分ほど離れたところにあった。
そこは農地に面した分譲住宅地であり、近隣の畑に建てられたビニールハウスの中ではイチゴ栽培がされている。
この畑のすぐ横を通過した際には、立て看板で「食べ放題」が謳われ、イチゴ狩りも行えるようだ。
能美の夫には今回も送迎を依頼することになり、輝と朝陽は恐縮して低姿勢を貫いていたのだが、能美はそんな二人お構いなしに「へーきへーき」と連呼していた。
二階建てのまだ新しい一戸建てに踏み入れる。
なお白鷺家の長男くんは幼稚園に登園しているため、家の中は静寂に包まれていた。
「今日は天国だよー。ウチの息子は普段暴れてて声も出すし、構ってちゃんだから、練習するなら今日のタイミングしかないし!」
なるほど、部屋の中はおもちゃを頑張って片付けた痕跡が残っていたし、壁紙にはクレヨンによる落書きもある。
確かに活発な子の話を耳にすると、書いたり叫んだりだけでなく、ものを投げたり壊したりといったことも日常茶飯事だそうだ。
胎内の桃花がどんな子どもに成長するのかはわからないが、輝は「ほどほどに元気に」と、思わず本音を思ってしまったことは内緒である。
三人組はリビングのカーペット上に腰を落とし、それぞれが「ふうっ」とため息をついた。
輝と能美は三十三週、朝陽は三十一週だ。
三人とも妊娠後期に入り、それぞれ腹部が肥大化し、動くのも一苦労になりつつあった。
クッションに身を預けた朝陽が、ふと思いつく。
「今度さ、三人でマタニティフォト撮りいかない? 最近はね、友だちと一緒に撮影するのもありなんだって!」
「写真?」
朝陽からの提案に、輝は不思議そうに尋ねる。
さすがの輝もマタニティフォトの知識はあるが、あれはあくまでパートナーなど家族同士で撮影してもらうものだと思っていたからだ。
実際、能美がすぐに見せてくれたアルバムでは、先日撮ったばかりという白鷺家親子三人のマタニティフォトが収められていた。
「これはウチら家族バージョン。でも友達どーしでワイワイしながら撮るのもいいんじゃね? あーちゃんもさ、かーやはこういう写真、ひとりじゃ撮りづらいだろーから、誘ってくれてるんよ?」
能美に核心を突かれた。
輝の、パートナーなしの身の上を案じてくれている二人は、これまで積極的に話を振ってくれたり、世話を焼いたりしてくれる。
そしてもちろん、金銭的なプレッシャーがないことを予め理解してくれたうえでの誘いでもある。
輝にとっては、今更断る理由もない。
「ありがとう。じゃあ、これも善は急げで、早速場所と日時予約しちゃおうか。予定日とか考えると、もう時間もないから」
「そだね。衣装はドレスと花冠レンタル込み三カットで八千円のデータプランとかあるから、それでいいんじゃん。オプションはつけずに、メイクはウチがやれるし」
「なんか、とんとん拍子で決まっちゃうね。あ、それはそうと、そろそろ練習しよっか」
おしゃべりをしていて、すっかり合同自主トレのことを忘れかけていたところで、朝陽が本筋に戻した。
リビングには、沐浴セット、オムツ、人形、哺乳瓶──
母親学級で見たものが一式そろっていた。
輝はちょっと驚いて能美に尋ねる。
「……すごい。前回の備品があるのはともかく、人形はどこから?」
「あーこれね、前に妊娠した時、たまたまフリマアプリで安く出品されてて。自分の練習用に買ったんよ。でもリアルすぎて子どもの人形遊びには向かないから、押し入れの奥に封印されてたのね」
「……なるほど...…」
確かに、首の座らなさや表情の「不気味の谷」っぽさなど、幼児がみたら泣き出したくなるかもしれない。
自分で練習するためとはいえ、購入した能美の行動力とともに、フリマアプリでこんな人形まで出品されているのかと、ただただ感心するばかりであった。
「じゃあまず、沐浴からやってみよっか」
能美はキッチンのシンクにベビーバスを置き、ぬるめの湯を張った。
さらに、着替え、ガーゼ、タオル、そして開封したおむつやおしり拭きも、予めすぐ使える状態にしたうえで、手が届く場所に用意していり。
そして二人に先駆けて、手本を見せる。
まずは人形に声掛けをし、服は力を入れず優しく脱がす。
次に利き手とは反対側の手で首と頭を支え、右手でおしりを支え、足のつま先からゆっくりと入れてゆく。
顔はガーゼを使って拭き、人形の体は自分の指腹を使ってまんべんなく洗い流した。
そして、最後にバスタオルで人形をくるみ、水分をこするというよりは吸い取るように拭いていった。
一連の動きに無駄がなく、自然でありつつ、スピーディ。
そしてデリケートな赤ちゃんを優しく綺麗に仕上げている。
「ウチもね、長男くんのときはね、最初はおっかなびっくりだったよ。でも毎日やるから、すぐ慣れた」
次に、輝の番となって人形を抱き上げると、やっぱり首がぐらりと傾く。
「あっ……また……」
能美は「あー、やっぱりね」という、想定していたとばかりに輝の傍により、動きながら手を添えてくれた。
「ここはね、親指と中指か人差し指で赤ちゃんの耳の後ろをもって、頭と首を固定するんよ」
すると、先ほどまでガクついていた人形の体勢が、一挙に安定した。
ポイントは自分の体を赤ちゃんへ密着させ、隙間を作らず、子どもの重さを体全体で受け止めることらしい。
次のオムツ交換でも、能美の経験者としてのコツが光った。
「テープはね、キツキツじゃなくてもいいの。赤ちゃんが動くから、むしろ遊びを作って『ざっくり』でいいんだよ。お腹のとこで自分の指二本分くらい隙間作って。そのかわり、ギャザーは後ろの部分もしっかり広げて」
輝と朝陽も実践をしていく。
最初は漏らさないために密着させるものだと思い込んでいたが、母親学級の時といい、乳児が苦しくないようヘソ部分は余裕を持たせるそうだ。
「ほら、ここを支えると安定するよ」
越美が手を添えてくれる。
「前のときはね、オムツ替えのたびに泣かれて、ウチも泣きそうだったよ。なんかダンナの方が器用で上手いしさー」
「あー、なんか容量いい人って、そんなに練習しなくてもできちゃったりするもんね」
朝陽も夫の行動に心当たりがあるのか、うんうん、という風に頷いている。
そう話していると、能美は備品の中からハンドルがついた小さな容器を取り出した。
「最後はミルク。んで、これ手動の搾乳器ね。母乳で育てようってときに、リアルタイムでできないときや、携帯するときに先に準備しとくのね。電動のもあるけど、高いのと充電必要とかあるから、ウチはこっち」
このアイテムを輝は初めて見る。
あらかじめ母乳を搾って、冷蔵や冷凍で保管できるらしい。
夜間授乳などパートナーや家族に任せ自分が睡眠をしっかりとり、出産後にママ側の精神面を安定させるためのワザだそうだ。
いっぽうで、市販の粉ミルクの作り方も教えてもらう。
こちらは料理教室勤務の朝陽が、さすがのプロらしく、測り方から湯せん、冷却までサッとこなして見せた。
「抱き方はね、さっきのお風呂の時と一緒。赤ちゃんが安心できればそれでいいの」
輝は人形を抱いて哺乳瓶を口元に当てた。
腕はまだぎこちない。
でも、能美は優しく言った。
「うん、いい感じ。長男くんも最初は全然飲んでくれなくてね……角度が悪いのかと思って焦ったけど、ただ眠かっただけだったりしてさ」
輝は笑いながらも、落ち着いて抱き方を慣らしていくのだった。
(……桃花も、こんなふうに飲むのかな)
こうして練習がひと段落すると、能美はホットの麦茶を出してくれた。
「かーや、今日すごく頑張ってたよ。初めてでここまでできればさ」
「いやぁ、ほんとにもう何回か練習させてもらった方がいいわ、これ。それにしても、頼りになります、先輩っ!」
「センパイ?」
「そう、ママ先輩。経験者は語る、ってやつ」
さらに輝は改まり、腹を抱えつつも背筋を伸ばして礼を述べる。
「ふだんタメ口だけど、ここでは敬語で言わせて。今日は本当にありがとうございました。すごく勉強になりました」
越美は笑顔で応じた。
「こういう時の友だちじゃん! またおいでよ」
帰路、白鷺家のマイカーから降車したとき、外の寒さとは対照的に、輝の服の中は充分温かく保たれていた。




