第三十二週・家庭訪問
※この作品はフィクションです。症例をはじめとする医療情報・法的制度など現実の事象に着想を得ていますが、実在のものとは異なり、いっさい関係ありません。
今週、輝は市の保健師の家庭訪問を受けることになっている。
自治体により対象者の範囲や時期に差はあるが、輝の場合は若年層の初産であることや、身体的な特性もって、母子健康手帳交付の時に予めこの時期に家庭訪問することが告げられていた。
その目的は、輝の近況確認に加え、出産準備や出産後の生活の確認、またいわゆるマタニティブルーの相談も兼ねているという。
先週のうちに市から電話で、訪問の日取りについて連絡・調整が行われ、いよいよ今日これから保健師を迎えることになっていた。
担当の加賀は、母子手帳がらみの面談でも対応してくれた人だ。
約束の時間となり、玄関のチャイムが鳴る。
扉を開くと、以前と同様、小柄だがベテランとしての風格は非常に大きな女性が立っていた。
それでいて、物腰は柔らかであった。
「こんにちは。保健師の加賀です。北越さん、だいぶ大きくなられましたね」
「はい、おかげさまです。あ、どうぞ、こちらを履いて上がってください」
輝は用意しておいたスリッパを指さし、加賀を応接間へと案内した。
「お邪魔しますね。あ、お気遣いはなさらず」
加賀は、輝が穏やかに過ごしているようで安心した。
これまで数十年間、数千人の出産前後な女性を訪問してきたが、場合によっては深刻な状況に陥っているケースに何度も遭遇していた。
その都度、相手に声をかけ、励まし、さらに一緒に対策を考えてきた彼女にとっても、輝のケースは初めての事例である。
長年の経験から、声のわずかなトーンからでも、その人の大まかな様子を知り得ることが可能な加賀にとって、輝の様子はとても落ち着き、安定しているように見えたのだ。
着席した加賀はメモを取りつつ、早速、輝との面談を開始した。
「予定日は分かりましたか?」
「予定日というか、計画的分娩ってやつですね。3月3日です。入院して帝王切開で計画しています」
「ではもう、会えるの1月半じゃないですか! お子さんの名前、決まってらっしゃるんですね」
「はい。女の子でひな祭りで、自分が桃が好きだから『桃花』って。でもなんかすごい元気なんですよ!」
輝は、そう話したところで、自分の両手を開いて腹部に乗せた。
「ちょっと胎動が、だんだん激しくなってきて。肺の下から蹴られたりするんで、たまに、息するのに詰まるのが悩みどころです」
「よくあるお話です。後期はどうしても負担が出ますからね。寝るときにタオルを丸めて腰に当てると楽になりますよ。さて、では母子手帳の記録などを確認していきましょうか」
加賀は、輝とともに記入した内容をチェックしてゆく。
体重や血液検査の結果、予防接種の履歴などだけでなく、ケアの様子や周囲の人間とのかかわりについてまで話を進めた。
「では、新たに友だちができて、一緒にヨガやお食事にも行ったりしてると。それを聞いて安心しましたよ」
「はい。別の友人とも、先日出かけたりして。カミングアウトをすることにもなって悩みや不安もあったんですが、相手が受け止めてくれて。これだけで精神的に楽になりました」
加賀は言う。
「北越さん。あなたはご両親やお友だちに、悩みながらも頼れることはしっかり頼って、ここまできたことと思います。でも大丈夫。安心しました。何より、周りの方のサポートする力が素晴らしいです。ぜひ、お世話になっている方への感謝の気持ちを、決して忘れないでくださいね」
「はい、心底そう思います。今日はありがとうございました」
環境に恵まれ、人に恵まれ、輝はいま、ここにいる。
残念ながらすべての妊婦が、輝のような支援を受けることができていないのも現実である。
自分の身体的特性はあるが、それはそれとして、周囲のサポートにどれだけ支えられているか、同時に自立のために何ができるのか、改めて見つめ直す輝であった。
◆
この週はさらに、後期の母親学級も予定されていた。
前回はオンラインでの参加であったが、輝は今回、直接講習会場へ出向くことに決めていた。
既に通院時は一般の診療時間に受診していたし、本人が特に外出をしても気にも留めていないこと。
そして外見的にも、女性として疑いようのない容姿となっていたからだ。
なにより、今回は分娩室の見学ツアーや授乳・沐浴の実地研修などがあり、対面で実際に体験したほうが良いとの判断もあった。
輝は鷹子に大学病院まで送ってもらい、「終わったら連絡してね」と見送られてから、ひとりで母親学級の受付へ向かった。
受付では、他の妊婦たちと同じように「北越です」と丁寧に名乗る。
だが胸の奥では、やや不安を抱いていた。
(……俺、ちゃんとできるかな)
輝にとって何が不安かといえば、それは日常的な育児の工程のことだった。
精神的な安定や人間関係などについては、前述のように一定の支援は整えられている。
だが、育児の実技的な部分、具体的には、飲食の介助、おむつ交換、風呂、着替え、寝かしつけに至るまで、ありとあらゆる面において、まったくの未経験であるからだ。
一応、学校の保健体育で、人形を使った体験みたいなものをしたことはあるが、あくまでさわりだけ。
今後は必ず毎日毎時間、いきなりのぶっつけ本番でこなさなければならない。
もちろん初産の妊婦は、幼少期に年の離れた小さなきょうだいでもいない限り、がっつり育児をしたこともないだろう。
かといって「習うより慣れろ」と云われても、相手は人間で、しかも自分の子どもである。
この研修の機会に、少しでも実地で習っておきたかったのが本心であった。
そんな心配を胸に抱きつつ、輝は研修室に入る。
今回の参加者は10名ほど。
輝が一番若く、多くは三十代のようである。
しばらくして、今回担当の助産師が現れた。
「本日はご参加、ありがとうございます。担当の能登です。後期に入り、いよいよ予定日も迫ってきました。まずは、実際に入院した時の雰囲気を味わっていただくために、産科設備の院内ツアーとなります。ゆっくり、私の後についてきてください」
助産師に案内され、参加者たちは病棟の廊下をゆっくり歩いていく。
「こちらが入院中に使っていただく個室です」
白い壁、整ったベッド、窓から差し込む柔らかな光。
さすがに個室は、プライバシーが保てる空間となっている。
同時に、4人などの大部屋と異なり、差額ベッド代が発生するため費用も高くなる。
輝の場合は特性上、お互いに配慮したほうが良い、ということで個室へ入院予定となっているが、またも両親に金銭面でサポートしてもらうわけで、感謝しかなかった。
(……俺、ここで桃花とすごすのか)
少し先に迫る未来と、ベッドの上にいる自分をしつつ、部屋を後にする。
そして次に案内されたのは分娩室。
中央には分娩台があり、モニターや器具が整然と並んでいた。
「帝王切開の方も、ここで前処置を行います」
やはり大学病院だけあって、リスクに合わせた対応ができる体制や機材があるのだろう。
帝王切開となればすなわち手術であるし、当然、麻酔なども関わってくる。
麻酔がかかるのだから、その瞬間は「産みの苦しみ」はないのだろうが、その後しばらくして麻酔が切れれば、縫合面はやはり痛くなるそうだ。
周囲の妊婦たちも、同じようなイメージを抱いてるのだろうか。
輝はそんなことを考えながら講習室に戻ると、そこには赤ちゃんサイズの人形と小さな浴槽が並んでいた。
いよいよ実践その一、沐浴の実習である。
免疫による抵抗力がまだ弱い赤ちゃんを、ベビーバスで清潔に保つ作業。
ただし目的は他にもあり、全身の観察で異常がないか確認したり、親と触れ合うコミュニケーションの役割も兼ねるという。
お湯の温度や入れるタイミング、入浴時間の長さ、事前準備など、段取りも含めたレクチャーがなされていく。
そして能登がお手本として、人形を使った実演を終えると「では、やってみましょう」と声がかかる。
だが懸念した通り、ここからが難しい。
輝が人形を抱き上げようとすると、首がぐらりと傾いてしまう。
「あっ……すみません……」
能登が優しく支えてくれる。
「大丈夫ですよ。最初はみんなこうなりがちです。いわゆる『首が座っていない』状態ですね」
すぐさま助産師としての修正が入る。
実際の子どもは生きて動いているわけで、抱き方としてはもっと難しいはずである。
(……俺、こんなんで大丈夫か……?)
輝は内心、焦りが募っていた。
次は実践その二、紙おむつ交換。
「えっと……この向きで……?」
前後を確認しつつ附属のテープで固定しようとすると左右がずれてしまい、なかなかセンターに止まらない。
また、おむつ自体も漏れないようにとキツくしすぎるのではなく、ギャザーで後部も広げ覆ったうえで、若干余裕をもって装着する、との説明。
ここでも能登がそっと直してくれた。
(バランスが難しい……)
最後の、実践その三はミルクのあげ方。
人形を抱く腕が固く、哺乳瓶の角度もぎこちない。
「肩の力を抜いて……そう、赤ちゃんの口元にそっと」
能登の言葉に従うが、どうしても動きが硬くなる。
(……俺、桃花にこんなぎこちない抱き方したら泣かせちゃうだろ……)
周囲の妊婦たちも同じように苦戦しており、しかも別バージョンとして、母乳を直接与える動作も伝えられる。
講習が終わるころには、輝の額にはうっすら汗がにじんでいた。
「お疲れさまでした。今日の内容は、ぜひお家でも練習してみてくださいね」
「はい、ありがとうございました...…」
今回、予想以上に手間取ったことに、輝はショックを受けた。
ここまで上手くいかなかったことによる、自分自身の不器用さに対して、である。
病院の外に出ると、乾燥した冬の季節風が輝の頬に当たる。
ロータリーには、すでに鷹子が車で迎えに来てくれていた。
「どうだった?」
「……勉強になったけど、全然だめだ、あれじゃ。……俺、もっと練習しないと。桃花のために、ちゃんとできるようになりたい。母さん、いろいろ練習付き合ってくれる?」
「もちろん、いいよ。『おばあちゃん』の出番だからね!」
まだまだ木枯らしが吹き抜ける中で、輝はその風に逆らうように自主トレを決意していた。




