第三十一週(後)・温泉
※この作品はフィクションです。症例をはじめとする医療情報・法的制度など現実の事象に着想を得ていますが、実在のものとは異なり、いっさい関係ありません。
車は山の麓にある小さな温泉地に着いた。
ここは輝と同じ県内ではあるが、観光地というより、地元の人が静かに訪れるような落ち着いた場所。
この時期でも雪は降らないので、転倒の心配はないが、ただただ寒い。
真白は駐車場に車を停め、輝の方を見た。
「かーや、ゆっくり降りてね。手、貸すよ」
先ほどの車中で決めた、ニックネームをさっそく使っている。
輝は頷き、真白の手を借りてゆっくりと車から降りた。
その手は、この寒さの中でも温かさを保っている。
(なんか……安心するな……)
温泉宿の入口には「日帰り入浴・貸切風呂あり」と書かれた看板があった。
真白はそれを見かけると、輝に指さす。
「ここなら安心だよ。貸切だから、誰も気にせずゆっくりできると思う」
なるほど、平日のこの時間、しかも正月明けの寒いこの時期。
いわゆるオフピークシーズンであれば、人目も気にせずのんびりできるに違いない。
「……ありがとう、真白。本当に……いろいろ気を遣ってくれて」
輝が礼を言うと、真白は首を振った。
「気を遣ってるんじゃなくて……友だちだからだよ」
その言葉に輝が嬉しさを感じていたのは言うまでもない。
そんな二人は受付を済ませ、貸切風呂へ向かった。
廊下には木の香りが漂い、静かな湯気の音が聞こえてくる。
真白は歩く輝のペースに合わせ、半歩後ろを歩いていた。
そうして貸切風呂の前に着くと、真白は張りきった声で言う。
「じゃあ、行こっか。小さな旅の、メインイベントだよ!」
けれども輝は、胸の奥がざわついていた。
(……あのこと言わなきゃ……でも……どう言えば……)
そして真白が引き戸を開けようとした瞬間、輝は思わず声をかけた。
「……真白、ちょっといい?」
真白は戸のつまみを持ったまま振り返る。
「どうしたの?」
「……俺さ……他人と一緒に裸になるの……初めてなんだ」
輝の話に真白は一瞬、きょとんとしたが、すぐに表情が柔らかくなった。
「そっか……緊張するよね。妊娠してると、身体も変わるし……」
俺は首を振った。
「いや……それだけじゃなくて……」
喉がつまる。
でも、言わなきゃいけない。
「……俺、妊婦で……女でもあるけど……下半身は……男のままなんだ」
真白の目が大きく見開かれた。
予想通りの反応。
だが、輝はなおも口を開く。
「だから……大浴場は無理で……貸切風呂にしてもらったんだけど……真白とも……時間ずらした方がいいかなって……その方が……お互い気まずくないだろうし……」
言ってしまった――
でもこれだけは、風呂へ入る前に、絶対に伝えておかなければならない。
友だちだからこそ、真白に対しては誠実に接したかった。
(……気持ち悪いって思われたら……)
輝の脳裏に嫌な展開が浮かぶ。
しかし、真白はゆっくりと息を吸い、輝へ近づき手を取った。
「かーや。わたしは……一緒に入りたいよ」
「……え……?」
輝は驚くが、真白は優しく言葉にする。
「だって……それをわかったうえで、温泉に来たんだから。そうじゃなきゃ誘わないよ。それに、もし何かあったら困るでしょ。三十一週なんだよ? 転んだり、立ちくらみしたりしたら……ひとりじゃ危ないよ」
真白の言葉に心打たれるのはもう何度目だろうか。
輝の多くの懸念はもっともであるが、少なくとも真白に対しては杞憂であることがはっきりした。
俺の胸に深く染み込んだ。
真白は笑顔で続ける。
「だからさ。一緒に入ろう。ね」
「……ありがとう、真白。じゃあ……一緒に」
「うん」
貸切風呂の扉が静かに開き、湯気がふわりと二人を包みこむ。
暖簾をくぐると、数畳程度な、あまり広くはないが清潔な脱衣所に入った。
意外にも壁際などに手すりがついているので、高齢客やのぼせ対策なのだろうか。
マタニティである輝にとってもそれはありがたい仕様だった。
ふたりは棚にそれぞれの荷物を置き、脱衣を開始する。
輝はせめてもの礼儀として、下半身にタオルを巻き、上半身はゆっくりとTシャツを脱いでいく。
そうしてあらわになった妊娠中の腹は、大きく前に突き出し、胸も自然と重みを帯びていた。
真白が気遣う。
「やっぱり大きい……すごく……頑張ってるんだね……身体……大変だったでしょ……」
その声は、驚きでも、興味でもなく、ただ尊敬と心配が見え隠れしていた。
「まあ……いろいろ変わったよ。でも……桃花が元気だから……それでいいんだ」
「……かーやは……もう『ママ』なんだね……」
輝はその言葉に息を呑む。
「……そう、なのかもな」
シャンプーやボディソープはすでに用意されているそうなので、輝と真白はタオルとアカスリだけ持ち、浴室に入る。
浴槽を見渡すと、こちらは意外に広めで、大人4人でも余裕がありそうだ。
またここにも各所に手すりがあり、底面に滑り止めや段差が低く作られているので、誰でも入りやすい。
ふたりはまず、身体の汚れを洗い流すため、蛇口の前へと向かう。
その際には、真白が輝の手をそっと取り支えた。
着席すると、洗髪、洗顔、洗体を上から順に済ませていく。
真白の髪はロングストレートなので、ヘアゴムを使ってまとめていくが、輝はまだまとめるほども伸びていないので、そのままだ。
こうして、浴槽に浸かる準備が整うと、再び真白に付き添われ立ち上がる。
「ゆっくりね。足元、滑りやすいから」
輝は腹を支えながら、手すりを伝って慎重に湯船へ入っていった。
そして湯に浸かった瞬間、身体の重さがふっと軽くなる。
「ふぁー、生き返るー」
あまりの気持ちよさに、思わず感情が口に出てしまう。
「ふふふっ……なんだかうちのパパみたい」
隣でも湯に浸かった真白がツッコミを入れる。
「あれ、さっきはママとか何とかいってなかったっけ?」
「その両方なんだから、間違いじゃあないでしょ?」
思わず、冗談めいた言葉が出てくるほど輝はリラックスしていて、先ほどまでの緊張と心配がうそのようであった。
会話は妊娠中の温泉についても及ぶ。
かつて妊娠中は温泉の入浴が禁止されていたそうで、その項目が撤廃されたのは21世紀に入り十年以上経ってからだという。
結局、根拠が不明で医学的裏付けがなく、規定から削除されたそうだが、鷹子の時代だったら温泉には来ることができなかった。
そんなこんなで、しばらく二人で楽しく湯に浸かっていると、輝の腹がふわりと動いた。
ぽこん。
真白が目を見張る。
「い、いま……動いた……?」
「うん。桃花、温かいとよく動くんだ」
「ちょっとごめん」
真白は湯の中でそっと手を伸ばし、輝の腹に触れた。
ぽこん。
また小さな蹴りが返ってくる。
真白は息を呑んだ。
体もどんどん温まってくる。
(……気持ちいいけど……長く浸かるとお腹が張るかも……)
真白が先に気づいて声をかけてくれた。
「かーや、ちょっと休憩しよっか。のぼせたら大変だし」
「うん……そうだな」
輝はゆっくりと湯船から上がり、浴室内の椅子に腰を下ろした。
真白も隣の椅子に座り、タオルで髪を軽く押さえながら輝の方を見た。
湯気がふたりの間をふわりと漂い、静かな時間が流れる。
真白が、少しだけ照れたように笑った。
「なんかさ……こうやって温泉で話してると、学生の頃の修学旅行みたいだね」
「確かに……でも、俺は……こんな大きなお腹で旅行なんて、想像もしなかったよ」
真白はゆっくりと頷いた。
「……未来って、ほんと分からないよね。わたしも就職するのに、いまの部屋に残るなんて思ってなかったし」
「そうなの?」
「そうなんだよ。てっきり地元に戻るか、別のところに引っ越すかと思ってたのに、就職先がまさかのマイカー通勤圏内。その方がお金かからなくて済むから助かるけどね」
「じゃあ、しばらくはこうやって会えるじゃん。桃花が生まれてからもさ!」
双方、願ったり叶ったり、である。
同時に真白の話を聞いた輝は、出産後の「次の目標」が見えつつあった。
「マイカーか。俺も、とりあえず、時間見つけて運転免許取るようにしよっかなぁ。車あれば通院とかでもかなり役立つし」
「いいじゃん! そうすれば就職先の選択肢も増えるし。もちろん、赤ちゃんの預け先とか、問題もあるけど、まずは将来の目標、ってことでさ」
そんな話をしていると体がようやく冷めてきたので、ふたりは再度、湯の中へと沈んでいった。
◆
風呂上がり、ふたりはあらかじめ予約してあった個室に通される。
畳敷きの休憩室には、エアコンの暖房が充分に焚かれていて、湯冷めする心配もなさそうだ。
輝と真白は座布団に座り、楽な姿勢をとって、低いテーブルを挟んで座っている。
「……やっぱり、温泉ってすごいな。ここまで温まるとは」
「うん、わたしも、冷え性だけどまだポカポカしてるし」
二人の間に置かれた湯呑みには、輝のには白湯が、真白のには緑茶が注がれ湯気が立ち上っている。
窓の外では、枯れ枝の連なる林が立ち並ぶ。
きょうは風のない日で、本当に静かだ。
真白が話を続ける。
「でもカフェインは避けた方がいいってなると、飲めるものかなり限られちゃうよねぇ。お茶だけじゃなくて、コーヒー、コーラ、エナジードリンクは...…そもそもNGか」
「食べ物も避けた方がいいものも多いし。マタ友で詳しい人がいて、いろいろ教えてもらうんだけど、作るのってホント難しい」
輝は少し間を置いて、真白の方を見た。
「きょう、こうしてゆっくり話すの、久しぶりだね」
真白は頬を緩めた。
「ゼミの時はさ、わたしも人見知りしてたんだよ。そうは見えなかったかもしれないけれど。3年生の一年間、本音で話すことなんてなかったかもしれない。表層的な会話だけでさ。それが、かーやと改めて会って、話をして、向き合って。でもそれが、ほんの数週間だけの出来事で、今の方が中身が濃いってのも皮肉だよ...…」
長い、短い、あるいは濃い、薄い、で人間関係を語れば、輝にとってこの3か月間ほど、濃密な時間はなかっただろう。
昨年の秋からの出来事が、産まれてからこれまでの何年よりも厚く、しかも感情が揺さぶられ、日々新しい発見や戸惑いにさらされてきたからだ。
同時に、桃花が生まれれば、その時間はより濃縮されていくことに違いないだろう。
輝は少し照れたように笑い、指先で湯呑みの縁をなぞった。
「……腹の中で、この子が動くたび、今、この時間がめちゃくちゃ大事だなって思うんだ。もちろん、人の命を抱えてるからマジで大変なんだけど、でも満足感はあるんだよね」
真白のやや天井を見上げつぶやく。
「そっか。わたしも子どもができたら……そんな気持ちになるのかな。怖いけど、楽しみでもあるっていう、ごちゃまぜな感情」
しばらく沈黙が流れた。
湯上がりの肌に残る熱が、じんわりと心にまで伝わっていく。
輝はふと、真白の手を見つめた。
真白の手は普段はとても白いが、いまは温められやや紅い。
「次は、赤ちゃんたちも一緒に来ようね」
「うん。きっと賑やかになるね」
そう言葉を交わした二人は、湯呑みを手に取り、静かに乾杯した。




