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俺の中にいる桃のつぼみ  作者: ニボシ
16/24

第三十一週(後)・温泉

※この作品はフィクションです。症例をはじめとする医療情報・法的制度など現実の事象に着想を得ていますが、実在のものとは異なり、いっさい関係ありません。

 車は山の麓にある小さな温泉地に着いた。

 ここは輝と同じ県内ではあるが、観光地というより、地元の人が静かに訪れるような落ち着いた場所。

 この時期でも雪は降らないので、転倒の心配はないが、ただただ寒い。

 真白は駐車場に車を停め、輝の方を見た。


「かーや、ゆっくり降りてね。手、貸すよ」


 先ほどの車中で決めた、ニックネームをさっそく使っている。

 輝は頷き、真白の手を借りてゆっくりと車から降りた。

 その手は、この寒さの中でも温かさを保っている。


(なんか……安心するな……)


 温泉宿の入口には「日帰り入浴・貸切風呂あり」と書かれた看板があった。

 真白はそれを見かけると、輝に指さす。


「ここなら安心だよ。貸切だから、誰も気にせずゆっくりできると思う」


 なるほど、平日のこの時間、しかも正月明けの寒いこの時期。

 いわゆるオフピークシーズンであれば、人目も気にせずのんびりできるに違いない。


「……ありがとう、真白。本当に……いろいろ気を遣ってくれて」


 輝が礼を言うと、真白は首を振った。


「気を遣ってるんじゃなくて……友だちだからだよ」


 その言葉に輝が嬉しさを感じていたのは言うまでもない。

 そんな二人は受付を済ませ、貸切風呂へ向かった。

 廊下には木の香りが漂い、静かな湯気の音が聞こえてくる。

 真白は歩く輝のペースに合わせ、半歩後ろを歩いていた。

 そうして貸切風呂の前に着くと、真白は張りきった声で言う。


「じゃあ、行こっか。小さな旅の、メインイベントだよ!」


 けれども輝は、胸の奥がざわついていた。


(……あのこと言わなきゃ……でも……どう言えば……)


 そして真白が引き戸を開けようとした瞬間、輝は思わず声をかけた。


「……真白、ちょっといい?」


 真白は戸のつまみを持ったまま振り返る。


「どうしたの?」

「……俺さ……他人と一緒に裸になるの……初めてなんだ」


 輝の話に真白は一瞬、きょとんとしたが、すぐに表情が柔らかくなった。


「そっか……緊張するよね。妊娠してると、身体も変わるし……」


 俺は首を振った。


「いや……それだけじゃなくて……」


 喉がつまる。

 でも、言わなきゃいけない。


「……俺、妊婦で……女でもあるけど……下半身は……男のままなんだ」


 真白の目が大きく見開かれた。

 予想通りの反応。

 だが、輝はなおも口を開く。


「だから……大浴場は無理で……貸切風呂にしてもらったんだけど……真白とも……時間ずらした方がいいかなって……その方が……お互い気まずくないだろうし……」


 言ってしまった――

 でもこれだけは、風呂へ入る前に、絶対に伝えておかなければならない。

 友だちだからこそ、真白に対しては誠実に接したかった。


(……気持ち悪いって思われたら……)


 輝の脳裏に嫌な展開が浮かぶ。

 しかし、真白はゆっくりと息を吸い、輝へ近づき手を取った。


「かーや。わたしは……一緒に入りたいよ」

「……え……?」


 輝は驚くが、真白は優しく言葉にする。


「だって……それをわかったうえで、温泉に来たんだから。そうじゃなきゃ誘わないよ。それに、もし何かあったら困るでしょ。三十一週なんだよ? 転んだり、立ちくらみしたりしたら……ひとりじゃ危ないよ」


 真白の言葉に心打たれるのはもう何度目だろうか。

 輝の多くの懸念はもっともであるが、少なくとも真白に対しては杞憂であることがはっきりした。

 俺の胸に深く染み込んだ。


 真白は笑顔で続ける。


「だからさ。一緒に入ろう。ね」

「……ありがとう、真白。じゃあ……一緒に」

「うん」


 貸切風呂の扉が静かに開き、湯気がふわりと二人を包みこむ。

 暖簾をくぐると、数畳程度な、あまり広くはないが清潔な脱衣所に入った。

 意外にも壁際などに手すりがついているので、高齢客やのぼせ対策なのだろうか。

 マタニティである輝にとってもそれはありがたい仕様だった。 

 ふたりは棚にそれぞれの荷物を置き、脱衣を開始する。

 輝はせめてもの礼儀として、下半身にタオルを巻き、上半身はゆっくりとTシャツを脱いでいく。

 そうしてあらわになった妊娠中の腹は、大きく前に突き出し、胸も自然と重みを帯びていた。

 真白が気遣う。


「やっぱり大きい……すごく……頑張ってるんだね……身体……大変だったでしょ……」


 その声は、驚きでも、興味でもなく、ただ尊敬と心配が見え隠れしていた。


「まあ……いろいろ変わったよ。でも……桃花が元気だから……それでいいんだ」

「……かーやは……もう『ママ』なんだね……」


 輝はその言葉に息を呑む。


「……そう、なのかもな」


 シャンプーやボディソープはすでに用意されているそうなので、輝と真白はタオルとアカスリだけ持ち、浴室に入る。

 浴槽を見渡すと、こちらは意外に広めで、大人4人でも余裕がありそうだ。

 またここにも各所に手すりがあり、底面に滑り止めや段差が低く作られているので、誰でも入りやすい。

 ふたりはまず、身体の汚れを洗い流すため、蛇口の前へと向かう。

 その際には、真白が輝の手をそっと取り支えた。

 着席すると、洗髪、洗顔、洗体を上から順に済ませていく。

 真白の髪はロングストレートなので、ヘアゴムを使ってまとめていくが、輝はまだまとめるほども伸びていないので、そのままだ。

 こうして、浴槽に浸かる準備が整うと、再び真白に付き添われ立ち上がる。


「ゆっくりね。足元、滑りやすいから」


 輝は腹を支えながら、手すりを伝って慎重に湯船へ入っていった。

 そして湯に浸かった瞬間、身体の重さがふっと軽くなる。


「ふぁー、生き返るー」


 あまりの気持ちよさに、思わず感情が口に出てしまう。


「ふふふっ……なんだかうちのパパみたい」


 隣でも湯に浸かった真白がツッコミを入れる。


「あれ、さっきはママとか何とかいってなかったっけ?」

「その両方なんだから、間違いじゃあないでしょ?」


 思わず、冗談めいた言葉が出てくるほど輝はリラックスしていて、先ほどまでの緊張と心配がうそのようであった。

 会話は妊娠中の温泉についても及ぶ。

 かつて妊娠中は温泉の入浴が禁止されていたそうで、その項目が撤廃されたのは21世紀に入り十年以上経ってからだという。

 結局、根拠が不明で医学的裏付けがなく、規定から削除されたそうだが、鷹子の時代だったら温泉には来ることができなかった。

 そんなこんなで、しばらく二人で楽しく湯に浸かっていると、輝の腹がふわりと動いた。


 ぽこん。


 真白が目を見張る。


「い、いま……動いた……?」

「うん。桃花、温かいとよく動くんだ」

「ちょっとごめん」


 真白は湯の中でそっと手を伸ばし、輝の腹に触れた。


 ぽこん。


 また小さな蹴りが返ってくる。

 真白は息を呑んだ。

 体もどんどん温まってくる。


(……気持ちいいけど……長く浸かるとお腹が張るかも……)


 真白が先に気づいて声をかけてくれた。


「かーや、ちょっと休憩しよっか。のぼせたら大変だし」

「うん……そうだな」


 輝はゆっくりと湯船から上がり、浴室内の椅子に腰を下ろした。

 真白も隣の椅子に座り、タオルで髪を軽く押さえながら輝の方を見た。

 湯気がふたりの間をふわりと漂い、静かな時間が流れる。

 真白が、少しだけ照れたように笑った。


「なんかさ……こうやって温泉で話してると、学生の頃の修学旅行みたいだね」

「確かに……でも、俺は……こんな大きなお腹で旅行なんて、想像もしなかったよ」


 真白はゆっくりと頷いた。


「……未来って、ほんと分からないよね。わたしも就職するのに、いまの部屋に残るなんて思ってなかったし」

「そうなの?」

「そうなんだよ。てっきり地元に戻るか、別のところに引っ越すかと思ってたのに、就職先がまさかのマイカー通勤圏内。その方がお金かからなくて済むから助かるけどね」

「じゃあ、しばらくはこうやって会えるじゃん。桃花が生まれてからもさ!」


 双方、願ったり叶ったり、である。 

 同時に真白の話を聞いた輝は、出産後の「次の目標」が見えつつあった。


「マイカーか。俺も、とりあえず、時間見つけて運転免許取るようにしよっかなぁ。車あれば通院とかでもかなり役立つし」

「いいじゃん! そうすれば就職先の選択肢も増えるし。もちろん、赤ちゃんの預け先とか、問題もあるけど、まずは将来の目標、ってことでさ」


 そんな話をしていると体がようやく冷めてきたので、ふたりは再度、湯の中へと沈んでいった。


 ◆


 風呂上がり、ふたりはあらかじめ予約してあった個室に通される。

 畳敷きの休憩室には、エアコンの暖房が充分に焚かれていて、湯冷めする心配もなさそうだ。

 輝と真白は座布団に座り、楽な姿勢をとって、低いテーブルを挟んで座っている。


「……やっぱり、温泉ってすごいな。ここまで温まるとは」

「うん、わたしも、冷え性だけどまだポカポカしてるし」


 二人の間に置かれた湯呑みには、輝のには白湯が、真白のには緑茶が注がれ湯気が立ち上っている。

 窓の外では、枯れ枝の連なる林が立ち並ぶ。

 きょうは風のない日で、本当に静かだ。

 真白が話を続ける。


「でもカフェインは避けた方がいいってなると、飲めるものかなり限られちゃうよねぇ。お茶だけじゃなくて、コーヒー、コーラ、エナジードリンクは...…そもそもNGか」

「食べ物も避けた方がいいものも多いし。マタ友で詳しい人がいて、いろいろ教えてもらうんだけど、作るのってホント難しい」


 輝は少し間を置いて、真白の方を見た。


「きょう、こうしてゆっくり話すの、久しぶりだね」


 真白は頬を緩めた。


「ゼミの時はさ、わたしも人見知りしてたんだよ。そうは見えなかったかもしれないけれど。3年生の一年間、本音で話すことなんてなかったかもしれない。表層的な会話だけでさ。それが、かーやと改めて会って、話をして、向き合って。でもそれが、ほんの数週間だけの出来事で、今の方が中身が濃いってのも皮肉だよ...…」


 長い、短い、あるいは濃い、薄い、で人間関係を語れば、輝にとってこの3か月間ほど、濃密な時間はなかっただろう。

 昨年の秋からの出来事が、産まれてからこれまでの何年よりも厚く、しかも感情が揺さぶられ、日々新しい発見や戸惑いにさらされてきたからだ。

 同時に、桃花が生まれれば、その時間はより濃縮されていくことに違いないだろう。

 輝は少し照れたように笑い、指先で湯呑みの縁をなぞった。


「……腹の中で、この子が動くたび、今、この時間がめちゃくちゃ大事だなって思うんだ。もちろん、人の命を抱えてるからマジで大変なんだけど、でも満足感はあるんだよね」


 真白のやや天井を見上げつぶやく。 


「そっか。わたしも子どもができたら……そんな気持ちになるのかな。怖いけど、楽しみでもあるっていう、ごちゃまぜな感情」


 しばらく沈黙が流れた。

 湯上がりの肌に残る熱が、じんわりと心にまで伝わっていく。

 輝はふと、真白の手を見つめた。

 真白の手は普段はとても白いが、いまは温められやや紅い。


「次は、赤ちゃんたちも一緒に来ようね」

「うん。きっと賑やかになるね」


 そう言葉を交わした二人は、湯呑みを手に取り、静かに乾杯した。


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