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俺の中にいる桃のつぼみ  作者: ニボシ
14/24

第三十週・スイミング

※この作品はフィクションです。症例をはじめとする医療情報・法的制度など現実の事象に着想を得ていますが、実在のものとは異なり、いっさい関係ありません。

 年明け最初のマタニティヨガ教室。

 今回もスタジオには、暖房の柔らかな空気と加湿器による適切な湿度が満ち、妊婦たちがゆっくりと呼吸を整えながら体を動かしていた。

 インストラクターの黒部が穏やかな声で指示を出す。


「はい、息を吸って……背中を丸めて……吐きながら、腰の力を抜いていきましょう」


 輝は深く息を吸い、ゆっくりと吐きながら背中を伸ばした。

 妊娠三十週。

 お腹は急激に重くなってきたが、ヨガの時間だけは心も体も軽くなるようだった。

 朝陽は隣のマットで「ふぅ……腰が伸びる……」と小さく呟き、能美は「年末年始で固まってた身体がほぐれる〜」と笑った。

 レッスンの途中、休憩時間になり、3人はマットの上で水分補給をしながらおしゃべりを始めた。

 そのとき、朝陽がふと思い出したように言う。


「そういえばさ……妊娠中って、プールもいいって聞いたことあるんだよね。浮力で体が軽くなるし、腰にも優しいって」


 能美も同意する。


「うん、ウチもクリニックで聞いたよ。水の中で歩くだけでも運動になるし、むくみも取れるって」


 輝はペットボトルを持ったまま、少し考えるように視線を落とした。


「……たしかに母親学級(マタニティクラス)でもそんな話されたっけ? 安定期のうちに、少しでも体を動かしたくて、結局ヨガになったけど」


 朝陽と越美が同時に顔を上げた。


「じゃあさ、いいじゃん、行こうよ」

「3人で行ったら楽しそう」


 しかし、輝は苦笑いを浮かべた。


「……でもさ、費用の問題とかもあるし、掛け持ちは難しいかなぁって」


 朝陽が確かに、と納得の表情をする。


「あー、そりゃそうだよね。続けるとかだと、これからいよいよお金かかりまくるってなタイミングだし」


 すると、能美は何かを思いついたのか、突然ニヤッとして2人に告げる。


「……ふっふっふっ、実はね、超お手軽にできるところがあるんだな、これが!」

「お手軽?」

「そ! 公営の温水プールでマタニティ向けのスイミング教室があるんだ。しかも単発。真冬だから海とかは無理だけど、これならワンチャンで安全に楽しめるし」


 だが輝にとって、その話は「ひょうたんから駒」というよりは「寝耳に水」だった。

 端的に言えば、ウェア問題の再来である。

 身体のラインが出るのは、正直なところ問題が多すぎる。

 ヨガはゆったりパンツでなんとか誤魔化せてはいるが、水着は……隠せる部分が圧倒的に少ない。

  とりあえず、輝は悟られない範囲で懸念点を伝えた。


「でもさ、プールって、水着じゃん。しかも、公共の温水プールって『健康増進施設』だから、着るのは遊び用じゃなくて、競技用みたいな水着じゃないかな?」


 能美は「あぁ〜……」と声を漏らした。


「確かに、ああいう施設ってビキニとかじゃなくて、スイムキャップかぶって、フィットネスみたいなやつだわ」


 朝陽も腕を組んで考え込む。


「それに妊婦用のマタニティ水着ってあるけど、市のプールだと、あんまり自由なデザインは浮くかも……」


 輝は小さく息を吐いた。


「そうなんだよね。だから、ちょっと調べてみてからにしようかなって」


 その日のヨガ教室の帰り道、北風が吹き付ける中、輝はマフラーを巻き直しながら、今日の休憩時間に出た話題を思い返していた。


『じゃあさ、いいじゃん、行こうよ』

『3人で行ったら楽しそう』


 確かに腹部は重くなり、腰への負担も増えてきた。

 それに、せっかくのマタ友とプールでコミニケーション深めるのも楽しいはず。

 しかし――

 その話題が盛り上がるほど、ウェア問題という、胸の奥にひっかかる不安も大きくなっていった。


「……ただいま」


 帰宅して玄関で靴を脱いだ瞬間、その言葉はあからさまに元気がない。

 キッチンから母が顔を出す。


「どうしたの、そんな深刻そうな顔して」


 輝はヨガ帰りのバッグを置き、今日の話をゆっくりと説明した。

 プールに誘われたこと。

 でも水着はヨガウェアのようにはいかないのではないか、と思ったこと。

 だから今回も母に助けを求めたこと。

 鷹子は輝の話を聞き終えると、「なるほどね」と腕を組んだ。


「ヨガはゆったりで誤魔化せたけど、水着は違うもんね」

「……どうしたらいいんだろう」


 輝はうつむいて呟くのに対し、鷹子は、まるで当然のように言う。


「じゃあ、また一緒に探しましょう。あんたが安心して着られる水着、きっとあるから!」


 ◆


 翌日。

 輝と鷹子は近くの大型スポーツ用品店へ向かった。

 冬の平日昼ということもあり、客の数が少なめで、店内は落ち着いていた。

 水泳コーナーには、レジャー用にカラフルなタイプもあれば、黒や紺のシンプルな競泳水着も並んでいる。


「やっぱり、こういう感じか……」


 輝はラックを眺めながら呟いた。

 鷹子は一枚手に取り、生地を指でつまんで確かめる。


「競泳用はどうしても身体にフィットするよねぇ。でも、ほら、こういう『セパレート型』もあるよ」


 彼女が示したのは、上下が分かれたタイプの水着。

 腹部分に余裕があり、上からラッシュガードを羽織ればかなりカバーできそうだった。

 パンツタイプなので、V ラインも余裕がある。

 しかし、輝の視線は別の棚で止まった。


「……これ」


 鷹子も近づいて見てみる。

 そこにあったのは、スカートタイプのマタニティ水着だった。

 腹を締め付けない柔らかな素材で、腰まわりをふんわりと覆うスカートがついている。

 色は落ち着いた紺で、体型を自然にカバーしてくれるデザイン。


「これなら……隠せる」


 輝の声に、希望が混じった。

 鷹子も腰周りから伸びている生地に触れながら確認する。


「いいじゃない。スカートがあるだけで、ずいぶん安心感があるし、お腹も苦しくなさそうだし」


 輝もそっと生地を触り、その柔らかさに胸がほどけるような気がした。


「……これにする」


 試着室で着てみると、スカートが腰まわりを自然にカバーし、腹部も優しく包み込んでくれた。

 当然、ヨガの時のように、サポートパンツを履くことにはなるが、とにかく見えなければ何とかなりそうだ。

 鏡の前で輝は小さく息を吐き、そして笑みがこぼれる。


「……これなら、プール行けそう」

「行こうよ。せっかくの安定期なんだから、できることは楽しんでおかないと」


 2人が納得し合い、レジへと向かった。


 ◆


 能美が情報を持ってきた公共の温水プールと言うのは、朝陽たちが住む市とその周辺自治体で構成される「広域連合」が設置している。

 要はその広域連合によるゴミの焼却処理場があり、その排熱を利用し温水プールとして活用しているとのことである。

 特徴はその料金で、一般的には在住対象地域内外で料金に差が出る二重価格なパターンが多い中、県外在住の輝であっても700円均一だという。

 これに単発型のマタニティスイミング教室が600円なので、合計で1300円。

 参加するにはハードルがかなり低めであるが、冬場もあってか、季節柄参加者は少なくなる傾向にあるそうだ。

 もっともそのおかげもあり、3人の予約に関しては問題なく枠が取れた。

 そして当日、輝は購入したての水着をバッグに入れ、少し緊張しながら温水プールへ向かう。

 今回は能美の夫が車を出してくれたこともあり、白鷺しらさぎ夫妻が運転席と助手席、輝と朝陽は後部座席にそれぞれ陣取った。

 移動中は、白鷺夫妻による漫才のような会話に笑わされていたが、しばらくして特徴的な二本の煙突が見えてくる。

 施設に入ると、外の冷たい空気とは対照的に、館内はコートでは汗をかいてしまうほど温暖であった。

 券売機でチケットを購入し、受付で「プレママ水泳教室です」と伝えると、スタッフが丁寧に説明してくれた。


「更衣室には、個室ブースや棚や椅子のあるシャワーブースもありますので、ゆっくりとご利用ください」


 その言葉に、輝は胸をなでおろした。

 ヨガのときもそうだったが「着替える場所」は大きな不安のひとつだったからだ。

 3人はそのまま女子更衣室へ入る。

 輝も今となっては、更衣室の事など全く意識もせずに進み、個室ブースのカーテンを閉めた。

 そこで、母と選んだ水着をゆっくりと身につける。

 スカートが腰まわりを自然に隠してくれ、目立つのはやはり腹と言う状況に、輝は息を吐いた。


「……これなら、大丈夫」


 水泳キャップは、伸びてきた髪がなるべくはみ出ないようにをかぶり、タオルを手にして更衣室を後にする。

 途中の温水シャワーで体を洗い流すと、冬の冷えがすっと溶けていくようだった。

 プールサイドに出ると、すでに数人の妊婦たちが集まっていた。

 続いて担当のインストラクターが現れ、安心を与えるような明るい声で呼びかけてくる。


「今日はプレママ水泳教室にようこそいらっしゃいました。助産師の高岡です。無理をせず、ゆっくり体を動かしていきましょうね」


 まずはプールサイドで準備体操。

 肩を回し、足首をほぐし、深呼吸を繰り返す。


「水の中では浮力が働くので、普段よりも体が軽く感じますよ。腰痛やむくみの改善にも効果があります」


 高岡の声掛けによって、受講生はいよいよ温水プールへ入る。

 足をつけた瞬間、じんわりと最初は温水プールの割には冷たいようにも感じたが、すぐにそれも温かさに置き換わっていく。

 輝は思わず息が漏れた。


「気持ちいい……」


 水の中でコースに沿って歩き始めると、お腹の重さがふっと軽くなる。

 さらに転倒するリスクがないため、気を張らずに進めている。

 高岡が声をかける。


「歩幅は小さく、ゆっくりで大丈夫ですよ。お腹を支えるように意識して歩きましょう」


 輝は水の抵抗を感じながら、じわじわと前へ進んだ。

 水面が揺れ、屋外から取り入れられている光が反射してきらきらと輝く。

 しばらく水中ウォーキングを行い、体を慣らしたところで、「水中でのラマーズ法実践」というプログラムへと移行。

 高岡が説明する。


「後頭部に浮袋をつけて、両足をコースロープに軽く引っ掛けます。体を開いた状態で、呼吸法を練習していきましょう」


 輝は指示に従い、後頭部に浮袋を縛りつけ、ゆっくりと仰向けになった。

 水の浮力が体を支え、視界には天井の光が揺れて映る。

 両足をコースロープに引っ掛けると、自然と脚が開く姿勢になった。


 ――さすがに、この体勢は怖い。


 スカートタイプの水着とはいえ、水中では布がふわりと揺れる。

 股間が気になって仕方がなかった。

 しかし、朝陽も、能美も、周囲の他の妊婦たちも同じ姿勢で、誰も他人を気にしていない。

 インストラクターも淡々と呼吸法を指導している。


「吸って……吐いて……赤ちゃんに酸素が届くイメージで」


 輝は呼吸に集中し、ゆっくりと胸を上下させた。

 水に浮かんでの呼吸は不思議と落ち着き、心が静かに整っていく。


「はい、無理せずゆっくり起き上がりましょう」


 高岡が声をかけ、輝はそっと両足をプールの中へと入れた。


 ――ばれなかった。

 ――何事もなく終わった。


 胸の奥に、安堵と達成感がじんわりと広がっていくのがわかる。

 輝は小さく笑みをこぼした。


「……来てよかった」


 水の浮力に助けられ、マタニティヨガとは違う形で、体も心も軽くなった気がする。

 プレママ水泳教室を終え、輝たちはプールサイドから上がると、タオルを肩にかけて個室型のシャワーブースへ向かった。

 シャワー室に入ると、噴射される温水によってふわりと湯気が立ち上り、やや冷えた肌がじんわりと温まっていく。


「……ふぅ、気持ちいい」


 輝は水着を脱ぎ、温水のシャワーを浴びながら先程のレッスンを思い返す。

 帝王切開が確定なのだから、自然分娩の呼吸法であるラマーズ法は使えないわけだが、もし自分が最初から普通の女性であったのなら、本番でも使っていたのだろうかと。

 そのとき、シャワーブースの外から声がした。


「かーや、ごめん、ボディソープ貸してもらってもいい?」


 能美の声だった。

 輝は一瞬、心臓がとび跳ねそうになった。

 全身を洗っている最中で、当然ながら何も身につけていない。


「え、あ、ちょっと待って……!」


 焦りが先に立ち、男だった頃の癖が反射的に出てしまう。

 輝は慌ててバスタオルを腰に巻き、上半身はそのままの状態で、勢いよくカーテンを開けてしまった。

 その瞬間――


「わっ、ごめん、開けさせちゃって……あれ?」


 能美が鳩が豆鉄砲を食らったような顔をし、その横には、すでに着替えを終えて通りかかった朝陽も立ち止まっていた。


「かーやちゃん……なんか、すごく……綺麗だね。なんていうか……とても、お母さんらしい」


 越美も頷く。


「うん、びっくりした。雰囲気があったかくて……胸のラインも、すごく自然で綺麗じゃん」


 輝は一瞬、息が止まった。

 しかし――

 2人の表情には驚きはあっても、疑いも、戸惑いも、ましてや不審の色など一切なかった。

 ただ、それは女性の友達を褒めるときのまなざしだった。

 輝は頬が熱くなるのを感じながら、やや照れ隠しがにじみ出るような声で言う。


「……あ、ありがとう。そんな褒めても何も出ないけれど……あ、そうだ。はい、これボディソープ。返すのはあとでいいから、ゆっくり使ってね」


 朝陽も優しく言った。


「かーやちゃん、あたし、先にロビーで待ってるからね」


 2人は軽く手を振り、気遣うようにその場を離れていった。

 輝はカーテンを閉め、自分の二つの胸に手を当てた。

 まさか身体のことで褒められるとは、夢にも思わなかったからである。

 

「……なんか、変な感じ。でも……悪くないかも」


 シャワーの温かさが、その気持ちをそっと包み込んだ。

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