第二十九週・年末年始
※この作品はフィクションです。症例をはじめとする医療情報・法的制度など現実の事象に着想を得ていますが、実在のものとは異なり、いっさい関係ありません。
十二月三十日。
午後のリビングには、ガラス越しに陽の光が静かに差し込んでいた。
冬のためその力は強くはないが、それでも室内のであれば日向ぼっこをするには充分な温かさがある。
そのとき玄関のチャイムが鳴り、鷹子が立ち上がって玄関へと向かう。
ドアを開けると、スーツ姿の男性――剣が立っていた。
正月休みにあわせた海外赴任先からの一時帰国。
約半年ぶりの帰宅だった。
「ただいま。……やっと帰ってこられたよ」
「おかえりなさい。長旅、本当にお疲れさま」
出迎えの鷹子に労いの言葉をかけられた剣は靴を脱ぎ、リビングへと入る。
そして、ソファに座っていた輝を見た瞬間、その表情がわずかに揺れた。
輝は、ビデオ通話の時よりもさらに髪が伸びていた。
前髪が額にかかり、後ろは襟足がふわりと揺れる。
ブラックのセーターで落ち着いた雰囲気だが、腹と胸元の膨らみは、近づかなくともはっきりとわかる程まで発達し、身重の女性そのものであった。
剣は言葉に迷うことなく、すぐに柔らかい声で呼びかけた。
「ただいま……輝。元気だったか」
その声音には、驚きよりも、会えなかった時間を埋めるような温かさがあった。
輝は立ち上がり、少し緊張した面持ちで頭を下げた。
「……おかえり。迷惑かけてごめん」
剣は近づき、息子の感情を確かめるように、そっと輝の肩に手を置いた。
「いいんだ。それよりも、帰るまでに丸3日かかる方がキツいな。現地からクルマで空港へ行き、国内線、北米行き、日本行きを乗り継ぎして。都合よく乗り換えの飛行機があるわけでもないから、途中で待たされるは、向かい風の偏西風があるから時間かかるはで。心の距離は埋められても、物理的な距離に阻まれのがキツい」
その声は長旅の疲れと同時に、ようやく自宅へ辿り着いた安らぎを感じさせる。
輝は、父に対しまずは入浴と着替えを促し、剣も同意した。
「食事の時に話そう」
「わかった」
輝は剣が浴室へ向かうのを見届けるとキッチンに立ち、鷹子とともに夕食の支度を始めた。
とは言っても北越家では豪勢な食卓になるわけではなく、剣と鷹子のふたりが行う晩酌のつまみ程度であるが。
刺身や肉炒め、漬物、サラダ、さらに冷蔵庫から缶ビールを取り出し、テーブルに並べる。
もちろん、輝はアルコールは飲めない身分なので、かわりに柑橘系フレーバーを使った無糖炭酸水を用意した。
すると、食材がほぼ揃ったタイミングに合わせて、湯上がりでパジャマに着替えた剣がダイニングへとやってきた。
「やっぱり日本の風呂はいいなぁ」
「あっちじゃ、基本シャワーなんでしょ?」
「まぁな。だがアンデスは火山地帯でもあるから、意外に温泉が湧いていて、休みに自然の露天風呂に行ったことがある。まさか南米で温泉に入れるとは思わなかったが、あそこは標高3000メートル以上で、しかも砂漠だったからな。間違いなく絶景には違いないが、日本とは根本的に違いすぎる」
早速、剣の土産話が披露される。
もちろん、仕事で技術者として海外赴任しているわけであるが、ほとんどの日本人が、プライベートでは絶対に行くことのない場所は、それだけでも話の種に尽きないのだろう。
輝も、父が帰国するたびに持ち帰るその体験記を耳にするのが、嫌いではない。
写真がなく話だけでも、頭の中で再生されるその雄大な自然であったり、その地域の文化であったり、あるいは独特な食事であったりと、剣の役得さがうらやましくもあった。
こうして、場の空気が和んだところで、ようやく夕食がスタートする。
剣は改めて輝の姿を見つめた。
「……赤ん坊は、順調なようだな。予定日も決まったんだって?」
輝は小さく笑った。
「うん。結局、帝王切開だから予定日というか、確定日というか。しかも3月3日なんだよね。桃花だから、ひな祭りで桃の節句なんて出来すぎだよ」
そこへ、さっきまで煮物を調理していた鷹子が話に加わる。
「何かいろいろおめでたそうなのはいいんだけれど、これまでバタバタしてたせいで、肝心なお祝いみたいなことをやれてないのね」
「そうなのか?」
「そう。それにやっぱり、いろいろ考えて、公にしなかったこともあって。もっとも、お祝い返しだの、騒がれるだの、気を使わなくても済んだのは助かったけれど」
そう言われれば、親戚にも秘密にしていたのは、状況が状況なだけに、輝と桃花を護るためでもあったのだろう。
そもそも、これまで「一人息子」で通っていたのが、いきなり妊娠してました、などと伝えたところで、到底理解が得られそうにもない。
しかも両親の全面バックアップがあるとは言え、正真正銘のシングルマザーなのだから、世間全般からの風当たりが強まりがちである。
事実、朝陽や能美にも「実家に出戻った娘」という、シンプルでわかりやすい設定により同情されている事は否定できない。
なお、輝の父方の祖父母は既に他界、母方は健在だが、祖父母共に故郷を離れ高齢者向け集合住宅に入居しているので、北越家として正月帰省の予定はなかった。
幸か不幸か、ある意味、静かな環境でこの2ヶ月半は過ごせていたのかもしれない。
輝は、お祝いという言葉が気になり、剣に尋ねた。
「そういえばお祝いって、どんなことするんだ?」
「あー、いわゆる安産祈願ってやつだ。戌の日に、神社とかお寺で無事な出産を祈祷してもらって、お祓いをした腹帯を授かる行事だな」
「私の時、というか、あんたがお腹の中にいた時はね、新しい腹帯を持ちこんで祈祷してもらったんだけれど、今なら神社で用意してくれてるところもあるって」
確かに、困ったときの神頼み、とはよく言ったものだが、これまでの経緯を考えると、一度お参りに行っておいても損はないだろう。
「それで、いつ行けばいいの?」
「うーむ。本来なら5ヶ月目とかだから、とっくに過ぎてるな。まぁいまは、親の体調とかもあるから、細かく気にしなくてもいいらしい」
「あ、それにタイミング的にはもう初詣よね。だったら、初詣でも兼ねて、少しは混まない、三が日明けの平日に行ってみるのはどう?」
「わかった。じゃあそうしよっか」
話がまとまり、こうして、3人は安産祈願兼初詣へ出かけることになった。
もっとも、あまり遠出して有名神社に出向いたところで、混雑している場所など妊婦にとっては危険極まりないだけなので、自然と近場の社寺が候補に挙がった。
「ここの稲荷神社とか、縁結びの神様だし、平日も祈祷してくれるって」
鷹子がスマホで検索した結果を2人に見せる。
輝にとって、祈祷は七五三以来となるため、ちょっぴり参拝が楽しみになった。
◆
大晦日から三が日は、寝正月とまでは行かないが、北越家は特に外出もせず、自宅で静かに過ごした。
世間では、初詣や初売りなどで、外出する人も多いのだろうが、今回の年明けは大寒波の影響で異様に寒く、体調も考えて控えたのもあった。
今週はマタニティヨガも冬休みのため、輝も朝陽、能美とは元旦にメッセージアプリ内のグループ機能で年賀の挨拶をやりとりし、それ以外はいつもと変わらない雑談的な書き込みをする程度。
真白ともショッピングモールでの一件以来、メッセージアプリで個別にやりとりするようにはなったが、一緒に買い物へ行くとか言う話は無い。
そうして特に何もなかった数日が過ぎ、正月が明けて間もない平日の朝。
街にはまだお正月飾りが残るが、初仕事で世の中が平常通りに動き始めたタイミングで、北越家の3人はマイカーに乗りこんだ。
大寒波は抜けたとは言え、晴れて冷たい空気の中、剣が運転席に座り、鷹子が助手席へ。
輝は後部座席でシートベルトを締めながら、久しぶりの「家族での外出」に少し懐かしさを感じていた。
正月で祈祷を受けるものの、特に正装で向かうわけでもなく、あくまで三人は防寒対策に特化した普段着での身なりをしている。
「日本の道路はやっぱり走りやすいな」
剣が笑うと、母がすかさず返す。
「剣さん、海外で運転荒くなってないよね?」
「いやいや、今日は特に安全運転だよ。大事な日だからな」
そんなやり取りに、車内の空気が和んでいく。
向かったのは、家から車で30分ほどの稲荷神社。
平日とは言え、まだそこそこの初詣客がいるらしく、駐車場には他県ナンバーの車も見受けられる。
これが三が日であったらと思うと、混み具合にぞっとするだろう。
境内に着くと、冬の澄んだ空気の中に、正月の名残のしめ縄や門松がまだ飾られていた。
鳥居の前で3人並んで一礼し、ゆっくりと石畳を進む。
しばらくすると手水所があり、柄杓を使ってゆすぎ清める。
そして奥には拝殿が、その手前周辺には神楽殿や授与所が立ち並んでいた。
「今回は拝殿の中に上がるんだよね?」
輝が尋ねると、剣が応える。
「そうだ。授与所で祈祷の受付をして入るんだが、賽銭箱の後ろの階段、大丈夫か?」
すると鷹子が指差した。
「見て。最近はね、バリアフリーのために横にスロープがあるよ」
「へぇ、便利になったもんだな」
輝はそのスロープを使いながら「こういう配慮、本当にありがたい」と心の中で思った。
剣が初穂料を納め、拝殿へと案内される。
靴を脱ぎ、畳の空間に進むと、そこには幾つか、背もたれ付きの椅子が並べられていた。
これは、マタニティだけでなく、足腰の関係で畳の上に座ることが難しい高齢者などにも配慮したのだと言う。
奥の神棚前には、ろうそくの炎がいくつも揺れている。
祈祷が始まると、神職の祝詞が静かに響き、太鼓の音がゆっくりと空気を震わせる。
拝殿は静寂ながらも神気が満ちているようで、その厳かな雰囲気に輝は自然と背筋が伸びた。
「母子ともに健やかでありますように」
「安産でありますように」
祈願の言葉が続くたび、輝はお腹にそっと手を添えた。
桃花の存在が、胎動を通してよりはっきりと感じられる。
祈願が終わると、祈祷済みの腹帯が手渡された。
白地に淡い桃色の印が押された、柔らかな布。
母が嬉しそうに説明する。
「腹帯ってね、昔は『お腹を守るおまもり』って意味があったの。今でもサポーターとして腰を支えてくれるから、妊娠中期の腰痛対策にもいいのよ」
剣も頷きながら言った。
「大事に使えよ。桃花のためにも、お前のためにもな」
輝は腹帯を胸に抱きしめ、小さく「うん」と答えた。
今年の初詣で願うことと言えば、安産祈願としか言いようがなかったのであるが、授与所を覗くと、他にも交通安全や合格祈願のお守り、絵馬なども販売されている。
鷹子が、せっかく神社まで来たので、おみくじもやりたいと言い出し、3人は試すことになった。
輝も、おみくじが収められた箱の中身を一枚選び、開封する。
『ーー中吉。待ち人来たる。出産は油断大敵』
帰り道、車の中は穏やかな沈黙に包まれていた。
初詣と安産祈願を終えた安心感と、家族で迎えたこの時間の温かさが、静かに輝の心を満たしていた。
そういえば天候も、昼に近づくにつれ昨日までの寒さが収まり、日中は風のない小春日和となってきた。
桃花の誕生に向けて、新たな年の始まりに、改めて気を引き締める輝であった。




