第二十八週(前)・真白
※この作品はフィクションです。症例をはじめとする医療情報・法的制度など現実の事象に着想を得ていますが、実在のものとは異なり、いっさい関係ありません。
クリスマスが過ぎ、12月終わりのショッピングモールは、冬休みとなった学生や買い物客でほどよく賑わっていた。
輝は、さらに大きくなった腹を支えながら、店舗2階の通路をゆっくり歩く。
今回も、妊娠が発覚した際に鷹子が代理購入してくれた服でやってきたのだが、これまでとは状況が異なりつつあった。
それは、妊娠発覚した二か月前と比べて、さらにバストが大きくなってきたためである。
もともと、女性ホルモンの影響で妊娠中はサイズが膨らみ、その後戻ることが三国から伝えられていた。
だが、精密検査などから通例よりも発達状況が大きく、妊娠要因以外による女性化も同時進行しているのではないかという見解が示された。
そもそも第二次性徴は個人差が大きく、バストの発達も20代前半まで続く例もあるそうだ。
結局、母の用意した下着ではサイズが収まりきらなくなってきたため、輝本人が売り場まで出向くことになったのである。
最初、鷹子は今回も代わりに買ってくる、あるいは自分も買い物に付き添おうかと提案したが、輝はその申し出を有り難くも断った。
体調面でも、精神面でも、比較的安定している今のうちに、自立できることはやりたいという意識があったからだ。
そして今回も、マスクをしてはいるがウィッグはかぶらず出かけた。
(自分でできることは自分でやる。それでもできないことは他人に頼る)
そう思いながら売り場へ向かっていると、服の下で桃花がときどき蹴る。
だんだん胎動も、動きがはっきりと、大きくなってきた。
(……俺を応援してくれるかな、桃花も)
輝はこの蹴りを、肩を叩くように自分への激励のように捉えた。
ポジティブシンキングは、能美から教わった学びの一つ。
なるほど、意識して気が沈まないように心がける方法もあるのかと、教えられた。
◆
モールのテナントにはベビー用品の専門店が出店している。
とはいっても、販売品は赤ちゃん関連用品全般に多岐にわたり、母親向けの衣服も多々取り揃えられていた。
店に来るまでは下着だけの購入を考えていた輝であったが、店内を見渡すと、紙おむつや哺乳瓶、赤ちゃん用の服、ベビーベッドやベビーカーなど、必要な備品が多いことに改めて気づかされた。
当然だが、新品はやはり高い。
使いきりの消耗品はともかく、これではいくらあっても予算が足りないのは明白。
「こりゃ、衛生用品以外はリサイクルショップも覗いた方がよさそうだ……」
思わず本音が出てしまう。
輝はそう口にしてしまってから、慌てて周囲の店員に聞かれていないか確認する。
金の心配はするな、と父の剣には言われたが、やはりどうしても金がかかることもある。
そこまで考えを巡らせると、またもや、自分がネガティブな思考をしていると思い知らされた。
「今日は買ったら早めに帰ろう……。必要品は、また母さんに相談だな」
輝気を取り直し、売り場の手直しをしている女性店員へ声掛けした。
「あの、すいません...…」
「はい、いらっしゃいませ。いかがされましたか?」
「ちょっとサイズを測っていただきたいんですが」
すると、店員は「ではこちらに」と、試着室前へ輝を案内する。
「いったんこちらの椅子にお座りいただいて、まずはご要望をお伺いします」
いつまでも立ちっぱなしでは負担になるからとの店の配慮か、試着室のカーテン内には数十センチ程度な長さのベンチが設置されていた。
輝はゆっくりした動作でそれに腰かけ、店員に伝える。
「妊娠でバストサイズが膨らんできたので、より楽で合うものを探しているんです」
「ではサイズのご確認いたしましょう。まずは中で脱衣をお願いします。脱ぎ終わりましたら、ブザーで呼んでいただき、測定しますので」
彼女の落ち着いた声に、輝は少し戸惑いながらも頷いた。
最初の入院時は検査の一環で測定されたが、以降は健診の際にも胸囲を測ることは一切なく、オープンな場である店で計測されるのは、これが初めてだったからだ。
靴を脱ぎ試着室の中へ。
一枚鏡の前に立ち、コートなどの上着を脱いでいく。
もっとも、測定自体は丸裸になる必要はなく、それまでの下着であったり、Tシャツ1枚姿でもよいそうだ。
ハンガーにコートをかけ、ふとを見ると、押しボタン式のブザーが壁に設置されている。
もっとも、このブザーの音は呼び鈴といった方が正しく、不快な音色ではない。
しばらくして、先ほどの店員がカーテンの手前までやってきた。
「よろしいでしょうか、では失礼します」
「はい……お願いします」
店員はメジャーを取り出し、まさにプロの技で迅速かつ丁寧に測定していく。
バストのトップとアンダーを測り終え、結果を告げる。
「今の週数ですと、もっと余裕のあるサイズが快適ですよ。トップとアンダーの差で言えばCくらいでしょうか。ノンワイヤー品で試着用のサンプルもご用意してますので、実際にお試しになりますか?」
「はい...…着てみます」
輝は店員がサンプルを用意する間、鏡越しに自分の姿を見つめた。
黒くて柔らかいブラトップ姿の上半身。
髪も伸びてきたので、もはや見た目だけならただの妊婦だ。
だが、二つのカップ部分は、明らかにぴっちりと余裕のない状態に見えている。
サイズがマッチしていないのは明らかだった。
店員が再び戻ってきて、声をかける。
「こちらのタイプですと、産後も使いやすいですよ。肌触りも良くて、締めつけが少ないです」
渡されたのは、淡いピンクの、授乳しやすいようカップが前開きになるもの。
谷間の部分にボタンがあり、手際よくとりかかれるという。
指先に伝わる布がやわらかく、どこか安心感をくれる。
(……これなら、桃花を抱くときも心地よさそう)
さらに産前後兼用の授乳服も勧められ、試着してみる。
これはTシャツタイプながら、サイドが左右に開く構造となっており、簡単で授乳しやすいそうだ。
もちろん、妊娠中からずっと長く着られるそうである。
(そうか、これから母乳が出るようにもなるのか……)
そろそろ、桃花を産んだ後のことも考え始めなければならない。
実際に娘に充分な量の母乳が出るかどうかは別として、与えられる前提で準備は進めねばならないだろう。
もちろん、足りない場合は市販のミルクや哺乳瓶など、さらに必要な備品が増えるのだけは確かだった。
そう考えると、輝は段々と後戻りできない領域へと踏み入れている実感が、より深まった。
これまでの、男でもありながら女でもある状況がさらに進行し、より女性的な側面や色彩が色濃くなってきたからである。
それでも、桃花の安全のために、そして自分が楽に過ごすために、こだわりを地面へと置き、リアリズムを選択した己の判断に悔いはない。
レジへ向かう途中、輝はふと笑う。
その笑みは、もう「隠す」より「受け入れる」方へと着実に歩んでいることを物語っているのだった。
◆
買い物を終えた輝は、マイバッグを片手にモールの出口へと向かった。
まだ正午すぎとはいえ、この時間であっても、日に日に寒さが増している。
冷やすのはよくないからと、ついでにかなりゆったりした腹巻も購入したおかげで、思っていた以上に荷物が多くなった。
(帰ったら、ホットの麦茶飲もう...…)
そう思いながら角を曲がった瞬間だった。
「きゃっ——!」
「うわっ……!」
過度の向こうから歩いてきた長い髪の女性と接触したのだ。
もっとも、ぶつかったとはいえ、まずは転倒せずに済んだことに安心する輝であったが、同時に、冷たい液体が胸元から腹にかけて一気に広がった。
輝のコートが、女性の持っていたアイスコーヒーでびしょ濡れになってしまったのだ。
「ご、ごめんなさいっ……! わたし、前見てなくて……!」
その瞬間——輝の背筋が凍った。
慌てて声を上げた女性の声は、どこかで聴き覚えがある。
そして輝がその女性を直視するよりも前に、相手のほうが輝の顔を見て、息を呑んだ。
「……え……? 北越……くん……?」
その声に、輝の全身に稲妻のような衝撃が走る。
(ら……雷鳥さん……? なんで……こんなところで……)
雷鳥真白は、信じられない、という表情を隠せず、輝の顔と腹を交互に見つめた。
彼女は輝と同じ大学で、学年も学部も同じ四年生。
三年生の時、一年間同じゼミに所属していたこともあって、すっかり顔なじみになっていた。
もっとも、親しい友人であるとか、ましてや男女間といった関係はまったくなく、未だに連絡先も交換していない。
それに四年生へ進級したことで、各々が就職活動で忙しくなってしまったこともあり、この八か月間、学内で顔を合わす機会すらなかった。
そんな彼女に再会するとは完全に想定外であって、しかもこの姿で、である。
「えっ……えっ……? 北越くん……だよね……? でも……そのお腹……え……?」
真白の声は震え、あからさまに混乱している様子がわかる。
だが今更、言い訳したところで、この秘密など隠しきれるものではないことも、重々承知していた。
輝は観念したように、ほとんど変わらない声のまま、ただ柔らかく答える。
「……雷鳥さん。俺だよ」
真白の表情が決定的に崩れた。
(……声は……ほぼ同じ……でも……見た目は……完全に妊婦さんで……どういう……こと……? でも……いまはそれより……)
真白は濡れた輝の服を見て、ハッと我に返った。
すぐに肩掛けのバッグからウェットティッシュを取り出し、シミとなった部分を軽く抑える。
続いて、乾いたハンカチをシミに充てた。
「ご、ごめん……! ほんとにごめん……! 服……冷たいよね…… お腹……大丈夫……?」
輝は苦笑した。
とりあえずシミへの応急処置のために、コートを脱いだからだ。
こうなると、輝のマタニティとしての身体のラインが、よりくっきりと出ることになる。
「大丈夫……だよ。でも……ちょっと冷えるかな……」
真白は唇を噛み、決意したように言った。
「北越くん……わたしの部屋、すぐ近くなの。洗濯機も乾燥機もあるし……シャワーも使っていいから……よかったら……来てくれない……?」
輝は驚いた。
(……雷鳥さんの部屋……? でも……このままじゃ帰れないし……お腹も冷えてきたら……桃花にもよくない……)
真白は続けた。
その声はやや恐縮していたが、誠実だった。
「変な意味じゃないよ。ほんとに……お詫びしたいの。服も乾かしたいし……それに……その……話……聞きたい……知人として」
真白の「知人として」という言葉が、輝はやや気にかかるが、そうも言ってられない。
首を縦に振り、厚意を受けることにした。
「……じゃあ……少しだけ、お邪魔しようかな」
「うん……! あっちだよ。ゆっくりでいいからね」
二人は慌てず、但しやや足早に、ショッピングモールを後にするのだった。




