第二十七週・告知
※この作品はフィクションです。症例をはじめとする医療情報・法的制度など現実の事象に着想を得ていますが、実在のものとは異なり、いっさい関係ありません。
妊娠27週目。
歳末が近づき、冬の空気がまだ冷たい朝、輝は鷹子とともに大学病院の産婦人科を訪れていた。
今回からは、輝自身の希望もあり、通常の午前中からの診察に切り替えた。
ウィッグはかぶらず地毛のウルフカット。
服装は、おなじみとなった地味なパーカーとマタニティデニムの組み合わせ。
病院内なのでマスクをつけ、鷹子とともに長椅子で静かに座る。
今回、母同伴なのは、様々な検査結果を踏まえ、今後の出産や治療の方針を決めるためだった。
午前中の待合室にはさんざまな週の妊婦だけでなく、「婦人科」を受診する年配の女性たちも多い。
患者たちは皆それぞれ、スマホに触れたり、瞑想のように目を閉じたりして、落ち着いて順番を待っていた。
誰も輝に視線を向ける者はいない。
輝本人も特に気にする様子はなく、母子手帳の記録を確認しながら呼び出しの声がかかるまで過ごす。
先週、プレゼントの買い物のときに、ウィッグなし外出をこなせたことが、自信へとつながったのだろうか。
あるいはその前から、朝陽や能美といったマタ友と出会い、会話し、ヨガで身体を動かし、一緒に食事を摂ったことで、輝自身の「いまの自然な姿」に近づきつつあることも一因かもしれない。
この二か月で輝は身も心も大きな変化を遂げたはずだが、今の姿は良くも悪くも目立たず、もはや一般的な外来患者の一人にすぎなかった。
「七二二番さん、どうぞ」
診察室に呼ばれ、輝が椅子に座ると、担当医の三国はカルテを確認しながら、いつもの落ち着いた声で口を開いた。
「今日は、妊娠の経過とは別に、あなたの身体の特性について、医師として説明しておくべきことがあります」
その言葉に、輝は自然と背筋を伸ばした。
鷹子も隣で静かに耳を傾ける。
三国医師は、決して脅かすような口調ではなく、淡々と、しかし誠実に説明を続けた。
「まず、北越さんの身体の構造について。外見上も機能上も男性器が形成されていますが、その内部に女性の器官が存在しています。その特性上、子宮口が閉ざされていて、産道としての機能を果たすことができません。これはあなたの身体の構造によるもので、自然分娩ができないということになります」
輝は小さく息を呑んだ。
しかし、三国医師はすぐに続ける。
「ですので、出産方法は以前にもお伝えした、来年3月3日に帝王切開となります。あらかじめ入院し、計画的に処置を行います。これは医学的に選択できる最もベターな方法ですから、心配しすぎる必要はありません」
やはり緊張もあって、掌は発汗していたのだろう。
さりげなく、鷹子が忍ばせていたハンカチを輝に渡すと、張り詰めた心の糸が少しだけほどける。
三国医師は、次にホルモンの変化について触れた。
「妊娠に伴って女性ホルモンが大きく増加しています。その影響で、男性としての機能が低下することが考えられます。もしかしたら、心当たりがあるかもしれませんが」
輝は視線を落とした。
言われてみれば最近、女性の姿を見ても以前のような反応がなくなっていた。
朝陽とSNSでやり取りした際に抱いた、淡い想いが最後となって、それ以降はヨガをする朝陽や能美を間近で目にしても、声を聴いても、興奮も何もない。
三国は、さらに慎重な口調で続ける。
「また、今後の生殖機能についてですが……妊娠によるホルモン変化が続くことで、男性としての生殖機能が失われる可能性があります。これは、あなたを不安にさせるための説明ではありませんが、医師として、事実をお伝えする必要があると思っています」
輝はその結果を薄々わかっていたのか、冷静に受け止めた一方で、しかし畏れていた事実が直接伝えられこともあって、ただ無言でいるしかなかった。
鷹子も、輝の手を握ったまま「大丈夫よ」と囁くことしかできない。
三国は、桃花についても説明を続けた。
「北越さんのケースは特殊で、受精の経緯もほぼ前例がありません。そのため、ご存じかとは思いますが……遺伝的なリスクが、通常より高い可能性は否定できません」
輝の胸がぎゅっと締めつけられる。
しかし、三国医師はすぐに言葉を重ね述べる。
「ただし、遺伝的な異常がある場合、妊娠初期の段階で自然に成長が止まることが多いのも事実です。現在、お子さんは順調に成長しています。エコーでも異常は見られません。これはとても良い兆候です」
輝は腹に手を当てた。
桃花の胎動は日に日に活発となり、確かに生きている。
それだけで充分だった。
すると三国は、これまでの説明で見せた冷静なトーンを変え、最後にゆっくりと柔らかい声で語り掛ける。
「今日お話ししたことは、あなたを不安にさせるためではないんです。むしろ、必要以上に心配しないために、正しい情報を共有しておくことが大切なんですから」
そして、電子カルテをまとめながら続けた。
「この後、相談室で飛騨とお話しされますよね? きっと、あなたの気持ちを受け止めてくださるはずです」
輝は深く息を吸い、ゆっくりと立ち上がる。
鷹子が寄り添い、2人は診察室を後にした。
◆
診察室を出た輝は、母と並んで院内の廊下を歩いていた。
足取りはどうしても重くなり、頭の中には三国の言葉が繰り返し渦を巻いていた。
帝王切開になることはまだいい。
ホルモンの影響で身体が変化していること。
今後の生殖機能の可能性。
そして、桃花の遺伝的リスクについて。
どれも「知らなければよかった」と思うような内容ではなかった。
むしろ、知っておくべき事実だった。
それでも――
胸の奥に重たいものが沈んでいくのを感じていた。
母がそっと肩に手を置く。
「飛騨さんが待ってる。話して、少し楽になってきなさい」
輝は小さく頷き、相談室の扉をノックした。
室内は柔らかな照明に包まれ、観葉植物が静かに揺れていた。
カウンセラーの飛騨は、いつもの落ち着いた笑顔で迎えた。
「こんにちは、北越さん。どうぞ、座ってください」
ソファーに腰を下ろすと、ようやく深く息ができた気がした。
飛騨は、輝の表情を丁寧に読み取りながら話しかける。
「三国先生から、いろいろ説明があったようですね」
輝は視線を落とし、しばらく喋りたいことを纏めつつ、少しずつ言語化していった。
「……はい。頭では分かってるんです。必要な説明だって。でも……なんか、全部が重くて」
「重く感じるのは当然ですよ。あなたは今、妊娠という大きな変化の中にいて、身体も心も揺れやすい時期です。そこに『将来の可能性』や『身体の特性』の話が重なれば、誰だって不安になります」
輝は唇を噛んだ。
「……俺、自分の身体のことは今更変えられないし、ある程度は諦めがつくんです。でも...…桃花に何かあったらどうしようって……そんなことばかり考えてしまって」
飛騨は優しい声で返した。
「それは親として当然ですよ。誰だって、心配になります。自分の子どもなんですから! あなたが桃花ちゃんを大切に思っている証拠ですよ」
輝の両目が、胎内でうごめいている桃花へと向く。
「でも……俺の身体のせいで、この子にリスクがあるって言われて……俺が……」
飛騨はすぐに遮らず、輝の言葉が自然に出てくるのを待った。
「……俺が悪いんじゃないかって」
その言葉を聞いた瞬間、飛騨は静かに首を振った。
「北越さん。あなたは何も悪くありません。身体の特性は、誰のせいでもない。そして、桃花ちゃんがここまで順調に育っているのは、あなたが毎日大切に過ごしてきたからです」
輝の目に、じわりと涙がにじんだ。
飛騨は続ける。
「三国先生もおっしゃっていたでしょう。『不安にさせるための説明ではない』と。医師は事実を伝える責任がある。でも、揺れるあなたの心に寄り添うのは、私たちカウンセラーの役目です」
輝は深く息を吸い、ゆっくりと吐き出した。
「……少し、楽になりました」
「よかった。何度も言いますが、あなたは一人じゃないんです。お母さんも、三国先生も、私も、そして周りの友人たちも。みんなであなたと桃花ちゃんを支えていきますから」
輝は涙を拭う。
「……ありがとうございます」
「また来てください。不安は抱え込むより、誰かと分け合った方が軽くなりますから。それにきょう、北越さんはご自身で選んで、朝の時間帯に来られた。これだけでも前に進めていますし。あと、今度はちょっとでもいいので、楽しかったことも教えてもらえると嬉しいです」
輝は席を立ち、深く頭を下げた。
廊下に出ると、心配そうに待っていた鷹子が声をかけてくる。
「どうだった?」
「……うん。話してよかった」
輝と鷹子が病院を出ると、冷たい西北西の風に頬を撫でられ、それ以上話を深堀りさせることはなく帰路につくのであった。
◆
輝は夕食後、寝室に戻りスマホを取り出した。
朝陽と越美とのグループチャットには、すでに「今日検診だったよね、どうだった?」「無事終わった?」といった気遣いのメッセージが並んでいる。
輝は深く息を吸い、指先でゆっくりと文字を打ち始めた。
「今日の検診で、出産方法が正式に帝王切開に決まったよ」
送信ボタンを押してから、少し間をおいて、スマホ画面の上に通知が立て続けに表示される。
「そうだったんだね、大丈夫? 不安じゃない?」
「帝王切開って聞くとびっくりするけど、先生が判断したなら安心していいと思うよ」
二人の言葉は、まるで温かい毛布のように輝の胸に広がった。
飛騨の言う「周りの友人たち」は、確かに、ここにいる。
輝は続けて、今日聞いた大切なことを丁寧に伝える。
「身体の構造の関係で、自然分娩はできないって前から言われてて……今日、正式に日取りも確定。それで、出産日は38週の3月3日になった。ひなまつり、ね」
「ひなまつりっ! じゃあさじゃあさ、桃花ちゃんが出て来るのって、桃の節句じゃん!」
能美はその巡りあわせが気に入ったらしく、文面からも喜びが伝わってくる。
まさに、桃花がこの世で最初の産声をあげる日として、こんなにふさわしい日はない。
朝陽からもメッセージが送られてくる。
「日にちが決まると実感湧くね。ちょっぴり早い春かぁ……もうあっという間だよ」
輝は、2人が自然に喜びとして受け止めてくれることに、胸がじんと熱くなる。
そして少し迷いながらも、もうひとつ大事なことを打ち込んだ。
「それと……実は、子宮口の構造の関係で、ずっと大学病院に通ってたんだ。普通の産院じゃ対応が難しいって言われてて。今日の説明もその一環で、ちゃんとした設備があるところじゃないと安全に出産できないから」
送信すると、すぐに朝陽からレスが来る。
「そうだったんだね。言ってくれてありがとう。大変なことも多かっただろうに」
もう一方の能美はポジティブシンキングを体現するような文面。
「むしろ、ちゃんと専門の先生が見てくれてるってことじゃん! 逆に安心じゃね?」
二人とも、らしい返事だ。
輝は画面を見つめながら、緊張がほぐれ、安らかさが部屋を覆うのを感じた。
自分の身体のこと、桃花のこと、そして出産のこと。
どれも簡単に話せる内容ではなかったけれど、2人は驚くことも、変に気を遣わせることもなく、ただ自然に受け止めてくれる。
「ありがとう。2人に話せてよかった」
そう送ると、朝陽も能美も景気づけにスタンプで応じる。
輝はスマホを胸に抱き布団に潜ると、ほっとしたのか、そのまま眠りの世界へと誘われるのであった。




