第36話「雷神の咆哮は、まだ遠い」
【第6刻限】残り59日 18時間 ─ 刻印課題:火山公を屈服させよ
───
ドゴォォォォン!!
凄まじい轟音が、演習場を震わせた。
青白い光が迸り、空気を引き裂く。
鉄の矢弾が、岩壁に向かって一直線に飛翔した。
だが──刹那。
発射の直後、矢弾が白熱した。
バァンッ!!
空中で、爆発した。
破片が四散し、地面に落下していく。
1キロ先の岩壁には、傷一つ付いていない。
同時に。
ジュウウウウウ……
試作機から白煙が立ち上った。
金属が焼け焦げる、嫌な臭い。
煙が晴れると──半ば溶けたレールが、そこにあった。
(あー……)
レイスは内心で天を仰いだ。
(知ってた。こうなると思ってた。弊社のプレゼンも大体こんな感じで炎上するんだよね)
たった一発。
期待の新兵器は、たった一発で使い物にならなくなった。
雷神の咆哮は、まだ遠い。
───
── 30分前。
───
城外演習場。
夏の陽射しが容赦なく照りつける中、奇妙な構造物が据え付けられていた。
二本の金属製レール。
それを支える木製の台座。
後部には、複雑な魔術式が刻まれた水晶板。
一見すると、何かの農機具にも見える。
だが、その周囲に漂う魔力の気配は、明らかに尋常ではなかった。
「……これが、例の新兵器か」
カディルが腕を組み、眉根を寄せた。
その隣では、バラカが首を傾げている。
「なんだ、こりゃ。弩にしちゃ弦がねえぞ」
「弓でも弩でもありませんわ」
メルヴェが扇子を開き、優雅に微笑んだ。
銀髪が夏の風に揺れ、紫水晶の瞳が妖しく輝く。
「これは『雷で矢を飛ばす』兵器ですの」
「雷で?」
カディルの声に、困惑が滲んだ。
その横で、ナズもまた不思議そうな顔をしている。
深紫の瞳が、二本のレールを見つめていた。
「火薬も弓弦も使わない、ということですか?」
「ええ」
メルヴェが指先でレールを示した。
「この二本のレールに鉄の矢弾を置き、雷魔力を流す。すると『見えない力の流れ』──磁場と呼ばれるものが生まれ、矢弾が前へ滑るように加速しますの」
「磁場……」
カディルが顎に手を当てた。
「魔術の一種、ということでしょうか」
「魔術と言えば魔術ですが、正確には『自然法則の応用』ですわね。雷属性の魔力が生み出す力を、弓の代わりに使うのです」
バラカが頭を掻いた。
「……よくわからねえ。要するに、凄え勢いで飛ぶってことか?」
「乱暴に言えば、そうなりますわね」
メルヴェが苦笑する。
「俺に言わせりゃ、飛んで当たりゃ何でもいいんだがな」
バラカが肩をすくめた。
「難しい理屈より、的に穴が空くかどうかだ」
「バラカ殿の仰る通りですわ。だから今日は──」
メルヴェが扇子を畳み、試作機を示した。
「実際に撃って、確かめるのです」
(フレミングの左手の法則。中学の理科で習うやつ。でも説明しても誰も分からないから黙っとこ)
レイスは内心で呟いた。
ドゥラクが試作機の傍らに立ち、無骨な腕を組んでいた。
黒髪に赤い瞳。矮躯ながら、その存在感は巨岩のように重い。
「小難しい話はいい。見りゃ分かる」
職人の声は、いつも通り素っ気ない。
彼が顎で示した先──1キロほど離れた場所に、切り立った岩壁がそびえている。
「的はあの岩壁だ。当たれば、岩が砕ける」
「1キロ……」
カディルが目を細めた。
「弩の射程を遥かに超えているな」
「我が騎士団のクロスボウでも、有効射程は200歩がせいぜい。……本当にあの距離を?」
「当たればな」
ドゥラクが素っ気なく答えた。
「問題は『当たるかどうか』じゃない。『撃てるかどうか』だ」
「だから『神の槌』なのです」
メルヴェが扇子を畳んだ。
「理論上は、あの岩壁を粉砕できる威力がある。──理論上は、ですけれど」
「理論上、ねえ」
バラカが獣の牙を見せて笑った。
「そういう前置きがつく武器は、大抵ぶっ壊れるもんだ」
「縁起でもないこと言わないでください……」
ナズが眉を下げた。
「メルヴェ殿とドゥラク殿が、何日も徹夜で作った試作機なんですよ?」
「だからこそだ、お嬢さん」
ドゥラクが鼻を鳴らした。
「職人は完成品に絶対の自信を持つが、試作品には疑いを持つ。……それが当然だ」
ドゥラクが鼻を鳴らした。
「御託はいい。撃つぞ」
───
全員が、試作機の後方に下がった。
ドゥラクが鉄製の矢弾をレールにセットする。
拳ほどの太さ、腕ほどの長さ。先端は鋭く研がれている。
「重いな……」
カディルが矢弾を見つめた。
「これが1キロ先まで飛ぶとは、にわかには信じがたい」
「だからこそ、見る価値があるのですわ」
メルヴェが水晶板の前に立ち、両手を翳した。
「では、参りますわ」
「メルヴェ殿、お気をつけて」
ナズが両手を胸の前で組んだ。
詠唱が始まる。
空気が震えた。
水晶板に刻まれた魔術式が、青白い光を帯びていく。
バチッ、バチバチッ──
紫電が走る。
レールが青白く輝き、空気が焦げる匂いが漂った。
「おお……!」
バラカの琥珀色の瞳が、子供のように輝いた。
「すげえ魔力だ。肌がビリビリする……!」
レイスは、固唾を呑んで見守った。
(頼む。せめて岩壁まで届いてくれ──)
「発射」
メルヴェの指先から、雷光が迸った。
結果は──Loss、だった。
───
「……やはり、か」
ドゥラクが腕を組んだまま、溶けたレールを見下ろしている。
驚いた様子はない。
むしろ「予想通り」という顔だ。
「前から言っていただろう。今の素材じゃ、十発持てばいい方だと」
「十発どころか一発じゃないですか……」
ナズが呆然と呟いた。
「理論と現実は違うってことだ、お嬢さん」
ドゥラクが苦々しげに言った。
「レールに使った合金は、熱に強いミスリル混合だ。だが、雷魔力の負荷には耐えられなかった」
「矢弾も駄目でしたわね」
メルヴェが扇子で口元を隠した。
「加速中の摩擦熱に耐えられず、空中で分解。これでは意味がありませんわ」
「……せっかく期待していたのに」
カディルが溜息をついた。
「これがあれば、火山公の軍勢にも対抗できると思ったのですが」
「カディル殿、まだ諦めるのは早いですわ」
メルヴェが首を振った。
「失敗は成功の母。今日分かったのは、『何が足りないか』です」
「そうだ」
ドゥラクが頷いた。
「壊れ方を見れば、次に何が必要か分かる。……これも設計のうちだ」
「でも……」
ナズが溶けたレールを見つめた。
「また一から作り直しですよね? 材料も、時間も……」
「材料は問題だ。時間は……どうにかする」
ドゥラクの赤い瞳に、職人の意地が宿った。
沈黙が落ちた。
夏の陽射しだけが、無情に照りつけている。
ふわり、と肩に重みが加わった。
振り返らなくても分かる。
小さな爪の感触と、鱗の温もり。
「キュルル……」
漆黒の鱗を持つ幼龍が、心配そうに鳴いた。
金色の瞳が、溶けたレールとレイスの顔を交互に見つめている。
(……慰めてくれてるの?)
レイスはファルの頭を軽く撫でた。
(まあ、試作品なんてこんなもんだよ。問題は、ここからどう改善するか)
営業時代も、失敗した試作品を前に「どうしましょう」と途方に暮れる開発部を、何度も見てきた。
大事なのは、失敗の原因を特定して、次に繋げること。
(300メートルで分解。1キロ先の岩壁、遠すぎない? ……いや、愚痴ってる場合じゃない)
「問題点を整理しろ」
レイスが言った。
「必要な素材は何だ」
「雷鋼鉱」
ドゥラクが即答した。
「魔力伝導率が極めて高く、かつ熱にも強い。雷属性の魔力を効率よく流せる鉱石だ。これがあれば、レールの問題は解決する」
「聞いたことがある」
カディルが眉を寄せた。
「帝国でも希少な鉱石だと。……入手は困難では?」
「困難だからこそ、今まで試せなかった」
ドゥラクが苦々しげに言った。
「矢弾は?」
「表面に潤滑性の高い材料を塗布する必要がありますわ」
メルヴェが答えた。
「摩擦係数を下げれば、熱の発生を抑えられる。問題は、高温下でも性能を維持できる素材が限られていること」
「高温に耐える潤滑剤……」
ナズが首を傾げた。
「油ではダメなのですか?」
「通常の油では、この熱量で即座に蒸発しますわ。特殊な素材が必要です」
沈黙が落ちた。
希少な鉱石と、特殊な素材。
どちらも、簡単に手に入るものではない。
「……一度、城に戻るぞ」
レイスは踵を返した。
「情報を整理する必要がある」
「おう」
バラカが溶けたレールを一瞥した。
「まあ、派手にぶっ壊れたな。だが──」
獅子の目が、静かに光った。
「完成したら、面白えことになりそうだ」
───
ゲジェカレ城、資材置き場。
石造りの倉庫には、木箱や麻袋が整然と積み上げられている。
黒曜石鹸の原料、鉄鉱石、乾燥薬草──領地運営に必要な物資が、ここに集められていた。
「よいしょっと……」
ミナが木箱を運んでいた。
金茶色の髪を後ろで束ね、獅子の耳がぴくりと動く。
作業着姿で、額の汗を袖で拭っている。
「ミナ、無理するな」
カディルが声をかけた。
「重い物は俺たちが運ぶ」
「いえいえ、これくらい平気ですよ」
ミナは明るく笑った。
「厨房にいるより、体を動かしてる方が性に合ってますから」
「元気なのはいいが……」
バラカが妹の頭を軽く叩いた。
「飯の支度はどうした」
「もう仕込み終わってるもん! お兄ちゃんこそ、手伝ってよ」
「俺は力仕事向きじゃねえ」
「嘘ばっかり。お兄ちゃん、一番力持ちじゃない」
ミナが頬を膨らませる。
その時、倉庫の入口に人影が現れた。
「おや、閣下。こちらにいらしたのですか」
砂茶色の髪に、琥珀色の瞳。
旅慣れた商人らしい機能的な衣装。
エブル・ナズル。
タジル商会の隊商を率いる男だった。
「エブル殿」
カディルが声をかけた。
「今日は仕入れの日でしたか」
「ええ、カディル様。資材の搬入と、黒曜石鹸、それにトラトラバームの仕入れに参りました」
エブルが人懐っこい笑みを浮かべた。
「商売は順調ですか?」
ナズが訊ねた。
「おかげさまで。黒曜石鹸は特に評判がよろしくて、在庫が追いつかないほどです」
「それは嬉しいですね。帳簿係としても、売上が伸びるのは喜ばしいことです」
「しかし、閣下にお会いできたのは幸運ですな。実は、黒猫運輸との連携も順調でして」
「ほう」
レイスが歩み寄った。
「問題なくやれているか」
「ええ、むしろこちらが感謝したいくらいで。キュレ伯爵の商会とも連携が取れるようになりましたから」
頭を下げながら、エブルは続けた。
「閣下のお口添えのおかげです。ありがとうございます」
「結果が出ているなら、それでいい」
レイスは頷いた。
「──エブル。お前に訊きたいことがある」
「何なりと」
「雷鋼鉱という鉱石を知っているか」
エブルの琥珀色の瞳が、一瞬だけ細くなった。
「……閣下は、よくご存じで」
その反応が、答えだった。
「知っているのか」
カディルが一歩前に出た。
「入手は可能なのか?」
「カディル様、お待ちください」
エブルが片手を上げた。
「話には順序というものがございます」
「産地はどこだ」
レイスが訊いた。
「二つございます」
エブルが指を立てた。
「一つは北──ドワーフ王国の深部鉱山」
「北は難しいな」
レイスが低く言った。
「ドワーフ王国との交易路は、今は使えない。……もう一つは?」
「もう一つは?」
「南の──大砂漠『灼熱の海』の向こう側です」
「南か」
メルヴェが扇子を開いた。
「タジル商会の本領ですわね。砂漠越えの交易ルートをお持ちのはず」
「ええ。私どもの伝手で、入手は可能です」
「おお、さすがエブル殿!」
ナズが目を輝かせた。
「それなら──」
「ただし」
エブルが人差し指を立てた。
「日数がかかります」
「日数は?」
レイスが訊いた。
「往復で──」
エブルが顎に手を当て、計算する。
「40日ほど、でしょうか」
資材置き場に、沈黙が落ちた。
「40日」
レイスは眉を寄せた。
「それは困る。20日以内に手に入れたい」
(納期短縮の無茶振り。まあ、こっちは命がかかってるからな)
「20日……」
エブルが目を見開いた。
「それは、かなり厳しいですな」
「無理を承知で言っている」
「閣下……」
カディルの表情が険しくなった。
「ヴォルカンがいつ動くか分からない状況で、40日は長すぎます。しかし、20日というのも──」
「20日で届かなければ、神槌砲は間に合わない」
レイスは静かに言った。
「間に合わなければ、火山公との戦いで切り札がない。……それがどういう意味か、分かるな」
「……はい」
カディルが拳を握りしめた。
「お兄様……」
ナズが不安げに呟いた。
「もっと早い方法は、ないのでしょうか」
全員の視線が、エブルに集まった。
商人は腕を組み、しばし黙考した。
「……一つ、方法がございます」
「言ってくれ」
「通常ルートは、安全な街道を迂回して砂漠を越えます。だから40日かかる」
エブルの声が、僅かに低くなった。
「ですが、最短ルートを使えば──往復15日で済みます」
「15日?」
バラカが身を乗り出した。
「なぜ最初からそれを言わねえんだ」
「危険だからですよ、バラカ殿」
エブルの琥珀色の瞳から、商人の愛想が消えた。
「最短ルートは、『砂蠍の聖域』を通らねばなりません」
その言葉に、空気が変わった。
「砂蠍の聖域?」
ナズが首を傾げた。
「聞いたことがありませんわ」
「無理もありません。商人の間でも、近づく者は稀な場所ですから」
エブルが地図を取り出し、木箱の上に広げた。
「ここです」
指が示したのは、砂漠の中央付近。赤い印が付けられた地帯。
「砂蠍の群れ、デザートゴブリンの略奪者、そして──」
エブルの声が、僅かに低くなった。
「聖域の奥には、サンドリザードが棲んでいます」
「サンドリザード……」
カディルの眉間に、深い皺が刻まれた。
「砂漠の魔獣か。……帝国軍でも、討伐隊が全滅したと聞いたことがある」
「砂竜か。……面白えじゃねえか」
バラカの目が、ぎらりと光った。
「面白くありません、バラカ殿」
エブルの琥珀色の瞳から、商人の愛想が消えた。
「私も一度だけ、砂蠍を見たことがあります。仲間が二人、目の前で砂の中に引きずり込まれた。……あの悲鳴は、今でも耳から離れない」
「エブル殿……」
ナズが顔を青くした。
「お気の毒に……」
「砂漠の商人なら、一度や二度は仲間を失う。……だからこそ、あのルートは避けるのです」
資材置き場の空気が、重くなった。
「サンドリザードは、それ以上です。地中から奇襲を仕掛け、獲物を丸呑みにする。普通の隊商なら、遭遇した時点で全滅です」
「丸呑み……」
ミナが小さく震えた。
「怖い……」
「大丈夫だ、ミナ」
バラカが妹の肩を叩いた。
「お前は行かねえからな」
(うわ、聞いただけで胃が痛くなってきた。繁忙期の出張より過酷じゃん)
沈黙。
メルヴェが扇子を畳んだ。
「つまり、最短ルートを使うなら──相応の護衛が必要、ということですわね」
「左様です」
エブルが頷いた。
「正直に申しますと、私どもの護衛だけでは心許ない。ですが、閣下の精鋭をお借りできるなら──」
「俺が行く」
バラカが一歩前に出た。
金茶色の髪が揺れ、琥珀色の瞳に獰猛な光が宿っている。
「鉄狼団を率いて、隊商を護衛する」
「バラカ……」
カディルが眉を寄せた。
「本気か。砂蠍の群れに、デザートゴブリン、砂竜だぞ」
「だから面白えんだろうが」
獅子の獣人が、牙を剥いて笑った。
「虫けらを蹴散らして、ゴブリンどもを叩き潰して、でかいトカゲを狩る。久しぶりに血が滾るぜ」
「お兄ちゃん……」
ミナが心配そうに見上げた。
「気をつけてね……?」
「当たり前だ。こんなとこで死んでたまるかよ」
バラカが妹の頭を乱暴に撫でた。
「帰ったら、また唐揚げ作ってくれ」
「……うん。約束だよ」
「バラカ」
レイスが声をかけた。
「砂竜の鱗を、できるだけ多く採って来い」
「鱗、ですか?」
バラカが首を傾げた。
「何にお使いになるんで」
「いいから採れ」
レイスは理由を言わなかった。
(サンドリザードの鱗は、高温に強い。矢弾の潤滑剤代わりになるかもしれない)
(……説明すると長くなるから、結果だけ求める。ブラック上司の鑑だな、私)
(……出張ついでに備品調達を頼む上司みたいになってる。我ながらブラック)
「……まあ、了解しやした」
バラカは肩を竦めた。
「任せてください。砂竜の鱗でも牙でも、好きなだけ持って帰りますよ」
「頼もしいですわね」
メルヴェが微笑んだ。
「バラカ殿なら、砂竜の一匹や二匹、問題なく狩れるでしょう」
「当然だ。獅子が砂トカゲに負けるかよ」
「ですが閣下」
カディルが口を開いた。
「鉄狼団を出せば、本隊の兵力が削がれます。約200名。その間にヴォルカンが動けば──」
「平原での会戦を想定しているのか」
レイスが訊いた。
「はい。火山公の軍勢と正面からぶつかる場合、鉄狼団の機動力は不可欠です」
「カディル殿の懸念は、もっともですわ」
メルヴェが扇子を開いた。
「200名の不在は、防衛戦にも影響します。……閣下、どうなさいますか?」
「ヴォルカンは数で押してくる。それは分かっている」
レイスの紅い瞳が、騎士団長を見据えた。
「だが、素材がなければ神槌砲は完成しない。城を守れても、その先がない」
「……」
カディルが沈黙した。
「ヴォルカンがすぐに動くとは限らない」
レイスは続けた。
「だが、素材の調達は確実に時間がかかる。……どちらを優先すべきか、分かるな」
「お兄様の言う通りです」
ナズが口を開いた。
「目の前の危機だけを見ていては、未来の危機に対処できません。……私も、バラカ殿の出発に賛成です」
「ナズ殿……」
カディルがナズを見た。
「帳簿を見ていると分かるんです。物資の流れ、時間の流れ……どこかで『先を見た判断』をしないと、後手後手に回ってしまう」
ナズは静かに、しかし確信を持って言った。
「今がその時だと思います」
沈黙が落ちた。
カディルが、ゆっくりと頭を下げた。
「……承知いたしました」
その琥珀色の瞳には、主君への信頼と、僅かな不安が入り混じっていた。
「閣下の御判断に従います。……ただ、バラカ殿」
「ああ?」
「無事に帰って来い。……貴公がいなければ、決戦で困る」
バラカがニヤリと笑った。
「心配すんな、騎士殿。俺は死なねえよ」
「エブル」
「はい」
「出発はいつだ」
「明後日でいかがでしょう。準備に一日半ほどいただければ」
「分かった。バラカ、鉄狼団を招集しろ」
「おう」
バラカが胸を叩いた。
「任せろ、大将。雷鋼鉱と砂竜の鱗、両方持って帰ってやる」
その音が、資材置き場に重く響いた。
───
話し合いが終わり、各自が準備に散っていく。
エブルは一礼して退出し、カディルとメルヴェは防衛計画の詰めに向かった。
バラカは鉄狼団の宿舎へ。ミナは作業を再開した。
「お兄ちゃん、気をつけてね!」
ミナの声が、バラカの背中を追いかけた。
「おう!」
振り返らず、片手を上げて応える。
それが、兄妹の別れの挨拶だった。
ナズもまた、医者の所へ様子を見に行くと言って足を向けた。
「フィーネさん、早く目を覚ましてくれるといいのですが……」
そう呟いて、廊下へ消えていく。
レイスは資材置き場を出て、城の廊下を歩いた。
窓の外を見る。
夏の青空。北の地平線の彼方に、赤い光があるはずだ。
100年間消えることのなかった、火山公の永炎。
(ヴォルカンは何を考えている……?)
(あの男の真意が、まだ読めない)
内心の不安は、表に出さない。
その時だった。
肩の上で、ファルがぴくりと耳を立てた。
「キュル……?」
何かを感じ取ったように、廊下の奥を見つめている。
次の瞬間──激しい足音が近づいてきた。
ドタドタドタドタッ──
「お兄様ぁぁぁっ!!」
ナズだった。
スカートの裾を両手で持ち上げ、淑女らしからぬ全力疾走。
深紫の瞳は涙で潤み、頬は紅潮している。
さっき出て行ったばかりなのに、何があった。
「ナズ? どうし──」
「フィーネ様が目を覚ましました!」
───
【第6刻限】残り59日 14時間 ─ 刻印課題:火山公を屈服させよ
<レイスのひと言:試作品は壊れるためにある。予算は知らん>




