第35話「火山公からの使者」
従軍書記官の記録によると──
新暦20024年、夏の盛り。
レイス・カランルク閣下は「城門の奇跡」から間を置かず、次なる試練に臨まれた。
記録には、こうある。
「閣下は静かに頷かれただけだった。まるで、すべてを見通しておられたかのように。いや──見通しておられたのだ。あの方は、我らには見えぬものを見ている。大魔王カーラの再来、と囁く者がいるが、私は否定できずにいる」
もっとも、当の本人が考えていたのは「交換所でレア装備を眺める時間をくれ」「せめて一日だけ休ませてほしい」ということだけであった。
後世の伝記作家は、この日を「覇業の転換点」と記す。
当人は「地獄の二期目スタート」と呼んだ。
◇
【第6刻限】残り60日 0時間 ─ 刻印課題:火山公を屈服させよ
───
窓から差し込む朝日が、執務机の上に広がる羊皮紙を白く染めている。
インクの乾いた匂いと、昨夜飲み残した茶の渋い香りが混ざっていた。
肩の上で、白い小さな身体がもぞもぞと動いた。
ファルだ。
孵化して以来、レイスの肩が定位置になっている。
「キュ?」
小さな首を傾げ、金色の瞳が半透明のウィンドウを見上げている。
滑らかな鱗が、頬をくすぐった。
『ポイント交換所』
【期間限定】龍牙の短剣 BP50
【在庫残り3】霊薬・瞬癒 BP30
【NEW】魔導通信機(2個セット) BP80
所持BP:305
(期間限定……次回入荷未定……)
前世の記憶が、警鐘を鳴らす。
この手の文言に、どれだけ財布を溶かされたことか。
指先が、無意識に机の縁を掴んでいた。
課金欲が、理性を侵食し始めている。
(……いや、待て。焦るな)
(期間限定の4文字に踊らされるな。今は情報が足りない。何が必要か見極めてから交換しても遅くない)
深呼吸する。
交換所の画面を最小化した。保留だ。
(……お前には関係ない話だよ)
その瞬間。
視界の端に、新たなウィンドウが展開した。
『第6刻限を開始します』
『刻印課題:火山公を屈服させよ』
背筋に、氷水を流し込まれたような感覚が走った。
(……は?)
火山公。
ヴォルカン・アレヴリ。
ゲームにおける「カラハン魔王国編」のラスボス。
国内最強の公爵。直轄兵力3,500。傘下を含めれば10,000を動員可能。
(いや待って待って待って!?)
思考が一瞬、空白になった。
【第6刻限】残り60日 0時間 ─ 刻印課題:火山公を屈服させよ
赤い文字が、視界の端で脈打つように明滅している。
(納期60日。失敗したら──)
脳裏に、あの感覚が蘇った。
第1刻限の初日。
「存在消去」という四文字を見た瞬間の、あの底冷えするような恐怖。
(今度こそ、消される)
心臓が、胸郭を殴りつけるように跳ねている。
手のひらに、じわりと汗が滲んだ。
喉が渇く。舌が、口の中に張り付いて剥がれない。
(前のプロジェクト、完遂したばかりなんだけど。引き継ぎ期間ゼロ?)
交換所のウィンドウが、虚しく輝いている。
「期間限定」の文字が、嘲笑うように揺れていた。
(……レア装備どころじゃなくなった)
「キュウ……」
ファルが、不安そうに鳴いた。
レイスの緊張を感じ取ったのだろう。
小さな身体が、肩の上でぶるりと震え、温かな鱗が首筋に押し付けられる。
───
執務室の扉が、突如ノックされた。
「お兄様ぁぁぁ!」
ナズの声だ。
いつもより、緊張が滲んでいる。
いや、いつもどおりだ。
「入れ」
扉が開き、異母妹が足早に入室した。
廊下から、兵士たちのざわめきが漏れ聞こえる。
その顔色が、尋常ではない。
「ヴォルカン公爵より、使者が参りました」
(……来た)
予想していたことだ。
ゲームでも、ヴォルカンは必ず「宣戦布告」から始める。
だが──予想していても、胃が痛いものは痛い。
「使者か。何人だ」
「三人です。護衛の精鋭兵が十二名」
ナズの声が、僅かに震えている。
その後ろから、カディルが姿を現した。
騎士団長の表情も硬い。
「城門の兵たちが、怯えております。掲げている旗が……」
「火山公の直属か」
「はい」
レイスは立ち上がった。
椅子の脚が、石床を擦る音が妙に大きく響いた。
(さて、いきなり最終面接だ)
(中間面接すっ飛ばしてない? せめて書類選考くらいさせてよ)
───
城門前。
夏の朝風が、微かに火薬と馬の匂いを運んでくる。
使者の一行が連れてきた軍馬たちの体温が、空気を僅かに歪ませていた。
蹄鉄が石畳を打つ音。鎧の金属が軋む音。どれも、こちらの兵士たちとは質が違う。
守備兵たちが、石像のように固まっている。
彼らの視線の先──城門の外に、異質な存在があった。
深紅のマントを纏った使者。
その背後には、精悍な護衛兵が整列している。
鎧は磨き上げられ、朝日を浴びて鈍く光っていた。
掲げられた旗には、燃え盛る炎をかたどった紋章。
朝日を浴びて、その赤が血のように濡れて見えた。
「カランルク辺境伯レイス殿でございますな」
使者の声は、慇懃だが冷たい。
麝香の香水が鼻についた。高価な麝香──権力を纏う者の匂いだ。
「そうだ」
レイスは、一歩も動かなかった。
漆黒のコートの裾が、朝風に僅かに揺れる。
足元の石畳から、夜の冷気がまだ抜けきっていない。
(足、震えてるんだけど。バレてないよね?)
「ヴォルカン公爵閣下より、書状をお預かりしております」
使者が、羊皮紙を差し出した。
封蝋の赤が、血の色に見える。
レイスは受け取らなかった。
ただ、静かに使者を見据える。
「読め」
沈黙が落ちた。
使者の眉が、僅かに動いた。
どこかで、鴉が一声鳴いた。その声が、妙に遠くまで響く。
通常、高位の貴族からの書状は、受け取って読むのが礼儀だ。
それを「口頭で述べろ」というのは、相手を下に見ていることを意味する。
「……よろしいでしょう」
使者は羊皮紙を広げた。
乾いた紙の音が、張り詰めた空気に響く。
条件一、領地の明け渡し。
条件二、レイスの身柄拘束。
条件三、配下全員の服従。
「七日以内に降伏せよ。さもなくば、火の城塞の軍勢が貴領を焼き尽くす」
背後で、カディルの鎧が軋む音がした。
剣の柄を握りしめているのだろう。
使者が、付け加えた。
「公爵閣下は、仰せでございます」
その声音が、変わった。
暗記した文章を読み上げるのではなく、言葉を「伝える」声に。
「『百年の盟約が終わる。もはや待つ理由はない』──と」
(百年の盟約?)
レイスの眉が、僅かに動いた。
(……ゲームにこんな設定、あったか?)
記憶を探る。
5000時間のプレイで、その単語を見た覚えがない。
「七日か」
レイスは、静かに言った。
「──考える時間をもらおう」
使者の目が、一瞬だけ見開かれた。
拒否でも、承諾でもない。
「検討する」という、もっとも曖昧な回答。
(ビジネスの基本だ。即答は負け。まず持ち帰る)
「公爵閣下は、貴殿の返答を楽しみにしておられます」
使者は深く一礼した。
その口元には、不気味な笑みが浮かんでいる。
「七日後に、また参上いたします」
使者の一行が、踵を返した。
深紅のマントが翻り、朝霧の中へ消えていく。
馬蹄の音が、しばらく石畳に響いていた。
カディルが、小さく息を吐いた。
「……閣下。よくぞ、あの場で即答されませんでした」
(いや、何も思いつかなかっただけなんだけど)
「公爵の使者に時間を与えず、こちらが主導権を握った。これで、七日は稼げます」
(そういう解釈になるの? ただの保留だったんだけど)
だが、結果として正しい判断だったらしい。
沈黙は、時に雄弁より効果的だ。
───
軍議室。
蝋燭の炎が揺れ、壁に長い影を踊らせている。
蜜蝋の甘い匂いと、羊皮紙の古びた匂いが混ざり合っていた。
窓の外では、風が唸りを上げている。
集まっているのは、カディル、メルヴェ、バラカ、ナズ。
フィーネは、まだシファの診療室で眠り続けている。
誰も口を開かない。
使者の言葉が、全員の脳裏にこびりついていた。
「『百年の盟約』とは何だ」
レイスの問いが、重い空気を切り裂いた。
バラカが眉を寄せた。
椅子が軋む。
「聞いたこともねえぞ、そんなもん」
「獣人族には関係のない話ですわ」
メルヴェが扇子を開いた。乾いた音が、張り詰めた空気に響く。
「100年前、人間族との大戦で疲弊した五魔王国が結んだ協定です。カーラ様の提唱で、100年間は内戦をしない、という取り決め」
「国内の権力争いは?」
カディルが身を乗り出した。
「対象外ですわ。あくまで『魔王国同士』の戦争を禁じた協定」
メルヴェの銀髪が、蝋燭の光を受けて揺れた。
「間もなく、その期限が切れます。つまり──」
「他の魔王国も動き出す」
レイスが引き取った。
「ヴォルカン公は、それを見越して先手を打とうとしている。カラハン国を統一し、他国と対等に渡り合える体制を作りたい」
メルヴェの扇子が、ぱちりと閉じられた。
「ただ……一つ、解せないことがありますわ。なぜヴォルカン公は、今まで動かなかったのか」
(確かに、おかしい)
ゲームでは「ヴォルカンは野心家」という設定だった。
だが現実の彼は、100年間も現状維持を続けていた。
(何かがある。カーラ大魔王との間に、何かが)
「……今は推測しても仕方ない」
レイスは、その疑問を棚上げした。
「確かなのは、ヴォルカンが動き出したということだ。戦力の確認をする」
声を発した瞬間、全員の背筋が伸びた。
「ナズ。報告を」
「はい、お兄様」
ナズが眼鏡の位置を直し、手元の資料に目を落とした。
紙がかさりと音を立てる。
「総兵力、4,100」
ナズの声が、数字を読み上げる。
アテシュを飲み、ドゥマンを砕いて、ようやく4,000。
「あいては、およそ10,000です」
沈黙が落ちた。
「倍以上かよ」
バラカが舌打ちした。
「しかも百年鍛えた精鋭だろ? 正面からぶつかったら、すり潰されるぞ」
「正攻法では勝てません」
メルヴェが断言した。
(4,100 vs 10,000。倍以上の差。しかも相手は精鋭)
(人員配置がおかしい。どこの赤字プロジェクトだ、これ)
「さらに問題があります」
ナズが、地図を広げた。
羊皮紙の上に、険しい山岳地帯が描かれている。
インクの線が、断崖の険しさを物語っていた。
「ヴォルカン公の本拠地、ア・ザル・ガルド。断崖絶壁の上に築かれた要塞で、城壁には魔道砲が据えられていると聞きます」
ゲームでは「橋の悪夢」と呼ばれた難攻不落の城塞だ。
攻城戦での死亡回数ランキング、堂々の1位。
(あの要塞を攻略するのか……)
レイスの胃が、きゅっと縮んだ。
少なくとも、二桁は死んだ記憶がある。
(ゲームならリセットできたけど、現実にコンティニューはない)
「ただし」
メルヴェが扇子を開いた。
「ヴォルカン公は、あの要塞に籠もるような男ではありませんわ。彼は『烈火の公爵』──武人としての誇りを持つ男です。こちらが降伏を拒めば、必ず出てくる」
メルヴェの指が、地図の一点を指した。
「おそらく、野戦になりますわ。決戦の地は──ここ。クズル平原」
レイス領とヴォルカン領の中間地点。
かつて大魔王カーラが人間族大連合と戦った「灰燼の谷」にも近い、広大な平地だ。
「『赤い平原』……100年前の戦で、血に染まったことからそう呼ばれています」
(野戦か……)
攻城戦よりはマシだ。
だが、それでも数の差は歴然としている。
「お兄様」
ナズの声が、静かに響いた。
美しい瞳が、不安に揺れている。
「勝算は、ありますか」
全員の視線が、レイスに集まった。
カディルの琥珀色の瞳。
忠臣が主君に向ける、信頼と不安の入り混じった眼差し。
バラカの金茶色の瞳。
戦士が強者を見定める、獰猛な光。
メルヴェの紫水晶の瞳。
策士が勝算を計算する、冷徹な輝き。
ナズの、不安を隠しきれない瞳。
蝋燭の炎が、ちりちりと音を立てている。
蜜蝋の焦げる匂いが、微かに鼻をついた。
(……正直に言えば、わからない)
だが、そんなことは言えない。
「ある」
レイスは、静かに言い切った。
「詳細は、追って指示する。まずはドゥラクからの報告を待て」
───
軍議が解散し、一人になった執務室。
レイスは窓辺に立ち、北の空を見上げた。
夕暮れ時。
窓硝子が、橙と紫のグラデーションに染まっている。
だが、地平線の向こうに──赤い光があるはずだ。
炎ではない。
もっと深い、もっと遠い赤。
夕焼けよりも鮮やかで、夕焼けよりも禍々しい。
100年間、一度も消えることなく燃え続けている永遠の灯火。
ア・ザル・ガルド。
火の城塞の永炎だ。
窓硝子に手を触れた。
夏の熱気が残る硝子。だが、北の空を見つめていると、背筋に冷たいものが走る。
肩の上で、ファルも同じ方向を見ていた。
「キュウ……」
怯えたような声。
小さな身体が、レイスの首筋に寄り添うように縮こまった。
滑らかな鱗が、肌に温かい。
(……お前も、わかるのか。あれが「敵」だって)
100年間、消えることのなかった炎。
それはまるで、ヴォルカンという男の執念を象徴しているようだった。
(新兵器がある。戦術もある。でも──)
(まだ足りない)
何かが足りない。
この圧倒的な戦力差を覆すには、もう一つ、何かが必要だ。
(カーラ大魔王は、何をヴォルカンに言い残したんだ)
(100年間、何を待っていたんだ)
(そして──「百年の盟約」の正体は何だ)
答えは、まだ見えない。
ただ一つ、確かなことがある。
(納期60日。失敗したら存在消去。予算は足りない、人員は半分以下、仕様は不明)
(──完全に炎上プロジェクトだ)
赤い光が、視界に焼きついた。
───
執務室の扉が、僅かに開いていた。
その隙間から、ナズが兄の背中を見ていた。
廊下には、バラカとカディルも立っている。
三人とも、声を発することができなかった。
北の空に浮かぶ赤い光。
それを見つめる主君の背中。
その姿は、孤独だった。
すべてを背負い、すべてを決断しなければならない者の孤独。
「……閣下」
カディルが、無意識に剣の柄を握りしめた。
革を握る音が、小さく響く。
バラカは、腕を組んだまま沈黙している。
だが、その金茶色の瞳には、獣の本能が見た何かがあった。
──この男は、勝つ気だ。
ナズは、両手を胸の前で組んだ。
祈るような仕草。
だが、彼女が信じているのは神ではない。
自分の兄だ。
赤い光が、窓硝子に映り込んでいる。
100年間消えなかった炎。
だが、ナズは知っている。
兄は、消えない炎など信じない。
「攻略不能」という言葉を、鼻で笑う人だ。
それが虚勢であっても。
それが無謀であっても。
この人にどこまでもついていこう。
ナズは、静かにそう決めた。
───
その時、廊下の奥から足音が響いた。
駆けてくる音だ。
「旦那ァ! 緊急便ですぜ!」
ボズクルトだった。
黒猫運輸の頭目が、額の汗を手の甲で拭いながら走ってくる。
息が荒い。
その手には、封蝋で閉じられた小さな書簡が握られている。
レイスが振り返った。
「何だ」
「ドゥラクの親方からだ。『試作品が完成した。視察に来られたし』──だとさ」
(ドゥラク……!)
鍛冶師の顔が、脳裏に浮かんだ。
あの偏屈な職人が、約束を守った。
攻城戦の切り札──いや、野戦でも使える新兵器。
ヴォルカンの火炎魔法に対抗するために、最初から仕込んでいた手だ。
「ボズクルト、馬を用意しろ。今から行く」
「へいっ!」
ボズクルトが飛び出していった。
レイスは窓辺から離れ、コートを羽織った。
肩の上で、ファルが「キュッ」と小さく鳴いた。
励ましなのか、同意なのか。
ナズたちの前を通り過ぎる。
「閣下、我々も──」
「いい。戻って休め」
レイスは足を止めずに言った。
「明日から、忙しくなる」
その背中が、廊下の闇に消えていく。
残された三人は、顔を見合わせた。
バラカが、低く笑った。
「……やっぱりな」
「何がです」
カディルが問う。
「旦那、もう動き始めてやがった。最初から策があったんだよ」
ナズは、兄が消えた方向を見つめていた。
北の空で、赤い光が脈打った。
まるで、挑戦を受けたかのように。
だが──
それに応える炎が、今まさに動き出した。
───
【第6刻限】残り59日 20時間 ─ 刻印課題:火山公を屈服させよ
<レイスのひと言:炎上プロジェクトの火消しは、私の専門外なんだけど>




