第34話「城門の決着」
従軍書記官の記録によると──
新暦20,024年、春の曙光。
城門の前で、若き領主は死を見た。
大陸最強の傭兵「深淵の牙」──その刃が首筋に触れた瞬間、周囲の時間が止まったという。
誰も動けなかった。動けば主君が死ぬ。
だが、レイス閣下だけは──笑っていた。
「あの余裕は何だったのか」と、後に騎士団長カディルは首を傾げた。
言うまでもないことだが、笑っていたわけではない。
顔の筋肉が恐怖で引きつっていただけである。
だが、真実というものは往々にして伝説の前に敗北する。
◇
【第5刻限】残り13日4時間 ─ 刻印課題:深淵の牙を無力化せよ
───
バキィッ──!
氷が砕ける音が、朝の空気を切り裂いた。
(終わった──)
レイスの思考が、その一語で凍りついた。
閉じ込められていた男が、拘束を内側から粉砕して躍り出る。
速い。
レイスの目が、動きを追えなかった。
気づいた時には──背後に、気配があった。
首筋に、冷たいものが触れる。
鋼の感触。
刃だ。
今度は、ザフィルがレイスの首に剣を当てていた。
(……攻守逆転)
たった一瞬で、立場が入れ替わった。
さっきまで首に剣を突きつけていた側が、今は突きつけられている側。
(これが、大陸最強の傭兵か……)
空気が凍りついた。
周囲の兵士たちが、息を呑む。
誰も動けない。
動いたら、主君の首が飛ぶ。
「レイス様!」
バラカが叫んだ。
「動くな!……主君が」
カディルが、周囲を制止する。
その声にも、隠しきれない焦りが滲んでいた。
メルヴェが詠唱しようとした。
だが、ザフィルの殺気が──言葉を奪った。
銀髪の魔術師は、唇を噛み締めるしかなかった。
城壁の上では、ナズが青ざめた顔で兄を見下ろしていた。
両手を胸の前で組み、祈るような姿勢のまま、動けずにいる。
(……終わった、か?)
レイスの内心に、諦めが過ぎる。
首筋の刃が、微かに動いた。
冷たい鋼が、薄い皮膚を撫でる。
(5分間の賭けは、失敗に終わった)
(あと数十秒だったのに)
納期に間に合わなかった時の、あの絶望感。
胃の奥が、きゅっと冷たくなる。
(……退職届じゃなくて、遺書を書くことになるとは)
だが──。
ザフィルは、笑っていた。
「いい顔だ」
耳元で、低い声が囁く。
「怯えてねえな」
レイスの背中に、熱い吐息がかかった。
血と鉄の匂い。
獣のような体温。
だが、その言葉の中に──殺意はなかった。
(……え?)
その時。
膝をついたフィーネが、かすれた声で呟いた。
「封印が……完全なら……」
息も絶え絶え。
意識が朦朧としている。
だがその瞳は、真っ直ぐにザフィルを見ていた。
(……今の一言で、空気が変わった?)
レイスは、首筋に刃を当てられたまま、それを感じ取った。
ザフィルの殺気が、一瞬だけ揺らいだ。
興味の色に、変わった。
「……なんだと?」
ザフィルの視線が、フィーネに向いた。
金髪のエルフ。
今にも倒れそうな、儚い姿。
だがその瞳の奥に──底知れない何かがあった。
「お前、まだ本気じゃなかったのか」
フィーネは答えない。
答える力が、もう残っていなかった。
だが、沈黙が雄弁だった。
ザフィルの口元が、ゆっくりと歪んだ。
「……なるほど」
剣を、鞘に収めた。
レイスの首筋から、冷たい感触が消える。
(……生きてる)
(まだ、生きてる)
心臓が、遅れて暴れ始めた。
「楽しかったぜ」
ザフィルが一歩、後ろに下がった。
背を向け、去ろうとする。
その瞬間──。
レイスの右目が、灼けた。
(っ……!?)
視界が歪む。
【鑑定の目】が、制御を離れて暴走していた。
以前から、強い感情に触れると制御が不安定になる傾向があった。
首筋に刃を当てられた、あの瞬間。
鋼越しに、何かが流れ込んできていたのだ。
断片的な映像が、網膜に焼き付く。
──黒い霧。
──燃える村。
──泣き叫ぶ子供。
──そして、山。霧に覆われた、巨大な山脈。
(これは……こいつの、記憶?)
情報の奔流が、一つの名前を吐き出した。
【ジーゲルベルク山脈】
【封印の山】
【備考:???に関連する痕跡あり】
(……攻略wikiで見た)
ゲームの記憶が、脳裏を過る。
隠しクエスト。異形の怪物。封印された寺院。
(こいつが追っているのは、あれか──)
「待て」
声は、思ったより落ち着いていた。
ザフィルの足が、止まった。
「ジーゲルベルク山脈」
レイスは、その名を告げた。
「黒い、異形の者」
沈黙が落ちた。
ザフィルが、振り返った。
その顔から、余裕が消えていた。
氷青の瞳が、凍りついたようにレイスを見据えている。
やがて──ザフィルは背を向けた。
何も言わず、歩き出す。
同行者たちが、慌てて後を追った。
朝霧の中に、黒い影が溶けていく。
沈黙。
誰も、動けなかった。
───
張り詰めていた空気が、ゆっくりと緩んでいく。
城門の周囲には、いつの間にか人だかりができていた。
騒ぎを聞きつけた城下町の住民たちが、遠巻きに様子を窺っていたのだ。
「……勝った、のか?」
誰かが、呟いた。
「深淵の牙が……逃げた?」
「いや、違う。レイス様が……追い払ったんだ」
ざわめきが、波紋のように広がっていく。
民衆の目に映ったのは、こうだった。
──若き領主が、大陸最強の傭兵の前に立ちはだかった。
──首に剣を突きつけられても、微動だにしなかった。
──そして、たった一言で、伝説の剣士を退けた。
事実は違う。
だが、そんなことは誰も知らない。
歴史とは、常に「見えた通り」に記録されるものなのだ。
───
その瞬間。
視界の隅に、文字が浮かび上がった。
『刻印課題達成を確認』
『「深淵の牙」は戦闘意欲を喪失。当面の脅威は排除されました』
『──第5刻限、達成』
『BP+100を獲得しました』
『ポイント交換所が利用可能になりました』
(……達成、した)
レイスは、膝から崩れ落ちそうになった。
脚が震えている。
(ザフィルは去っただけ。契約はしていない)
(「無力化」って、こういう意味だったのか……)
BP+100。
悪くない数字だ。
だが、本命の「深淵の牙」は手に入らなかった。
(まあいい。生きてるだけマシだ)
───
──同刻。城門から離れた街道。
二つの影が、北へ向かって歩いていた。
先頭を行くザフィルは、一言も発していない。
その背中を見つめながら、アルスランが口を開いた。
「ザフィル。どこへ行く?」
「ジーゲルベルク山脈」
短い答えだった。
「……任務はどうする。ヴォルカン様への報告が」
「後回しだ」
ザフィルは足を止めなかった。
「俺の用事が先だ」
アルスランは言葉を失った。
長い間この男の傍にいて、初めて聞く言葉だった。
ザフィルは任務を放棄しない。
それが傭兵としての矜持だと、この男は知っていたはずだ。
「……あの若造に、何を言われた」
「さあな」
ザフィルの口元が、僅かに歪んだ。
「ただ、15年探していたものの手がかりが見つかった。それだけだ」
アルスランは、それ以上問わなかった。
15年前の夜のことは、断片的にしか聞いていない。
村が滅びたこと。家族を失ったこと。
そして──ザフィルがずっと、「何か」を探していること。
「あの男……何者だ……底が知れん」
アルスランは独りごちた。
二つの影は、北へ向かって消えていった。
───
ふと、地面に倒れている金色が目に入った。
「フィーネ!」
駆け寄る。
膝をつき、彼女の身体を抱き起こした。
軽い。
羽根のように軽い。
この華奢な身体で、あれほどの魔法を使ったのだ。
(フィーネの魔法がなければ、私はとっくに死んでいた)
「フィーネ、しっかりしろ」
金髪のエルフが、うっすらと目を開けた。
蒼穹の瞳が、ぼんやりとレイスを見上げる。
「……レイス、様……」
声が、掠れている。
「私、役に立てましたか……?」
レイスは、その問いに一瞬だけ詰まった。
役に立った?
そんな言葉では、足りない。
「ああ」
だが、口をついて出たのは、短い肯定だけだった。
「お前のおかげだ」
フィーネは微笑んだ。
穏やかで、満足げな笑み。
「……よかった……」
そのまま──意識を失った。
周囲の兵士たちが、その光景を見ていた。
主君が、倒れた部下を自ら抱き起こす。
身分も種族も関係なく、一人の仲間として。
(いや、普通に心配してるだけなんだけど)
だが、この世界では「普通」ではないらしい。
貴族が平民に、ましてやエルフに、このような態度を取ることは。
───
レイスは、フィーネを抱えたまま立ち上がった。
「カディル。フィーネを医務室に。城門の修理も手配してくれ」
「承知しました」
騎士団長が、深々と頭を下げた。
「閣下……ご無事で、何よりでございます」
その声は、震えていた。
「私は……閣下の御前で、何もできませんでした。あの男の殺気に怯え、剣を抜くことすら……」
「当然だ」
レイスは、淡々と答えた。
「あの殺気の中で動ける人間がいたら、そいつは人間じゃない」
カディルが、目を見開いた。
バラカとメルヴェも、その言葉を聞いていた。
三人とも、同じことを思っていたのだ。
何もできなかった、と。
「お前たちが動かなかったから、私は生きている」
レイスは、三人の顔を順に見た。
「下手に動けば、私の首が飛んでいた。全員、正しい判断をした」
嘘ではなかった。
もし誰かが突っ込んでいたら、ザフィルは躊躇なくレイスを殺していただろう。
沈黙が落ちた。
やがて、カディルが片膝をついた。
「閣下は……あの状況でさえ、我々の動きまで計算に入れておられた」
(入れてない)
(全然入れてない)
(結果オーライなだけだから)
「このカディル、改めて誓います。生涯をかけて閣下にお仕えいたします」
バラカとメルヴェも、それに続いた。
(……忠誠心が重い)
だが、訂正することはできない。
「実は動揺してました」などと言えるはずがない。
レイスは、静かに頷いた。
「……期待に応えよう」
その言葉を、配下たちは「王者の謙虚さ」と受け取った。
───
フィーネを医務室に運び終え、レイスは執務室に戻った。
椅子に腰を下ろした途端、どっと疲労が押し寄せてくる。
(……疲れた)
(今日は絶対に早く寝る)
(っていうか、もう朝だけど)
窓の外では、朝日が昇り続けている。
(徹夜明けの朝日ほど虚しいものはないよね……)
だが、その前に。
視界の隅で、まだ文字が点滅している。
『ポイント交換所が利用可能になりました』
(さて……)
レイスは、その文字に意識を集中させた。
(交換所って、何が交換できるんだろう)
(まさかガチャじゃないよね)
前世で散々課金した記憶が、脳裏をよぎる。
あの沼だけは、二度と嵌まりたくない。
(……とりあえず、確認してみるか)
指先が、宙に浮かぶ文字に触れようとした。
その瞬間。
視界いっぱいに、巨大なウィンドウが展開した。
『ポイント交換所へようこそ』
『現在の所持BP:100』
『カタログを表示しますか? [はい] / [いいえ]』
(お、意外とシンプル──)
その下に、小さな注意書きが浮かんでいた。
『※一部商品は期間限定です』
『※在庫には限りがございます』
『※一度購入した商品の返品・交換はできません』
(……嫌な予感しかしない)
レイスの指が、震えた。
課金者の勘だった。
この手の「交換所」には、必ず罠がある。
(でも、見ないわけにはいかない)
覚悟を決めて、「はい」をタップした。
画面が切り替わる。
そこには──。
だが、レイスの意識は半分、別のことを考えていた。
(ザフィルは、ジーゲルベルク山脈に向かった)
(あいつが追っている「黒い異形」──放置していい相手じゃない)
厄介な伏線が、また一つ増えた。
───
『──第5刻限、達成』
<レイスのひと言:交換所より先に、請求書が届きそうな予感>




