真の心
入江に向かう小道を走りながら、ヴェルクルッドは思い出した。
この先に、シルディアと昼食を共にした崖への道がある。
「……っ」
ヴェルクルッドは、崖への道に走りこんだ。
細く、緩やかなカーブを描く道を進めば、バルコニーのように張り出している場所が見えてきた。
「――姫……!」
果たして、そこにシルディアはいた。傍にはダイアンが控えている。
「! ヴェルクルッド様……!」
シルディアは驚きに目を瞠り――その後、泣きそうに顔をゆがめた。
「姫……!」
泣かないで欲しい、と願いながら、ヴェルクルッドはシルディアのすぐ傍に駆けつけた。
途中、微かな笑みを浮かべたダイアンとすれ違う。ダイアンは気を利かせて、席をはずしてくれたのだ。
「ヴェルクルッド様……!」
シルディアが、ヴェルクルッドに歩み寄りかけて――思いとどまって足を止めた。
代わってヴェルクルッドのほうから距離を詰める。
ヴェルクルッドはシルディアの足元に跪いて、見上げた。
「姫……お姿がないことに気がついたときには、血の気が引く思いでした」
シルディアがいないと知ったとき、ヴェルクルッドは、自分の求婚を断る意思表示なのかと思って胸が痛んだ。セイニーから、シルディアの退席は決着のつく前と聞いて、望みを繋げられたが。
「……すいません。じっとしていられなかったのです……。あの、ヴェルクルッド様」
「はい」
「……大会は……どなたが優勝なさいましたか? グラント様でしょうか」
「……いいえ」
シルディアはグラントの勝利を望んでいた。自由を求めるのならばそれは当然だ。まして、赤い騎士がヴェルクルッドだったとは知らないのだから。
だがそれでも、シルディアが他の男の勝利を望んでいたことを知らされて、ヴェルクルッドの胸はちりついた。
「……そう、ですか……」
「姫、」
「ヴェルクルッド様、」
ヴェルクルッドとシルディアが同時に口を開いた。ヴェルクルッドは赤い騎士の正体を告げるつもりだったのだが、当然のことながらシルディアを優先する。
シルディアは、ヴェルクルッドの言葉を遮る形になったことに少々気が引けたが、ヴェルクルッドに先を譲ろうとも受け入れないだろうと、言葉を継いだ。
「あの。……お聞きしても宜しいですか?」
「はい、なんなりと」
「……ヴェルクルッド様の無事のご帰還は、本当に嬉しく思っているのです。……それで……成果は、あったのでしょうか……?」
帰ってきてくれるだけで十分。
そう思っていたのはずなのに、今こうして結果を要求している己を、シルディアは恥じた。
だが、そんなシルディアの憂鬱な気持ちを吹き払うかのように、ヴェルクルッドの微笑が向けられた。
「はい。お喜びください、姫。湖の女性より、破魔の指輪を譲り受けて参りました。この指輪を身につければ、姫の呪いは抑制されると請け負って頂けました」
「まあ……!」
差し出された銀の指輪。ありふれた意匠の指輪に、シルディアの目は吸い寄せられた。
「姫。どうぞ、お使いください」
「あ、ありがとう……ございます……」
シルディアは、恐る恐る、指輪を手に取った。
触れた瞬間、ぴりっとした痛みが指先に走り、シルディアは痛みに顔を顰めた。
「姫!?」
「いえ、大丈夫です」
痛みは最初の瞬間だけだった。むしろ今は、何か暖かな力が体中をめぐっているかのような感じがする。
呪いが防がれているという実感はまだ無いが、何かしらの効果は期待できそうだった。
シルディアは指輪を握り締めた。
「有難う御座います……ヴェルクルッド様……」
「いいえ。姫のお役に立つことが、私の喜びです」
ヴェルクルッドが愛しげに目を細め、優しくシルディアを見つめている。
その視線にシルディアは気恥ずかしく――そして胸が高鳴った。
この気持ちに、蓋をしてしまいたくない。
そう思ったシルディアは、意を決して口を開いた。
「あ、あの、ヴェルクルッド様……っ」
「はい」
ヴェルクルッドの優しい促しに、シルディアは勇気付けられると共に――やはり若干の不安が生まれた。
この優しさが、魅了の呪いによるものだったとしたら。
破魔の効果が出ていないのだとしたら。
次の願いは、ヴェルクルッドの心を捻じ曲げてしまうことになるのかもしれない。
だが、それでも――シルディアは、己を鼓舞して、崖から飛び降りるつもりで言った。
「――私を、連れて逃げてください……っ」
ヴェルクルッドの顔を見ていられなくて、シルディアは目を瞑って、返事を待った。
少しの沈黙。
その沈黙が、シルディアは何よりも長く、苦しく感じられた。
諾でも否でも、とにかく結果を、心が求める。
やがて――柔らかな声が、答えを告げた。
「――はい。それが姫のお望みでしたら、無論。地の果て、海の果てまでも、お連れします」
「……ヴェルクルッド様……!」
思わず目を開けば、優しく微笑むヴェルクルッドの顔。
ほっと胸を撫で下ろし、こみ上げる喜びを、シルディアが自覚し始めたその時。
「――ですが、それは必要でしょうか?」
「え……?」
シルディアの心は、冷水を浴びせられたかのように冷えた。
それは拒絶か。
望むのならどこまでも行くといってくれたその口で、何故そのようなことを……と混乱に陥るシルディアに、ヴェルクルッドはそっと――どこか悪戯げな笑みを見せた。
「――この姿をご覧になって、何かお気づきにはなられませんか?」
「え……」
言われてしげしげと見る。
騎士として一般的なチェインメイルに、その上には鮮やかな赤の外衣。
その外衣の色には、見覚えがあった。
――グラントと決勝を争った相手のもの。
「……まあ……まさか、ヴェルクルッド様……!」
「はい。私が、大会の優勝者です」
驚くシルディアに、ヴェルクルッドが誇らしげに告げた。
「――姫」
ヴェルクルッドは、シルディアの手を恭しく取り上げてそこにキスを落とすと、じっとシルディアの瞳を見つめた。
「改めて申し込みをさせていただきます。シルディア姫、貴方様は我が光、我が心、我が命です。どうか、我が愛をお受けください。貴方の愛を、私にお与えください」
止められていた奉仕の誓い。それをヴェルクルッドは、約束通りに行った。
そして――
「――――はい、ヴェルクルッド様」
シルディアもまた、何に阻まれることなく、素直な心で受け入れることが出来た。
抱くのは、暖かな喜びのみ。
この誓いを、己が憂い無く受け入れる日が来るとは、想像だにしていなかった。
「私の真の心を、貴方様に捧げます。……嵌めて、いただけます?」
シルディアは、ヴェルクルッドが持ち帰った破魔の指輪を差し出した。
「はい、喜んで」
ヴェルクルッドは指輪を受け取り、それをシルディアの左手小指に、恭しく嵌めた。
左手の小指は、恋人からの愛の証を嵌める場所。
そこに嵌った指輪は、太陽の光を弾いて煌く。
「――姫」
ヴェルクルッドがシルディアにそっと顔を寄せ――二人は、キスを交わした。




