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第5章:あしたのはなし

あれから数ヶ月が経ち、季節はすっかり移り変わっていた。

よく晴れた日曜日、さいのミニバンの助手席には、いつものようになみが座っていた。

窓から差し込む暖かな日差しを浴びながら、なみは眠そうに何度もあくびをしている。

「……あー、わかる。本当にそれね、全部そうやん」

「なみ、まだ何も言ってへんぞ。眠いやろ」

さいがハンドルを握りながら優しくツッコミを入れる。

コルセットはもう外れていた。魔女の一撃――あのぎっくり腰の激痛からも無事に回復し、さいの身体はすっかり軽くなっている。

ミニバンが滑り込んだのは、あの夜の公園とは違う、街外れにある見晴らしの良い神社の駐車場だった。

なみの大好きな仏閣巡り。

車を降りると、なみは突然ガバッとさいを振り返り、キッと睨みつけてきた。

「殺すぞ」

二人きりの空間に響く、お決まりのドスのきいた低音。

さいはミラーで髪を整えながら、穏やかに微笑んだ。

「ちょっとならいいですよ」

安定の返しを聞いて、なみはふにゃりと表情を緩める。

今度は真面目な顔になり、ぽつりと呟いた。

「……嘘はよくない」

「そうやな。嘘はよくないな」

さいはなみの小さな手をそっと握り、参道の階段を歩き出す。

この世界は、まだ何も変わっていない。ジサスは今日も街の至る所で無機質に営業を続け、自提を選ぶ人々は後を絶たなかった。けれど、さいたちの足元には、確かに自分たちの手で繋ぎ止めた、小さな、けれど確かな命の灯火があった。

神社の境内の奥、大きなイチョウの木の下にあるベンチ。

そこに、見覚えのある少年と少女が並んで座っていた。

ハルと結衣だった。

ふたりは私服姿で、ハルは少し照れくさそうに、結衣はとても嬉しそうな笑顔で、ひとつのスマートフォンを覗き込んでいる。

ふたりの身体からは、あの夜の公園に漂っていた世界から浮き上がった独特の「死の空気」は、もうひかけらも残っていなかった。

「あ、さいさん! なみさん!」

結衣が真っ先に気がつき、ぶんぶんと手を振った。

ハルも少し気恥ずかしそうに、けれど真っ直ぐにさいの目を見て、ペコリと頭を下げる。

「こんにちは。……これ、次の休みにふたりで行くところ、探してたんです」

ハルがスマートフォンをさいに見せてくれた。画面には、海沿いにある水族館の写真が映っている。

「何年も先の話しじゃなく明日の話しをしよう」というなみの言葉通り、ふたりは今、しっかりと「明日何をしたいか」を自分たちの意志で考え、未来へと歩き出していた。

結衣の手には、冷たいお茶のペットボトル。

そしてハルの手には、あの日と同じ、コーンポタージュの缶が握られていた。

「ハル、またコンポタ選んだんか?」

さいが笑いながら聞くと、ハルは少し耳を赤くしながら、でも幸せそうに笑った。

「はい。やっぱり俺、これが一番落ち着くんで」

結衣がそれを隣で見つめ、ハルの袖を小さく引っ張って笑っている。

世界は相変わらず冷たいかもしれない。理不尽で、孤独で、無視されることばかりかもしれない。けれど、一緒に傷を分け合い、明日を生きようと言ってくれる誰かが隣にいるだけで、世界はこんなにも温かくなる。

「それじゃあ、私たちはあっちのやしろを謎解きしてくるけん」

なみが中二病っぽいステップを踏みながら、さいの手を引っ張って歩き出す。

ふたりの若い背中を振り返りながら、なみは静かに微笑んだ。その目は、落ちる瞬間を見逃さないための目ではなく、ただふたりの幸せな「明日」を祝福する優しい目だった。

「なみ、引っ張ったら危ないって。腰はもう大丈夫やけどな」

「大丈夫、嘘はよくない、無視はよくない。さい、早く行こう!」

青空の下、なみの福岡なまりの笑い声が境内に響き渡る。

さいはもう一度だけハルと結衣を振り返り、それからなみの小さな手を強く握り直して、一歩を踏み出した。

先がみえない。

未来がわからない。

考えることがたくさん増えて、わからなくなったり、困ったり、悩んだり。

そんなこと、きっとみんな、いくらでもある。

だから、今は焦らなくていい。

明日は朝の9時に起きて、少しだけ散歩をしよう。

明日の夜は、久しぶりにあの映画をみよう。

そんな、他愛もない明日を。

明日の話しをできる人が少しずつ増えれば、きっとこの世界も、ほんの少しは軽くなる。

(完)



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