特別編:ハルとおじさん
第5章のその後
【特別編】
ハルとおじさんの間に隠された過去、そしてハルの父親が遺した本当の想い。
ハルと結衣が水族館デートを終えた、ある日の夕暮れだった。
オレンジ色の光が、あの公園のベンチを静かに染めている。
そこに、ぽつんと座る人影があった。
かつて、ハルにコーンポタージュをくれた「おじさん」だった。
ハルは思わず駆け寄った。
「おじさん!」
おじさんが顔を上げる。ハルの元気そうな姿を見て、深く、深く安堵した表情を浮かべた。
ハルはあの日のお礼を、一言一言、丁寧に言葉にして伝えた。
そして、自分がジサス(自提)に行くのをやめたこと。
隣にいる結衣と一緒に、生きていく決意をしたことを報告した。
おじさんは嬉しそうに微笑んだ。
ポケットから、一本の缶コーヒーを取り出してハルに手渡す。
「ハル。これからは苦いものも、少しずつ美味しく感じられるようになるさ」
その時だった。
ハルの胸に、ふとした違和感が走る。
「……おじさん」
手元を見つめたまま、ハルが聞いた。
「なんで俺の名前、知ってるの?」
出会ったあの日、ハルは一度もおじさんに名前を名乗っていなかった。
おじさんは一瞬だけ目を見開いた。
それから、すべてを察して観念したように、静かに笑った。
「……おじさんのこの身体にはさ」
おじさんは、自分の胸のあたりをぽん、と叩いた。
「お前の親父さんの心臓が、動いてるんだ」
風が、木の葉を揺らしていく。
おじさんは、ぽつりぽつりと語り始めた。
30歳のとき重い心臓病を患い、ただ死を待つだけだった入院生活。
ある日、奇跡的に適合するドナーが現れ、移植手術は大成功した。
ジサスの規定により、ドナーの身元は絶対に伏せられるはずだった。
けれど、退院後に知ってしまった。
自分が手術を受けたのと全く同じ日に、幼馴染であり、大親友だったハルの父親が、自ら命を絶っていたという残酷な事実を。
「同じ誕生日で、同じ血液型。あいつが死んだ数時間後に、俺の手術が始まった。ジサスの職員が『奇跡的なスピードで適合者が見つかった』と言った時、全てが繋がっちまったんだ」
ハルは衝撃のあまり、息を止めた。
父親は自分と母親を捨てて、勝手に死んだ最低な人間だ。
ずっとそう思って生きてきたからだ。
おじさんはハルに一歩近づき、その肩を優しく包み込んだ。
父親が抱えていた、本当の「死の理由」を伝えるために。
「あいつの仕事は営業でさ。いつも笑顔で、でも、本当はすごく繊細な奴だった。お前の母親から『子供ができた』って聞いた時、自分の経済状況や、父親になる自信のなさに押しつぶされそうになって、何も言えずに逃げちまったんだ」
おじさんはハルの目を真っ直ぐに見つめる。
「世間は『そんな理由で』って笑うかもしれない。でもな、あいつにとっては、逃げ出した自分の情けなさが、命を捨てるほど耐え難い絶望だったんだよ」
おじさんの目に、じわりと涙が浮かぶ。
「でもな、ハル。あいつは亡くなる数日前、俺の病室に来て言ったんだ。『本当は、子供ができたのがすごく嬉しかった。でも、どう育てていけばいいか、彼女と一緒に悩み、話し合いたかった。何も言わずに逃げてごめん』って」
言葉が、ハルの心の最深部へと染み込んでいく。
「あいつはお前を拒絶して死んだんじゃない。弱くて、不器用で、明日をどう生きればいいか分からなくなっちまっただけなんだ」
あの日、おじさんが公園で、ハルに「コーヒーか、コンポタか」を選ばせてくれた理由。
それは、かつて父親が「選択肢のない絶望」の中で逃げてしまったから。
だからこそ、その息子であるハルには「自分で明日を選ぶ選択肢」を、どうしても与えたかったから。
「俺は、あいつの心臓で生きている。だから、あいつの代わりに、お前のことを見守りたかった。無視なんて、絶対にできなかったんだ」
ハルは、手の中の缶コーヒーをじっと見つめた。
初めて飲んだ時は、めちゃくちゃ苦いと思った。
カチリ、と静かな音が響く。
プルタブを開け、ハルはそれを一気に飲み干した。
涙がボロボロと溢れて、止まらなかった。
けれど、その胸の奥には、世界から浮き上がっていたあの冷たい空気は、もう一欠片も残っていなかった。
「おじさん……」
ハルは涙を拭い、顔を上げた。
「やっぱり、まだちょっと苦いよ。でも、これからは、この苦い味が気持ちをリセットしてくれて、ちゃんと生きていける気がする」
ハルは隣で、心配そうに寄り添ってくれていた結衣の手を、もう一度強く握りしめた。
結衣もまた、愛おしそうに握り返す。
父親が、どうしてもあの日できなかったこと。
「明日どう生きていくか、一緒に話し合う」という選択を。
ハルは今、自分の意志で、大切な結衣と共に、一歩ずつ叶えようとしていた。
(特別編・完)
ご覧いただきありがとうございました。
この物語が、あなたにとっての「他愛もない明日」に少しでも寄り添えたなら幸いです。




