第3章:霧のなかの足跡
「……痛っ、あ、あかん」
ミニバンの運転席から降りようとした瞬間、さいの動きが完全に止まった。
腰のあたりで、何かが激しく弾けたような衝撃。
一歩も動けない。冷や汗がじわりと額ににじむ。
「どうしたん?」
助手席から降りたなみが、不思議そうにさいを覗き込んできた。
さいは車のドアにすがりついたまま、消え入るような声で言った。
「腰が……弾けた。とんでもなく痛い」
なみはしばらくさいの情けない姿をじっと見つめていたが、やがて謎が解けたような顔をして、ぽつりと言った。
「あ、それ、ぎっくり腰やね。欧米では『魔女の一撃』って呼ばれとる激痛。急に魔女に背後から一撃を喰らったみたいな激痛やけん、そう名付けられたらしいよ。中二病っぽくてちょっとカッコいいね」
「カッコよくないわ……頼むから笑わせんといて。響く、腰に響くから……」
さいは涙目になりながら、なみの肩を借りてなんとか一歩を踏み出す。
自分の身体の限界をユーモラスに自覚するさいを、なみは小さく笑いながら、それでも優しく支えて歩いた。
そんな、ささやかで温かい日常のすぐ裏側で。
世界は相変わらず、静かに狂い続けていた。
*
真由(まゆ・24歳)には、目立った不幸がなかった。
借金があるわけでもない。
ひどい虐待を受けたわけでもない。
会社で健一のように苛烈なパワハラに遭っているわけでもなかった。
ただ、朝起きるたびに、胸の真ん中に底の抜けたような暗い穴が空いているのを感じていた。
どこにいても、自分の居場所がない。
生きている実感が、すりガラスの向こう側のように薄い。
そんな理由のわからない希死念慮の霧の中で、彼女は生きていた。
真由は、街のいたるところにある無機質なジサスの受付に立っていた。
対応した職員の顔には、何の感情も浮かんでいない。
「あの……一番確実で、臓器を傷つけない方法を教えてください」
真由の身体からは、あの夜の電車でなみが見つめていた男と同じ、世界から浮き上がった独特の空気が漂っていた。
しかし、ジサスの職員にとっては、それも見慣れた日常の光景に過ぎなかった。
「自提の手続きですね。こちらのマニュアルを。心臓や角膜の鮮度を保つため、指定の薬剤を推奨しています」
職員は淡々と、マニュアル通りの言葉を返した。
真由はそれを静かに受け取る。
さいの個人活動の手も、自救の声も届かない場所で、彼女は誰にも知られることなく、静かに自提の道を選んで消えていった。
*
真由が消えた数日後、なみとさいは、夕暮れの駅前を歩いていた。
さいの腰はまだ少し痛んだが、コルセットを巻いてなんとか歩けるようになっていた。
その時、なみが急に足を止めた。
視線の先、スクランブル交差点の端に、一人の男子高校生が立っていた。
蓮(れん・16歳)。
ブレザーの制服を着た彼の肩は、ひどく小刻みに震えていた。
なみの目が変わる。
(落ちる瞬間を見逃さないように)
あの出会いの夜と同じ、張り詰めた目が蓮を捉えていた。
蓮は同性愛者だった。自分が男を好きになるという事実を、誰にも、親にさえも打ち明けられず、孤独の闇に押しつぶされそうになっていた。学校では「普通の男子」を演じ続ける日々に、もう限界がきていた。
なみとさいは、蓮が交差点を渡ったところで、そっと声をかけた。
「ちょっと、いいかな」
さいが関西のイントネーションで、できるだけ優しく語りかける。
近くの喫茶店に入り、さいは蓮の言葉を、ただ徹底的に聴いた。遮らず、否定せず、彼の痛みを自分のことのように汲み取ろうとした。
なみは蓮の横顔をじっと見つめ、トロンとした目で、けれど真っ直ぐに言った。
「……嘘はよくない」
自分の気持ちに、もう嘘をつかなくていい。
なみのその言葉に、蓮の目からボロボロと涙がこぼれ落ちた。
救える、とさいは思った。これだけ泣いて、気持ちを吐き出してくれたなら、きっと踏みとどまってくれるはずだと。
けれど。
絶望の底に沈む命を引き留めるのは、そんなに簡単なことではなかった。
次の日の夜、さいのスマホに、蓮からの短いメッセージが届いた。
『お話、嬉しかったです。でも、僕の身体が誰かの役に立つなら、その方がきっといいから』
蓮はなみとさいの必死の祈りをすり抜けるようにして、ジサスへ連絡を入れ、自ら命を絶ってしまった。
健一に続き、蓮までも。
立て続けに目の前の命を救えなかった。
圧倒的な無力感と絶望が、さいとなみの胸に重くのしかかる。
夜の部屋で、さいは頭を抱えて沈黙していた。自分のしている活動は、ただの自己満足だったのではないか。
その時だった。
さいのスマホに、見覚えのない暗号のような番号から、一通のメッセージが届く。
『君の活動を見ている。一人で闘うのには限界があるやろ。私たちは自殺者救済組織「自救」の者だ。一度、話をしないか』
冷たい世界の中で、密かに息を潜めていた地下組織の影が、ついにさいたちの前に姿を現そうとしていた――。




