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第1章:小さな世界の交わり

雨が降る一歩手前の夜だった。

湿った風がホームをゆっくり撫でていく。

さいは缶コーヒーを片手に、滑り込んできた電車へ乗った。

仕事帰り。

肩が重い。

車内は静かだった。

スマホを見る人。

眠っている人。

窓に映る自分を見ている人。

その中で、一人だけ妙に目につく女性がいた。

小さい。

たぶん150センチちょっと。

黒いパーカーの袖から指先だけ出して、スマホを触っている。

真剣な顔。

ゲームかと思ったが、違った。

画面には暗号みたいな文字列。

「月は嘘をつく」とか、「4番目を読め」とか、そんなのが見えた。

謎解きか。

さいは少しだけ笑いそうになる。

その瞬間だった。

彼女が急に顔を上げた。

空気が変わる。

彼女の視線の先。

車両の端。

フードを深く被った若い男が立っていた。

20代前半くらい。

痩せている。

何が変というわけでもない。

でも、さいにも分かった。

危うい。

昔、同級生にいた。

突然学校に来なくなったやつ。

社会人になってからもいた。

「大丈夫です」と笑った次の週に辞めた後輩。

あの静けさだった。

彼女はその男をじっと見ていた。

責めるでもなく、心配するでもなく。

ただ、

“落ちる瞬間を見逃さないように”

みたいな目。

電車が駅へ滑り込む。

ドアが開く。

男が降りる。

彼女も立ち上がった。

さいは反射的に息を止める。

だが彼女は降りなかった。

閉まるドア。

発車。

彼女はまた席へ座った。

そして小さく呟いた。

「……今日は大丈夫やった」

さいは思わず聞いた。

「知り合いですか?」

彼女は首を横に振る。

「知らん人」

福岡なまりが少し柔らかい。

「でも、たまにおるやん」

窓の外を見ながら言う。

「もう、限界そうな人」

さいは返事ができなかった。

車輪の音だけが響く。

しばらくして、彼女は急に眠そうな顔になった。

「でもそれはそう……」

うとうとしながら続ける。

「みんな限界やし……」

さっきまで人を見抜いていたのに、急に頼りない。

さいは少し笑った。

変な人だ。

でも、不思議と嫌じゃない。

むしろ。

もっと話してみたいと思った。

そんなこと、何年ぶりか分からなかった。

電車が次の駅へ近づく。

彼女が立ち上がる。

バッグを肩にかける。

降りるんだ、と思った瞬間。

さいの心臓が一回だけ強く鳴った。

今を逃したら、二度と会わない。

たぶんそういう人だった。

気づけば、ポケットのメモ帳を破っていた。

手が情けないくらい震える。

自分でも驚く。

36にもなって何をやっているんだと思う。

それでも、差し出した。

「あの」

声が裏返りそうになる。

「もし迷惑じゃなかったら」

彼女はメモを見る。

そこに書かれた連絡先。

それから、さいの顔を見る。

数秒。

突然。

腹の底みたいな低い声で言った。

「殺すぞ」

さいは一瞬だけ固まった。

でもなぜか、怖くなかった。

むしろ。

試されてる気がした。

だから、つい言った。

「ちょっとならいいですよ」

沈黙。

次の瞬間。

彼女が吹き出した。

「なにそれ」

肩を震わせて笑っている。

電車が止まる。

ドアが開く。

彼女は降り際、振り返った。

「その返し初めて聞いた」

少し眠そうな目で。

「採用」

「採用?」

「うん」

そう言ってホームへ降りた。

ドアが閉まる。

遠ざかる小さな背中。

さいはしばらく窓を見つめていた。

胸の奥が、妙に静かだった。

スマホも見ず、音楽も流さず、ただ夜の景色だけを見る帰り道なんて、いつぶりだろうと思った。

その夜。

知らない番号からメッセージが届く。

『さっきの殺すぞの者です』

『あとあれ元ネタあるけん安心して』

さいは声を出して笑った。

そのあとに届いた二通目。

『でもなんで私に?』

『よくわからないけどよろしくかな』

あれから、2年の月日が流れた。

さいが38歳になり、なみが31歳になった春。

二人は静かに恋人同士になった。

付き合ってみると、なみはやっぱり変な人だった。

予定を立てるのが致命的に苦手で、お化けを本気で怖がり、神社やお寺を巡るのが好きだった。

便乗するように、眠くなると「あー、わかる、本当にそれね」と、すべての言葉に共感してくる。

あの出会いの夜の「殺すぞ」は。

今では、さいと二人きりの時、空気を変えたい時や何かを察した時にだけ飛び出す、なみからの特別な合図になっていた。

ある夜。

さいのミニバンの助手席で、なみはトロンとした目をしていた。

「あー、それね……本当にそう……」

「なみ、もう眠いやろ」

さいが優しく言う。助手席のなみを気遣いながら、静かにアクセルを踏んだ。

なみが突然、ガバッと起き上がった。

さいをキッと睨む。

「殺すぞ」

車内に響く、ドスのきいた低音。

さいはミラーを確認しながら、穏やかに微笑んだ。

「ちょっとならいいですよ」

なみはふにゃりと表情を緩め、窓の外を見る。

安定の返しに安心したのか、テレビCMのフレーズを思い出したように、ぽつりと呟いた。

「……無視はよくない」

その言葉はいつも、さいの胸の奥に深く刺さった。

さいは個人的に、死にたがっている人の話を徹底的に聴く活動をしていた。

世間に隠れて存在する自殺者救済組織「自救じきゅう」に、限りなく近い独りの戦い。

どれだけ人の気持ちを汲もうとしても、届かない命がある。

数日前。

さいの高校時代の後輩だった、坂本 健一(さかもと けんいち・34歳)が死んだ。

居酒屋の片隅で、健一はハイボールのグラスを握ったまま、ボロボロと泣いていた。

職場での執拗なパワハラ。同僚からの孤立。

『先輩、もう限界んです』

さいは健一に、仕事は辞めていいし、疲れた時は休めばいい、今を生きてる自分の為の選択をするべきだと、必死に言葉を紡いだ。

相手の痛さを自分のことのように受け止めながら、身体も心も動かなくなる前になんとか踏み止まらせようと、言葉を投げかけた。

けれど、健一の身体からは、あの夜の電車でなみが見つめていた男と同じ、独特の「世界から浮き上がった空気」が漂っていた。

健一は静かに微笑んだ。

『僕が死ねば、誰かが助かる。会社でゴミみたいに扱われるより、そっちの方がマシですよね』

さいは何も言えなくなった。決して健一の言葉を無視したわけではない。ただ、彼のあまりにも重い絶望の前に、これ以上どんな言葉を返せば彼の心に届くのか、必死に頭を巡らせていただけだった。

どう伝えれば、彼をこちら側に引き留められるのか。

そう考えていた矢先のことだった。

健一は「自提サービスセンター」――通称ジサスに連絡を入れ、自ら命を絶った。

自殺者が増え続けるこの世界。命を絶つ代わりに臓器を提供する若者や大人は、自殺者臓器提供の略称で「自提ジテイ」と呼ばれ、国は効率よく摘出するための施設まで用意している。

健一の臓器はすぐに摘出され、世界のどこかで、見知らぬ誰かの身体へと移植された。

後輩一人、救えなかった。

ハンドルを握るさいの手に、じわじわと無力感が滲む。

しかし、さいはまだ知らなかった。

健一が命を絶ったそのジサスの無機質なロビーの片隅で。

もう一つの、不器用な「命のすれ違い」が始まろうとしていることを――。

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