2祝祭の夜
他国への輿入れが決まると同時に、サーラの生活は一変した。
後宮から抜け出すことに希望を見いだそうとするが……。
白い壁が続くばかりの長い廊下をひたすらに駆けていた。揺らめく玻璃燈の光が、大理石 の壁に反射してまばゆいほどだった。どこからともなく、女たちのすすり泣く声が聞こえてくる。
ぬるりとうごめく黒い影に怯えて目をやるたび、自分のものだと気が付いて我に返るものの、不安がいや 増していく。
生まれた時からずっと暮らしている後宮の、見慣れた廊下。そのはずなのに、何かが違 う。何故そう感じるのか分からない。ここで生まれ、ここで育ち、ここしか知らないはずなのに。
息を切らして、ようやくどこかの房の前に辿り着いた。すすり泣く女たちの声の出どころは、この房の中 だった。
何かに背中を押されたような気がして帳をめくり、そっと中を覗いた。床に敷かれた粗末な絨毯の上に、 誰かが横たわっている。ほかに人の姿は見当たらないのに、すすり泣きの声と嘆息がサーラを取り囲む。
薄暗がりに目を凝らしながら、恐る恐る近付いていく。闇の中で輝くように浮かび上がる顔を見留めて、 思わず息をのんだ。
磨かれた玉髄のような、艶やかで蒼白い肌。その相貌を縁取るのは、暗い樹皮の色をした巻き毛だった。
幼い頃にサーラの記憶の奥深くに打ち捨てられ、面影の切れ端が残るだけだった母の顔だ。サーラとよく 似ていたが、どことなく異国の空気をまとっていた。
――まだお若いのに。お可哀そうに――
――ほんとうに。ご息女もまだ幼くて――
その声に思わず振り返る。しかし、闇が広がるばかりで、先ほど通り抜けたはずの帳も、玻璃燈もどこに もなかった。
動転したまま向き直り、思わず小さく叫び声を上げた。 目の前に横たわる女が、目を見開いてこちらを見ていた。その瞳はナツメヤシのような赤みがかった黒色だ。
体が小刻みに震え、足がすくむ。逃げろ、と頭の中で警鐘が鳴り続けるが、目は女の虚ろな眼差しに捉えられて動かせない。
そうこうするうち、女がやおら起き上がると、その容貌は溶けるように変じていった。頭髪は葡萄の蔦 を思わせる巻き毛から、流れる川のようにしなる直毛になり、色は暗褐色から銀色へ。瞳は薄暮色から、雨季の晴れ間の空の色に。顔立ちも幼く、あどけなくなっていく。
それが自分の顔だと気付くのにそう時間はかからなかった。息をするのも忘れ、目の前のもう一人の自分 を凝視する。背後でまた、聞き覚えのない声が聞こえた。
――まだお若いのに。お可哀そうに――
――ほんとうに。せっかくお輿入れも決まっていたのに――
永遠のようにも、わずかな刹那のようにも思える時が過ぎると、もう一人の自分がどろどろと溶け始めた。
皮膚も内蔵も跡形もなく消え、最後に残った骨だけが、カランカランと乾いた音を立てて床に散らばった。
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