29.魔女
屋敷の前でラピスと別れたオニキスは早々に車を走らせていた。
つい最近向かったある場所へ車を走らせる。まだ陽は高いがつく頃には夕日へと変わっているだろう。
「まったく、今回もめんどくさいものを指定してくるとは……あの女はいったい何を考えているんだ」
車の運転をしながらオニキスはチラリと助手席に置いたトランクケースをみつめる。
中には以前、騒動になった違法薬物ジギタリスの現物とその原材料の花。そして、今までの研究成果のレポートやその資料が入っていた。
オニキスの本日最後の予定はこのトランクケースをとある人物に無事に受け渡すことである。
幾度となく行われたこの取引はいつもオニキスが一人で行っていた。特に理由はない。ただ、オニキス一人のほうがいつも都合がいいのだ。
トランクの中身を聞いてくることもない。
ただ黙っていろと言う指示を飛ばす必要もない。
そして何より、相手の顔を見てはいけないという理由を説明する必要がない
その様々な条件をわざわざ丁寧に説明する時間が惜しいというようにオニキスはいつも一人でこの取引に向かうのだ。
これからの取引を考え、オニキスは大きくため息をつくとハンドルを握る手に少しだけ力を加えた。
「あの女の考えていることを考えても仕方がない、か。時間に遅れると帰り時間も遅くなるし、少し飛ばすか……」
アクセルを踏み込み、少しづつスピードを上げる。
早く帰ってゆっくり紅茶を飲もう。そう心に決めて。
***
しばらく車を走らせ、夕日が半分沈みかけた頃オニキスは目的の場所に到着した。
ここはトラグス領とバートン領の境目に位置する街であり、この街には大きな鉄道の駅が通っていた。
この街、以前はバートン傘下のヴィオレッタが治めていた領地だったが、ジギタリス会談の締結後、両領地の境目の街となっていた。
トラグスの領地となってからは何度も視察に来ていたおかげだろうか、その足取りに迷いはなくスタスタと足を進める。駅の改札を一度無視し、地下への階段を下りる。地下へ降りればすぐに大広間が広がり、左右にあるわき道に入れば大小さまざまな貸しロッカーが目の前に広がった。
何度も来ているのだろうか、オニキスは迷いなく一つのロッカーの前に立つと持っていたトランクケースをしまい込み、鍵をかけるとそれを丁寧にしまい込み、もうそこには用がないというように一切振り返ることなく階段を上がり、駅の改札のほうへと向かった。
改札に入る前に、とオニキスは改札の前にある唯一の小売店に寄り、新聞を購入する。
バートンとトラグスの境目にあるためか両方の情勢が入ってくる珍しい新聞だ。お互いの状況を確認するためにはこれほど良い物はない。
新聞を一部とコーヒーを手にオニキスは改札のほうへ向かった。
改札前で駅員に金を払い、切符を貰う。そうして駅のホームの一番奥にあるベンチへ向かった。
すでにベンチには複数人使用者がいるが、オニキスはそれを気にすることなく一番奥に腰を下ろし、新聞を広げた。
時間が流れる。
すでに何人もの人間が隣に座っては駅に滑り込んできた列車に乗っていくというのを繰り返している。
オニキス自身もすでにこの記事の内容を三度も見直していた。
そんな時だった。
「こんにちわ」
声がかけられた。
オニキスは一瞬動揺するも、新聞に目を降ろしたまま同じように「こんにちわ」と返した。
「最近の情勢はどうですか?」
「まぁ、ボチボチといったところですね。まだどちらが優位だとかはないでしょう」
「そうなんですね。探し物は見つかりましたか?」
「まだですね。見つかった、という報告は受けていません」
「そうですか、けどそろそろ見つかると思いますよ」
「……そうなんですね」
何のたわいもない会話を繰り返す。
隣に座った人物は深くフードをかぶっており、どんな人間なのかは想像がつかない。
背は低めだろう。座っているせいかもしれないがそうだとしても150センチもないように見える。
だが、声は異様に低い。トラグスファミリーの誰よりも低く聞こえる。
例えるならばバートンファミリーの【傲慢】のバルドル・バルザークだろうか。あんな声だ。
だが、彼の場合体格もいい。このような小さな人間に化けることはできないだろうが。
「何を考えておいでで?」
「別に。貴方には関係ないことですよ」
「そう、ですか」
クスクスと笑いながらそう返される。
低い男の声で女のように返されるのはとても気持ち悪い、そう思ってしまった。
「ところで、アレはどうでしょうか?」
「アレ?アレとは……?」
「アレはアレですよ。ほら、研究所の」
「それは禁則事項です。むやみやたらに外で発言しないでいただきたい」
「あら、それは申し訳ありません」
全く申し訳なさそうに返すそれにオニキスは少し苛立ちを覚えた。
こんな簡単な問答の間に同じ記事をもう4度も見直している。そうしている間にどれだけの書類が片付けられただろうなどと考えてしまった。
それが相手にも伝わったのだろうか、大きくため息をつくとおもむろに互いの間のスペースに鍵を置いた。
「こちらでもすべて滞りなく進んでいます。アイツのおかげであちらも滞りなく道を外れずに進んでいますし。もちろん、貴方たちも今まで通り滞りなく進めてくださいね?」
「よく言いますよ。都合が悪くなればすぐに修正をかけるくせに」
オニキスの返答に相手は笑うと楽しそうに頷いた。
「よく言われます。けど、そうしないと我らの悲願は達成できないので」
「我らの悲願とは、よく言ったものですね。私は同意してません」
「貴方の同意は必要ないんですよ、オニキスさん。いや、こう呼んだほうが良いですか?ねぇ……」
「貴女にその名で呼ぶことを許した覚えはありません」
面白そうに笑う相手の言葉を遮るようにオニキスは声を荒げた。
何事かとこちらを見つめる人間はいない。こいつと話す時はいつもそうだ。
いつの間にか人通りがなくなっている。どんなに人通りの多い場所にいても、だ。
相手はその反応すらも楽しかったのか、ケタケタと不気味に笑った。
「おやおや、手厳しい」
「その名を呼んでいいのはカイン様だけだ」
「その、カイン様のためじゃないですか。何を否定しているんですか?」
相手の言葉にオニキスは言葉に詰まった。
カイン様のため、それは事実だ。だが、彼は、オニキスはこの計画自体に反対していた。
どれだけ遅くてもいい、やはり止めればよかった。そんな思いがオニキスの頭を巡った。
俯き、黙り込むオニキスを見ながら相手はわざとらしく大きくため息をついた。
「黙るんですね。そうですよね、黙るしかないですよね。貴方が言いたいことはそのカイン様の願いを否定することだ」
「否定は……しません。私の願いはカイン様の幸福。だけど、この計画はカイン様の幸福には繋がらない」
「そうやって決めつけて貴方は未来をみようとしないんですね」
相手の問いにオニキスは無意識に笑っていた。
「未来?何を言っているのやら。この計画自体、未来を夢見ることを諦めているじゃないですか」
「そうですか?立派に未来を見ているじゃないですか。この計画が順調にいって、成功すれば未来はとても良いものになります。それを信じていないと?」
「未来は良いものになるでしょう。だが、カイン様の幸福とは言えない」
「またそうやって決めつけるんですね。決めつけはよくないですよー?」
煽る様に言葉を返す相手にオニキスは今まで開いたままだった新聞を閉じ、相手のほうを見つめた。
「うるさい。黙ってください、私があなたの脳みそをここにぶちまける前に」
相手の胸ぐらをつかみ上げないのはオニキスにかすかに残った良心のおかげだろう。
真正面から見つめているはずの相手の顔は闇に包まれ、一切見えないけれど。
オニキスににらまれながらも相手は楽しそうな雰囲気を隠すことなくケラケラと笑い続ける。
すでにその声はいつの間にか男のものから女のものへと変わっていた。
「おーおー、怖い怖い。それじゃあ私はここら辺で退散しますね。脳みそをぶちまけられても困るので」
「早く私の前から消えろ、魔女」
「魔女だなんて……それ、褒め言葉ですか?」
「褒めてねえよ、いいから早く俺の前から消えろって言ってんだよ。耳ついてねえのか?クソ魔女」
思わず口調が荒ぶる。普段のオニキスを知る者ならば見たことも聞いたこともないというだろう。
相手は一瞬キョトンとするもすぐに呆れたようにため息をついた。
「もしもーし?昔の口調に戻ってますよー?いいんですかー?」
「……チッ」
舌打ちを一つ打ってまたさきほどと同じように新聞を広げたオニキスを見つめながら相手はまた軽く息を吐くと胸元から鍵を取り出し、オニキスの置いた鍵の横に置いた。
「まぁ、私もやることは終わったのでいいです。帰ります。今後に必要な資料はいつも通りここに置いて行きますね」
さあ、お前はどこだ?と言わんばかりに相手がオニキスを見つめる。オニキスはしばらく黙ったがしばらくして深くため息をつくとゆっくりと口を開いた。
「……お前が欲したものはこの駅のロッカーに入れてある。場所はNーD。ロッカー番号は4。ロックナンバーは……この計画が始動した日にちだ」
それを聞くや否や相手はにんまりと笑い、子供のように手を挙げた。その手の中にはいつの間に取ったのだろうかN-Dと4と記された鍵がある。
「はーい、了解でーす。それじゃあオニキスさん。またね?」
相手の問いにオニキスは何度目かのため息をついた。
「もう二度と会わないことを祈りますよ」
「無理ですね。あと三回くらいは」
相手の応えにオニキスは思わず新聞を握る手に力を加えてしまった。少しだけ新聞に皺が寄った。
「具体的な数字を言われると胃痛がするから止めろ。さっさと行け」
「はいはい。それじゃーねーオニキスさん」
そう言い残すと相手は鍵を手の中で遊ばせながらまっすぐロッカーのあるほうへと消えて行った。
その後姿を黙って睨み付けて居れば次第にあたりに人の喧騒が戻ってくる。
相手が離れたせいだろう。そうだとしかオニキスには言えなかった。
あれは人間の想像を超えている。
いつしか誰が言い始めたかは定かではないが『魔女』と称した気持ちが最近になってオニキスにも分かるようになった。
低い背丈から聞こえる野太い男の声。気づけば一切無くなる人の気配。あれが去る時には戻ってくる人と不自然に体から這い上がる不気味さと冷や汗。
自分という物体を構成するすべてが己とあれは違うのだと声の限り叫んでいた。
ジワリと新聞が手汗を吸って滲む。
冒険したものだ。少しでもあれの機嫌を損ねれば自分の首など簡単に飛ぶだろうに。
オニキスはあたりを見回し、しっかりと人の気配が戻ってきたことを確認すると大きく脱力した。
「……クソ、魔女め。相変わらずへんなことばかり言いやがる……まあいい。さっさとここを離れ……」
立ち上がりかけたオニキスは微かに香った匂いに眉を寄せた。
この香りはどこかで嗅いだことがある。
「これは……あの守銭奴の、香水の香り……?まさか、今回は、あいつが……?」
しばらく黙り込んだオニキスだったが急に顔を上げると一目散に走りだした。
早く、早く屋敷に戻らなければいけない。
もし自分の考えがあっていれば、もしそうだとすればすぐに対策を立てなければ。
オニキスの頭はもうそれでいっぱいになっていた。




