終の鱗・再会
歌が聴こえる。
優しい耳鳴りを思わせる、かすかにかすれて美しい歌。
その歌は遠くとおく、『海底の崖』から響いてくる。青く鮮やかな昼の海に、ひらひらと流れる淡い歌声。
その歌声に魅了された人魚の娘が、海中をすっすっと切り裂くように泳いでゆく。
いや、もうはや人魚ではない。恋に焦がれ、その姿まで変えた海蛇の娘が、一心に歌い手目ざして泳いでゆく。
すらと目の前に現われた見慣れぬ海蛇に、ナーマンは歌うのをやめて娘を見つめた。
「……シレーネ……? シレーネか?」
そう分かったのは赤い瞳でか、耳もとに飾った黒い鱗でか。ともかくも実の姉も分からなかった人魚の娘の正体に、海蛇の王子はすぐさま気がついた。シレーネは深くうなずいて、甘くとろけた懺悔のように言葉を吐いた。
「ナーマン様。わたし、あなたと同じ姿になりました。もう『ここにふさわしくないもの』ではありません。もう人魚の一族のもとへは帰りません。どうか、どうか……海蛇の一員として、あなたのおそばにいさせてください……」
体が焼けるように熱い。恥じらいに赤く染まっていたはずの肌は、今はもうただ海草色に暗いだけだ。シレーネは告白を終えて目を閉じ、深々と頭を垂れる。
王子は何も答えない。相手の沈黙に耐えきれずに、海蛇の娘がそっと顔を上げる。シレーネが見たのは、予想もしない光景だった。
ナーマン王子が、泣いている。
水銀のような色の涙が、ぷくぷくと青い瞳を色どり、水面目ざして浮上してゆく。王子は泣きながら海蛇の娘に抱きついて、にじむ声音で娘の耳もとでささやいた。
「……お帰り、俺の愛しいシレーネ……百年前から、待っていたよ……」
その言の葉に、薄っすらと記憶の扉が開かれる。シレーネはぼんやりと確かめるような口ぶりで、王子にそっと問いかけた。
「……いつかの、海蛇のお兄ちゃん……?」
「そうだ、俺だよ。よくぞ戻ってきてくれた。ありがとう、シレーネ……」
シレーネはまだ茫洋とした記憶の中でも、これだけははっきり想い出した。
わたしは、このひとに恋していた。
百年前にこのひとに出逢い、なぜか記憶をなくしながらも、無意識にずっとこのひとだけを想っていた。
シレーネの目頭が熱くなり、ぷくぷくと美しい水銀の珠が浮かび上がる。王子はシレーネの手をひいて、優しく崖の奥へといざなった。
「おいで、シレーネ。俺の王宮へ案内しよう。そこでゆるりと、俺の話を聞いてくれ」
そうして王子とシレーネは、岩造りの海蛇の王宮へ行き着いた。最上階の王子の居室は、つるつるに岩肌の磨かれた居心地の良い場所だった。
ナーマンはベットの上に腰を落ちつけ、シレーネをとなりにすわらせた。しばらくの間ためらってから、すがるようにシレーネの肩に手を置いた。それから王子は、ガラス製の民族楽器を思わせる涼しい声で話しはじめた。
「お前は百年ほど昔、まだ幼い姿の時に、この崖に迷いこんできたのだ。その時もお前は大ダコに目をつけられて、襲われそうになっていた」
くくっとナーマンが苦笑する。まだあいまいな記憶をもてあまし、シレーネは赤い目で続きを乞うた。
「そこに俺が通りかかって、この間のイカの時のようにお前を助けたのだ。お前はしみじみと俺を見上げて……何と言ったと思う?」
「……『助けてくれて、ありがとう』?」
「外れ。答えは『かっこいい』だ。こんな海蛇の姿の俺を、きらきらした目で見ながらな……。告白しよう。その時に俺は、お前に恋してしまったのだ」
ぱちぱちとまたたいたシレーネが、『わたしも』と言いたげにうなずいた。王子はぬるぬるとしたシレーネの肩を撫ぜながら、言の葉を綺麗なリズムでつないでゆく。
「お前もその時言ってくれた。『大きくなったら、お兄ちゃんのお嫁さんになりたい』と」
目もとを緩めてつぶやいた後、王子はかすかに首を振って吐息をついた。
「けれどもお前はまだ幼かった。俺との約束で、お前の将来を縛りたくはなかったから、俺はお前に呪いをかけた。『少なくともお前が成魚になるまでは、俺とのことを思い出してくれるな』と。そうして俺とのよすがにと、鱗を一枚あげたのだ」
シレーネが思いいたって、耳もとの黒い鱗に手をそえる。王子の魚体に、一枚鱗が抜け落ちているのを今さらみとめて、思わず口もとへ手をあてた。
王子は苦しげに微笑して、シレーネの肩を抱く手に、ほんのわずか力をこめた。
「お前が俺を想う力が強ければ、百年後には解ける呪いだ。そうしてお前は本当に、ここに戻ってきてくれた」
「……でも、この前再会した時には、『お前はここにふさわしくない』というようなことをおっしゃっていましたね。どうしてですか?」
「お前が思い出していなかったからだ! 幼いころのようにたまたま迷いこんだなら、わざわざ俺などと結ばれる義理はないだろう。誰かほかの良い男を見つけて、幸せになってくれと……そう考えて帰したんだ。正直、この長い尾もちぎれるような思いだったぞ?」
少しおどけて真実を語るナーマンに、シレーネの頬が熱くなる。ふたりの時間が嬉しくて、甘く絡みつくように、もう少し駄々をこねてみた。
「でもナーマン様、あなた様は今まで正妻も側室もお持ちになったことがないとか。それはいったいどうしてですの? また、それでもなおわたしを妻にしたいとお思いになってくださったのは……どうして?」
「驚いたな、お前俺にかかった呪いのことを知らんのか?」
「いいえ。この前姉に聞きました。王子と妻の生まれ変わりの、双子の生まれる卵のことも」
「それでなお『なぜ妻を持たなかった』と訊いたのか? おかしなやつだな……軽い気持ちでそんな呪いを、愛するものにしょわせられるか? それに……」
ふっと言いよどんだナーマンが、急に心細げな目になった。少し伏し目にうつむいて、横目でシレーネをうかがいながら問いかける。
「……お前、俺の出自も知っているのだな? 俺がどうしてこの姿になったのか、もう全部知っているのだな?」
シレーネがこくりうなずくと、王子は深く吐息をついた。いっそ泣き出しそうな悲痛な目つきで、ぽつぽつ言葉を紡いでゆく。
「俺の中にも、あの王の血が流れている。いつおのれの妻に対し、あのような暴挙に走るとも限らん……だから、よほどに惚れたものとでなければ、よほどに惚れてくれたものとでなければ、共に魚生は刻むまいと……結婚なんぞ、なかばはあきらめておったのだ」
「わたしなら、良いと?」
よほどに惚れて、よほどに惚れられた相手だと?
言外に強くにじませて、シレーネがとろけるように問いかける。口もとを覆ってうなずいた王子が、ちらと流し目で新妻を見やった。
「…………もう一つ、告白して良いか?」
「はい。何なりと」
「……この間見たお前はな、俺の母に似ていたのだ。桃色の魚体、金色の髪、赤い瞳もその顔も体つきまでも……俺の母と、『王の正妻』とそっくり同じだったのだ」
シレーネが赤い目を見はり、声もなくナーマン王子を見つめる。王子は懺悔の口ぶりで、両手を組んで話し続けた。
「怖かった。忘れ去りたいと思っていたことを、その時全部思い出した。爪に感じる肉の感触、泣き笑いのまま飛び斬れた母の首、『斬らねばお前を刻み殺す』と命じた父の獣のような顔……全てことが終わった後の……」
王子はぐっとのどを鳴らし、ふりしぼるような声でぽつりとつぶやいた。
「言いようのない、あの後悔……」
見開いたナーマンの瞳から、水銀の涙はこぼれない。ただ眉根は痛そうなくらいぎゅうっときつく寄っている。
(ああ。これはきっと、泣くことも出来ないような記憶なんだ)
そう考えたシレーネは、王子の肩にそっと手を触れてなだめてやった。王子はふうっと深く息を吐き、すがる口ぶりで言葉を重ねた。
「お前の姿を見た時に、俺は恐ろしくなった。もしもお前と一緒になって、何か間違いがあった時に、俺はきっと父親と同じふるまいをするんだと……父の呪いより、この体に流れる血の呪いにおののいた」
「ひっぱたきます」
急にシレーネに宣言され、王子がぽかんと妻を見る。シレーネは黒い髪を揺らしながら微笑んで、ぱちりと王子の頬をたたいた。軽くかるく、撫でるように。
「もしあなたがそんなかん違いをなすったら、わたし、あなたをひっぱたきます。『そんなことある訳ないだろ、何思い違いしてるんだ』って。そうしてあなたを、元の優しい旦那様へと戻しますから」
だから、絶対大丈夫。
くちびるだけでささやいて、シレーネがにこりと柔く微笑んだ。呆然としていたナーマンの目に、水銀の涙がぽつりとにじむ。涙はひらひら浮かんでゆき、屋根のない天井からきらきらと水面目ざして上がっていった。
「……ありがとう」
「いいえ……」
「……あの美しい姿をふり捨ててまで、俺のことを選んでくれて……それほどに深く想うてくれて……あ、ありがとう、ありがとう……っ!!」
王子は海蛇の娘にしがみつくように抱きついて、声を上げて泣きだした。
あんあんと幼子めいた泣き声は、綺麗に甘い歌のように、海底の崖にいつまでもいつまでも響いていた。
それはふたりの『みにくいもの』の物語。
黒いわかめのような髪と、肌のぬめぬめに彩られた、ハッピーエンドの物語。(了)




