第九話 : 渓谷の炊き出し
洞窟の出口から差し込む光は、予想以上に眩しかった。
長い時間、岩と闇の閉鎖空間にいたせいだろう。私の目は細められ、涙がじわりと滲む。
背後からは、ガサゴソと不揃いな足音が続いていた。
ゴブリンたちが、大柄な戦士を担いで歩いている。
その足取りは、先ほどまでの凶暴さを微塵も感じさせないほど慎重だった。
戦士の体が揺れるたび、彼らは「ギギ」と短い声を交わし、歩調を合わせている。
まるで、壊れやすいガラス細工でも運んでいるかのようだった。
「本当に……信じられん」
私の隣を歩く勇者が、低く呟いた。
彼の視線は、自分の両手に注がれている。
泥と血に汚れていた皮膚は、先ほどのおにぎりのおかげか、どこか艶を取り戻しているように見えた。
歩き方も、先ほどのふらつきが嘘のように力強い。
「あいつらは、この辺りの階層で一番厄介な群れだったんだ。話が通じるような相手じゃない」
魔法使いの青年が、息を切らしながら会話に加わる。
彼の懐からは、先ほど包んでいた竹皮の匂いがまだ微かに漂っていた。
「お腹が空いていただけですよ」
私は前を見据えたまま、短く答えた。
腰に下げた飯盒が、歩くたびに太ももを小突く。
その軽くなった重みが、米を使い切った現実を教えていた。
洞窟の歪な形をした岩肌が途切れ、視界が一気に開ける。
目の前に広がっていたのは、緑豊かな渓谷だった。
湿った土の匂いと、名も知らぬ野花の甘い香りが鼻腔をくすぐる。
「出られた……」
勇者が深く息を吐き出し、その場に膝をついた。
張り詰めていた糸が切れたのだろう。
彼の肩が大きく上下している。
ゴブリンたちは、渓谷の入り口、つまり洞窟の影から出ようとはしなかった。
彼らは日光を嫌うように目を細め、担いでいた戦士をドサッと降ろそうとして、ルリに怒られ、慌てて支え直す。
戦士はまだ意識が朦朧としているものの、その顔色は確実に良くなっている。
役目を終えたゴブリンのリーダーが、私の前に進み出た。
その緑色の顔が、期待に満ちた表情に歪む。
彼は自分の腹を叩き、それから私の飯盒を指さした。
十匹以上の仲間たちも、洞窟の暗がりの奥から、一斉にこちらを覗き込んでいる。
彼らの目は一様に、あの「赤い秘薬」を求めていた。
「わかっています。約束ですからね」
私は微笑み、草の上にリュックサックを下ろした。
約束は守らなければならない。
それが、この奇妙な信頼関係を維持するための唯一のルールだった。
草の上に下ろしたリュックサックのジッパーを開ける。
金属の擦れる音が、静かな渓谷に小さく響いた。
中から取り出したのは、ずっしりとした重みのある米袋と、予備の水筒、そして小さな木箱だ。
洞窟の入り口の影から、無数の緑色の目がこちらを凝視している。
ゴブリンたちは身を潜めながらも、その鼻をひくつかせ、私の手元から一時も視線を外さない。
「待たせてごめんね」
私は飯盒をひっくり返し、底についた煤を軽く手で払った。
近くを流れる小川へ歩み寄る。水面は陽光を反射してきらきらと輝き、冷たい水が指先を刺激した。
飯盒を沈め、中をきれいにすすぐ。
川の水を適量汲み、米袋から白い粒を流し込んだ。
親指の付け根で米を研ぐ。
ザッ、ザッ、と規則正しい音が周囲の緑に吸い込まれていく。
ゴブリンのリーダーが、辛抱たまらないといった風に足を踏み鳴らした。
早くあの「神の果実」の準備をしろ、と催促しているかのようだった。
「慌てないの。美味しくなる魔法は、ここからなんだから」
研ぎ汁を捨て、澄んだ水を注ぎ直す。
近くの枯れ枝を集め、小さな手際で火を熾した。
パチパチと乾いた音が爆ぜ、細い煙がまっすぐ天へ昇っていく。その上に飯盒を設置した。
思い思いに寛ぐ勇者一行。
「おい、これはどう言う事だ」
「わからん、何で魔物らが約束を守る事もな」
冷静を取り戻した一行は、ひそひそ、話し始める。
「奴らは、敵では無いのか?」
「いや…わからん。何がなんだか全くわからない」
飯盒から立ち上る湯気が、渓谷の風に乗って流れていく。
ゴブリンたちは今か今かと身を乗り出し、飯盒を囲んでいた。
その時だった。
ガサリ。
近くの草叢が揺れた。
ゴブリンたちが一斉に振り向く。
そこから現れたのは、一匹のコボルトだった。
灰色の毛並みをした犬顔の魔物は、警戒した様子で身を低くしている。
だが、その鼻だけは忙しなく動いていた。
完全に匂いに釣られている。
「あら?」
私が首を傾げると、
コボルトは気まずそうに一歩後ずさった。
コボルトの姿を見たゴブリンたちが一斉に「ギギッ!」と威嚇の声を上げた。
明らかに、『俺たちの飯を狙うな』と言っている。
しかし次の瞬間。
ふわり。
小さな影が頭上を横切る。
「きゅるるる……」
ピクシーだった。
手のひらほどの妖精は、飯盒の上をぐるぐる飛び回りながら、口元から涎を垂らしている。
完全にご飯目当てである。
「なんか知らないうちに魔物が増えてる……」
見習い勇者が顔を引きつらせた。
いや、パーティー全員の眼が、点になっている。
つい先ほどまで命懸けで戦っていたゴブリンが飯を待っている。
そこへコボルトが加わった。
おまけに頭上ではピクシーが涎を垂らして旋回している。
誰一人として、この状況を説明できなかった。
ルリは鼻歌混じりに、準備に忙しそうに動き廻っていた。




