第十六話 痺れる余韻と、城壁の都
朝食を済ませた商隊は、いよいよ最難所であったパラス峠の下りへと差し掛かっていた。
行程はいたって順調そのものである。
――ただし、ルリを除く男たちの表情は一様に冴えない。
彼らは一言も口を利かないまま、ただひたすらに自分の舌をペロペロと動かしていた。
今朝ルリが張り切って作ったお粥の後遺症は、未だに続いていた。
食べた全員の舌が、今もなおピリピリと痺れているのだ。
そんな男たちの苦悶など露知らず、ルリは御者台の横で実にご機嫌だった。
「ララ、ラララ……♪ ♪ ♪」
心地よい風に吹かれながら、楽しげに鼻歌を響かせている。
やがて、隊列が見晴らしの良い大きなカーブに差し掛かった。
その瞬間、目の前の視界が一気に開ける。
先頭を進むペドロが、嬉しそうな声を張り上げた。
「おぉ、見えて来たな! あれがサン・セバスチャンの都だ!」
男たちが痺れる舌を堪えながら前方を仰ぎ見ると、遥か彼方に、堅牢な城壁でぐるりと囲まれた壮麗な城の姿が浮かび上がっていた。
「目的地はもう少しだ! 皆、最後まで頑張ろうな!」
ペドロの大声が、峠の斜面に爽やかに響き渡る。
峠の出口へと近づくにつれ、険しかった岩肌は影を潜め、道端には色鮮やかで可憐な野花が絨毯のように咲き誇り始めていた。
「うゎゎ、綺麗なお花……!」
ルリは目を輝かせ、馬車から身を乗り出すようにして熱心にその花々を観察している。
ついに目的地を目視したことで、それまで張り詰めていた商隊の緊張感は一気にほぐれていった。
各馬車からは、自然と賑やかなお喋りの声が漏れ聞こえ始める。
ペドロもまた、ゆっくりと進む隊列を振り返り、安堵からその表情を和らげていた。
都の姿を捉えたとはいえ、馬車の速度ではここからさらに丸一日の行程が残されている。
それでも、終わり見えぬ旅路のゴールは、確実にすぐそこまで迫っていた。
馬車が揺れる中、御者はどうしても気になっていた疑問をルリへとぶつけてみた。
「なぁ、ルリちゃん。もしかして……辛いものとか、刺激の強い食べ物が大得意だったりするかい?」
御者が不思議がるのも無理はなかった。
今朝、商隊の男たち全員の舌を容赦なく麻痺させた“あの恐怖のお粥”を、ルリだけは「美味しい!」と何食わぬ顔で平然と完食していたのだ。
ルリは御者の方を振り返ると、小首を傾げてあっけらかんと答えた。
「辛いものですか? はい、私は全然平気ですよ! 小さい頃から、毎日のようにアヒピカンテを食べて育ちましたから」
「アッ……アヒピカンテだって!?」
御者の顔色が一瞬で変わった。
「おいおい、冗談だろ……」
「?」
「あれは酒場の罰ゲームに使われるやつだぞ」
御者は思わず裏返った声を上げ、手綱を握る手にブルリと戦慄が走った。
驚愕する御者をよそに、ルリは懐かしむように目を細めて言葉を続けた。
「はい! 死んだおじいさんが、毎日アヒピカンテを食べていれば、生涯風邪を引くことはないって、ずっと言っていたので」
ペドロたちの舌がなぜ平気でなかったのか。
そして、なぜルリだけが平然としていたのか。
その答えを知った御者は、静かに空を見上げた。
ルリの衝撃的な告白を聞いた御者は、それからしばらくの間、完全に黙り込んでしまった。
ただゴトゴトと車輪が軋む音だけが静かに響き、その単調な響きが、かえって周囲ののどかな風景と調和して穏やかな時間を演出していた。
しかし、その静寂は不意に破られる。
前方からこちらに向けて、街道を猛烈な勢いで全力疾走してくる一頭の騎馬が現れたのだ。
明らかに様子がおかしい。
異変を察知した隊長のペドロと二人の老剣士は、瞬時に馬の足を速め、商隊の隊列前方へと躍り出た。
近づいてくる馬の背に乗っていたのは、一人の若い女性だった。
彼女はしっかりと手綱を握ることもできず、ただ暴走する馬の首に必死にしがみつき、振り落とされそうになりながら悲鳴を上げている。
「行くぞ!」
ペドロは鋭く叫ぶなり、自らの馬の腹を蹴って加速した。二人の剣士も迷うことなくその後に続く。
猛スピードで迫る女性の馬とすれ違いざま、彼らは鮮やかに馬の向きを反転させ、その左右へと並行に並んだ。
ペドロはあぶみから身を乗り出すようにして腕を伸ばすと、暴れる馬の手綱を強引につかみ取り、力任せに引き絞って押さえつける。
間髪入れずに追いついた剣士の一人も逆側の手綱を掴み、二人がかりで必死に宥めながら、ようやくその暴走馬をその場に停止させた。
暴走馬から降ろされた女性は、地面にへたり込んだ。
「た、助かった……」
肩で息をしながら、彼女は震える指で峠の向こうを指差した。
「お願いです!」
ペドロが眉をひそめる。
「何があった?」
「村が……村が大変なんです!」
女性が肩で息をしながら答える。
「『村が大変』というだけでは、状況がさっぱり分からん。頼むから、一度落ち着いてくれ」
興奮し、息を荒くする女性に対して、ペドロは毅然とした態度で言葉を続けた。
女性は恐怖に身体を震わせながら、途切れ途切れに言葉を絞り出す。
「ま、魔物に……村が襲われているんです……!」
「魔物、だと……?」
ペドロの表情が一気に険しくなる。
護衛の老剣士たちも、その言葉に小さく目を見張った。
「グウグウって不気味な声で唸るんです。本当に、気色の悪い魔物で……!」
「ううむ、それだけでは、どんな種類の魔物なのかまでは判別がつかんな」
ペドロは手綱を握ったまま、険しい顔で考え込んだ。
この先にある村は、彼らがサン・セバスチャンの都へと向かうための、まさに直線の通り道にあたる。
商隊の歩みを止めるわけにはいかない以上、自分たちにとっても決して避けては通れない事態だった。
しかし、百戦錬磨の隊長であるペドロの決断は早かった。
彼はすぐに自らの馬を翻して商隊の隊列へと戻ると、全員に聞こえるような大声で告げた。
「わしと二人の剣士は、これから一足先に、この先の村へ援護に向かう! 残された隊は、決して焦らずにゆっくりと後を追ってくるように!」
言うが早いか、ペドロは二人の老剣士に鋭い目配せを送り、猛烈な勢いで馬を駆り立てて村の方向へと疾走していった。
残された街道には、彼らが巻き上げた激しい土煙だけが取り残される。
その後、先頭の馬車を操る御者が、女性が乗っていた空の馬の手綱を引き、彼女を連れて隊列へと戻ってきた。
御者が女性を馬車へ乗せる。
女性はまだ震えていた。
その隣でルリが水筒を差し出す。
「大丈夫ですか?」
「は、はい……」
女性は震える手で受け取った。
ルリは心配そうに首を傾げる。
「でも、魔物って怖いですね」
「本当に怖いんです!」
女性は必死に頷いた。
「村中が大騒ぎで……」
ルリも真面目な顔で頷く。
「そうですよね」
そして小さく呟く。
「私も蜂には刺されたくないです」
ペドロらが去った後、商隊はゆっくり進み始めた。
ルリも珍しく、手を硬く握りしめていた。
「蜂……来てませんよね……?」
誰にも聞こえない小さな声だった。




