第十五話 月下の強行軍と、恐るべき忘れ物
商隊の面々の動きは、恐るべき迅速さだった。
夜のパラス峠。
商隊は休むことなく山道を進み続けていた。
誰もが無言だった。
馬の荒い息遣い。
車輪の軋む音。
岩を踏む蹄の音。
それだけが闇の中へ響いている。
生き残るための生存本能が彼らを突き動かしている。
すぐさま老剣士の一人が馬に跨って先頭に立ち、馬車は急ごしらえの隊列を組んで、夜のパラス峠へと向けて一斉に走り出した。
空には、皮肉なほど見事な満月が冴え渡っている。
ジャイアントベアに位置を悟られないよう、商隊はすべてのランタンの灯りを消し、ただ冷たい月明かりだけを頼りに闇の中を進んでいった。
まさにバタバタの、文字通りの夜逃げである。
激しく揺れる馬車の座席で、ルリはふと、何かに気づいたように顔をこわばらせた。
「いっ……けない! 忘れて来た!」
どうやら、とんでもない忘れ物をしてしまったらしい。ルリはおそるおそる、必死に手綱を引いている御者へと声をかけた。
「あの……忘れ物しちゃったんですけど……。やっぱり、今から取りに行けないですよね?」
「ルリちゃん、悪いけど今回は諦めなよ! 後ろから何が追ってくるか分かったもんじゃないんだ!」
御者は前方を睨みつけたまま、切羽詰まった声で叫び返す。
ルリはがっくりと肩を落とし、ため息をついた。
「そっか……やっぱ、諦めよう。残念だけど」
そんなルリの様子に、御者は激しい揺れに耐えながら、少し気の毒そうに問いかけた。
「ルリちゃん、そんなに大事な物かい? 命からがら逃げ出してきたんだ、街に着けば大抵のものは買い直せるさ」
「ええ、だって……せっかく森で取ってきた、あの大きな『蜂の巣』なんです。置いてきちゃいました。……あーあ、諦めます」
「な、なんだってッ!?」
御者は御者台から跳び上がらんばかりに驚愕し、危うく手綱を取り落としそうになった。
なぜ自分たちが夕食もそこそこに、夜間の暗闇の中を死に物狂いで突っ走っているのか。
その根本的な原因を、ルリは未だに一ミリも理解していないのだった。
御者は続ける。
「ルリちゃんは、よく刺されなかったね」
「あっ、それなら大丈夫ですよ。私はこう見えても薬草師の孫ですから」
ルリは少しだけ胸を張った。
「死んだおじいさんに、蜂の巣に近づく時はハーブ油を身体に塗りなさいって教わったんです」
「ほぉ……」
「だから、ほら」
ルリは両手を広げて見せる。
「無傷です。蜂はハーブ油の匂いが苦手なんですよ」
「なるほどなぁ」
御者は感心したように頷く。
「知識は財産ってことか」
「はい!」
馬車の車輪が軋む音だけが、静かな月夜に響いていた。
各馬車に乗る商隊の面々は、疲労の色を隠せないまま、揺れに身を任せている。
「もう少しだ。頂上で休憩を取るぞ」
先頭を行くペドロが声を張り上げた。
「この状態で峠を下るのは危険だ。頂上で少し仮眠を取ろう」
出発した直後は、誰もが危機感に突き動かされていた。
だが時間が経つにつれ、追手の気配はない。
張り詰めていた緊張が少しずつ解けると、その隙を狙うように強烈な眠気が襲ってきた。
誰もが限界に近かった。
頂上には、馬車を止めるのに丁度良い広場があった。
「よし、ここで休憩にしよう」
ペドロは周囲を見回した。
二人の老剣士も手分けして辺りを確認する。
幸い、魔物の気配も獣の痕跡も見当たらない。
「朝までここで仮眠しよう」
ペドロは深く息を吐いた。
「『危険』も、ここまではやって来ないだろう」
その言葉に、一同はようやく安堵の表情を浮かべる。
相談の結果、念のため三人で交代しながら見張りを立てることになった。
商人たちは毛布にくるまると、あっという間に寝息を立て始める。
ルリも馬車から毛布を取り出し、地面へ広げた。
「ふわぁ……」
大きな欠伸をひとつ。
そして横になる。
その頭の中にあるのは、ジャイアントベアでもキングミツバチでもない。
(朝ご飯、何にしようかな)
そんなことを考えているうちに、ルリは静かに目を閉じたのだった。
夜を徹した強行軍の末、商隊はなんとか危機を脱したようだった。
風はピタリと止み、あたりは穏やかな朝の光に包まれている。
朝日に照らされる一行は、昨晩の狂乱のような強行軍で疲れ果てたのか、皆まだ深い眠りの中にいた。
それは最後の見張り役を務めていた老剣士も同様で、岩に背を預けたまま、静かに寝息を立てている。
そんな静寂のなか、ルリがパチリと目を覚ました。
「よしっ、みんな疲れてるみたいだし、早起きして美味しい朝食を作っちゃおう!」
ルリは一人で張り切り、寝静まる一同を起こさないよう、そっと馬車から七輪を降ろして火をかける。
しかし、中に入れた練炭にはなかなか火がつかない。
ルリは地面に這いつくばるようにして顔を近づけ、火吹き棒を使って懸命にフーフーと風を送り続けた。
「ふぅ……。やっとついた」
煤で少し顔を汚しながらも、ルリは満足げに笑う。
そして、まずは鍋に水を張り、お米を準備した。
「今朝はみんなの胃に優しい、食べやすいお粥にしようっと」
方針が決まると、ルリは味付けや具材を探すために、再び馬車の荷台の奥をゴソゴソと探り始めた。
すると、奥の方から少ししなびかけた二種類の野菜が見つかる。
「あっ……これ、もうダメになっちゃいそうね。勿体ないから、今朝のうちに全部使っちゃおう!」
ルリは手頃な平らな石を見つけると、それを台にしてまな板を乗せた。
そして、トントントンと小気味よく、リズミカルに野菜を刻んでいく。
細かく刻んだ野菜とお米を一緒に鍋へと投入し、しっかりと蓋を閉める。
あとは七輪の柔らかな熱に任せて、じっくりと炊き上がるのを待つだけだった。
老剣士が目を覚ます。
クンクン。
「……ん?」
再び嗅ぐ。
「おい」
隣を叩く。
「起きろ」
「なんだ……」
「ルリが朝飯を作ってる」
商人が飛び起きる。
「何だと!?」
飛び起きた一行は、一気に目を覚ました。
魔物の奇襲にも匹敵する緊急事態である。
完全に不意を突かれた。
ペドロは真っ先にルリの元へ向かった。
「ルリちゃん、今朝は何を作ってるんだい?」
「お粥ですよ」
ルリは笑顔で答える。
「朝は身体に負担の少ないものがいいかなって」
「そうか……お粥か……」
ペドロは慎重な手つきで鍋の蓋を持ち上げた。
中には白く煮えた米と野菜。
少なくとも見た目は正常。
異臭もしない。
ペドロは大きく息を吐いた。
「よかった……」
「?」
首を傾げるルリを残し、ペドロは静かに持ち場へ戻っていった。
「出来ましたー!」
ルリは笑顔でお粥を配って歩く。
「おっ、美味そうだ」
「久しぶりにまともな朝飯だな」
一行は安心しきった様子で匙を動かした。
そして。
数秒後。
「ぶっ――!」
「ぐあぁぁっ!?」
「み、水! 水をくれぇぇ!!」
一同は一斉にお粥を吐き出した。
舌が焼ける。
口の中が熱い。
喉が痺れる。
ペドロは涙目のままルリの元へ駆け寄った。
「ルリちゃん! この野菜は何だ!?」
「あっ、それですか?」
ルリは鍋を覗き込む。
「何でしょう?」
「何でしょうじゃない!!」
「少ししなびてたから安かったんです」
老剣士の1人が来た。
「それはドラゴンズ・ブレスだ」
「知ってるの?」
「知るも何も、激辛料理に一欠片使うだけで鍋一杯が真っ赤になる」
「そんな危険な野菜だったんですか?」
「普通の野菜じゃない!」
「美味しいですよ?」
もぐもぐ。
「身体が温まります」
もぐもぐ。
「峠の朝には丁度いいですね」
もぐもぐ。
ペドロたちは涙と鼻水を流しながらルリを見つめた。




