第十ニ話 薫風の洗礼と見えない影
「よし、それじゃあ今日仕入れた『クサヤ』とやらを、さっそく焼いてみようかな!」
ルリは荷台の奥から、厳重に紙に包まれた包みを取り出した。
安くて日持ちがして、おまけに店主が「やみつきになる」と太鼓判を押した食材だ。
男たちの胃袋を掴むにはこれ以上ない逸品に違いないと、彼女の胸は期待に膨らんでいた。
パチパチと心地よい音を立てて燃える焚き火の上に、ルリは手際よく網を渡す。
そして、包みを開けて独特の褐色をした干魚を並べた。
「どんな味か楽しみだなぁ」
ルリが火の通り具合を覗き込もうとした、その時だった。
じわじわと熱せられたクサヤから、一筋の白い煙が立ち上る。
次の瞬間、野営地に、かつてない衝撃的な「異臭」が爆発的に広がった。
「――ッ!!?」
ルリは思わず息を詰まらせ、その場にへたり込んだ。
鼻腔を突き抜けたのは、生ゴミと発酵臭を煮詰めて凝縮したような、強烈極まりない匂い。
涙がボロボロと溢れ、激しく咳き込む。
「な、何これ!? 腐ってるの!? うそ、お店の人は天下一品って……!」
パニックになるルリを余所に、夜風に乗った匂いは瞬く間に野営地全体へと拡散していった。
「うおっ!? なんだこの世の終わりみたいな臭いは! 敵襲か! 毒ガスか!」
「目が、目が開けられん……! 誰だ、肥溜めをひっくり返したのは!」
見張りの準備をしていた年老いた二人の護衛剣士が、またたく間に顔を青くして愛剣を投げ出し、草むらに突っ込んで悶絶し始めた。
馬車の影で帳簿をつけていた三人の商人たちにいたっては、逃げる間もなくその場に崩れ落ち、ハンカチで鼻と口をガッチリと押さえて芋虫のように震えている。
「ル、ルリィ……! お前、一体何を焼いているんだ……!」
隊長のペドロが、涙目で鼻を完全にひねり潰しながら、這うような足取りでルリに近づいてきた。
その顔は恐怖に引き攣っている。
「ご、ごめんなさい! 朝市で買った『クサヤ』っていう干物なんです! 決して毒を盛ろうとしたわけじゃ……!」
ルリは泣きながら平謝りし、慌てて網の上のクサヤを火から下ろそうとした。
しかし、その時である。
「……おい、静かにしろ」
それまで地面にのたうち回っていたベテラン剣士の一人が、涙で真っ赤になった目を急に鋭く光らせ、地面に耳を当てた。
その言葉に、ペドロも、鼻を押さえたままの商人たちもピタリと動きを止める。
「馬の足音だ。複数……いや、十数頭はいる。この野営地に向かって、かなりの速度で突っ込んできているぞ」
「なんだと……!? 盗賊か!」
ペドロが腰の剣を抜く。
しかし、全員がクサヤの猛烈な悪臭に体力を削られ、立っているのもやっとの状態だった。
息を吸うたびに、肺が強烈な臭気で拒絶反応を起こす。
街道の闇の向こうから、松明の明かりがいくつか見え隠れし、確かに激しい馬蹄の音が近づいてくるのが分かった。
不運なことに、このあたりを縄張りにする本格的な盗賊団の夜襲だった。
「ひ、ひぃぃ! 助けてくれ!」
商人たちが荷馬車の影に隠れようと縮こまる。
ルリは恐怖で身をすくませながらも、まだ煙を上げ続けているクサヤの乗った網を、必死に両手で掲げ持っていた。
あまりの臭さに頭がクラクラするが、これを今放り出せば、さらに事態が悪化するような気がしたのだ。
「しっかり焼かないと……」
馬蹄の音はいよいよ大きくなり、野営地のすぐ手前まで迫る。
――そして。
剣士が盗賊と激しい剣戟を交えているその裏で、ルリは必死に火床と格闘していた。
背後から金属のぶつかり合う轟音や怒号が響いてくるが、今の彼女の脳裏には「一刻も早く料理の準備を整える」ということしか頭にない。
ある意味、ルリもまた目の前の現実と命がけの戦いを繰り広げていた。
「……んぐっ、ふぅーっ!」
竹筒に渾身の息を吹き込む。
次の瞬間、パッと小さな火種が薪に燃え移った。
と同時に、勢いよく舞い上がった煙が彼女の顔を直撃する。
「げほっ、げぽっ……!」
ルリは慌てて息を止め、涙目で煙を払った。
袖で額の汗をぬぐい、ようやく一息ついて後ろを振り返る。
しかし、そこに広がっていたのは予想だにしない光景だった。
「えっ!? 誰!?」
剣を振り回している人たちがいる。
「あれ、なんか押されてる!?」
ルリが驚愕したその瞬間、川上から一陣の強い風が吹き抜けた。
風はルリの火床から立ち上る煙を巻き込み、一直線に盗賊たちの方へと送り込む。
「う、うぷっ……!? 何だこの煙は……!」
「げほっ、ごほっ! 目が、目が痛ぇ……っ!」
煙をまともに吸い込んだ盗賊たちが、一斉に咳き込み、顔を歪め、その場にへたり込んで嗚咽を漏らし始めた。
「ガハッ! ゴホッ、ゴホッ! な、なんだあぁぁ、この臭いはぁぁっ!」
予期せぬ奇襲に、盗賊の頭領が顔を歪めて叫ぶ。
「くそっ、奴らに何か秘策がありそうだ……! 罠にはまったぞ、一旦引くぞ!」
その号令とともに、満身創痍の盗賊たちは涙を流しながら一目散に撤退していった。
静まり返る河原。
嵐の去った跡で、ルリは両手に菜箸をがっしりと、まだ握りしめている。
「こっち来るな、こっち来るな」
両眼を閉じ、盲滅法に菜箸を振り回す。
あまりの異臭に、彼らが乗ってきた馬たちまでもが狂ったように嘶き、蜘蛛の子を散らすように闇の向こうへと逃げ去っていく。
「お、おい……嘘だろ……」
剣を構えていたペドロが、呆然とシロモノを見つめる。
そこには、ただ干物を焼いていただけの少女と、その強烈な匂いだけで全滅しかけている凶悪な盗賊団の姿があった。
こうして、商隊の最初の危機は、呆気なく去っていったのだった。
「みなさーん、ご飯の準備できましたよー!」
盗賊たちは逃走済み。
剣士たちは涙目。
「いや、お前がやったんだよ……」
「えっ、お魚焼けました」
ルリは干物を乗せた皿を出した。
翌朝。
野営地には、未だにそこはかとなく奇妙な残り香が漂っていたが、空気は幾分かマシになっていた。
一番後ろの荷馬車の御者台。
ルリは、昨夜の騒動を思い出して、小さくため息をついた。
「はぁ……まさか、あんな匂いだなんて思わなかったなぁ……」
手元に残った、厳重に包み直されたクサヤの包みを見つめる。
すると、隣で手綱を握る御者が、苦笑いを浮かべながら声をかけてきた。
「まあ、気にするなよ、ルリちゃん。おかげで俺たちは傷一つ負わずに済んだんだ。ある意味、最高の護衛兵器だったさ」
「護衛兵器だなんて……私は美味しいご飯を作りたかっただけなのに」
ルリは頬を膨らませた。
だが、その時、ふと奇妙な感覚が彼女の背筋を駆け抜けた。
(……あれ?)
馬車の揺れに身を任せながら、ルリは何気なく周囲の景色に目をやった。
街道の脇には、青々とした美しい森がどこまでも続いている。
太陽の光が木々の隙間から差し込み、絶好の旅日和のはずだった。
しかし、やはり何かがおかしかった。
昨日の出発の時からずっとだ。
これほど豊かな自然に囲まれているというのに、森の奥からは、鳥のさえずり一つ聞こえてこない。
風に揺れる葉の音だけが、不自然なほど静かに響いている。
(気のせい……なのかな?)
ルリは小さく首を傾げた。
クサヤの匂いに驚いて、周囲の生き物が逃げ出してしまっただけだろうか。
それなら良いのだが、何かがこの森の奥に潜んでいるような、そんな言葉にできない違和感が、彼女の胸の内に小さな澱のように残った。
「ルリちゃん、どうした? 街が見えてきたぞ!」
御者の弾んだ声に、ルリはハッと我に返った。
前方に目を向けると、街道の先には、次の目的地である中継都市の立派な城壁が見え始めていた。
「あ、本当ですね! よーし、次こそはみんなが喜んでくれる、普通に美味しい料理を作るぞ!」
ルリは胸の違和感を振り払うように拳を握りしめ、再び元気な笑顔を取り戻した。
しかし、彼女を乗せた馬車が通り過ぎた後、静まり返った森の奥で、微かに何かが蠢く気配があったことを、まだ誰も知る由はなかった。




