第23話
昨日から考えていたことが、頭の中でゆっくりと繋がっていく。
執務室の中央には大きな机が置かれ、その上には数枚の地図が広げられていた。
乾いた風で捲れないよう、端には金属の重しが置かれている。
地図の傍には、それぞれの杯。
そして机の端には、水差しが一つ置かれていた。
白い布が巻かれたその表面は、ところどころ色が濃くなっている。
湿っているのだと気付くまで、少し時間が掛かった。
近くへ寄れば、乾いた空気の中に僅かな冷気が混じる。
「……この布って、水を冷たくするためですよね」
気付けば、そんな言葉が口から出ていた。
後ろで控えていたリゼが、小さく目を瞬かせる。
「はい。完全ではありませんが、水差しへ巻いておくと多少は温くなりにくくなります」
私は水差しを見る。
布の端から、小さな雫がひとつ落ちた。
昔、テレビか何かで見たことがある。
水が蒸発する時に熱を奪う、とか。
詳しい理屈までは覚えていない。
「春乃の世界にも、似たようなものがあるのか?」
机を挟んだ向こう側で、レオルドがこちらを見る。
「んー……もっと便利でしたけど」
「便利?」
「冷蔵庫とか」
レオルドとフェルドが同時に黙る。
私は小さく肩を竦めた。
「食べ物とか水を冷たいまま保存する箱、みたいなものです」
「……それは、奇跡ではないのか?」
「向こうだと普通でしたね」
「普通、か……」
フェルドが静かに息を吐く。
私は思わず苦笑した。
仕事帰り、コンビニで買った冷たいお茶。
夏の夜、部屋で飲んだ安い炭酸水。
そんなもの、日本では当たり前だった。
でも、この世界では違う。
少し水を冷たく保つだけでも、工夫が必要になる。
机の上、自分の前へ置かれた杯に手を伸ばす。
透明な水面が、窓から差し込む光を静かに揺らしていた。
「……」
私はそのまま、じっと水を見つめる。
冷たい水。
冷えた器。
そんなことを考えた瞬間だった。
指先へ伝わる温度が、ほんの少しだけ変わる。
「……あ」
思わず声が漏れる。
触れていた杯が、さっきより少し冷たい。
気のせいかと思い、もう一度触れる。
やっぱり、冷えている気がした。
「春乃?」
レオルドの声に、私ははっと顔を上げた。
「あ、すみません」
慌てて手を離す。
鼓動が少し速い。
ただ、水を見ていただけだった。
冷たい水を想像しただけで。
「体調がすぐれないか?」
「いえ、そういうのじゃなくて……」
私は言葉を濁し、再び杯を見る。
自分でも、何が起きたのかわかってはいない。
原理なんてわからない、でも確信はある。
「……少し、冷たくなった気がして」
「冷たく?」
レオルドが眉を寄せる。
フェルドは静かにこちらの杯へ手を伸ばした。
「失礼します」
「あ、はい」
フェルドが杯へ触れる。
その後、僅かに目を細めた。
「……確かに。先ほどより冷えておりますね」
「布の影響ではないのか?」
「この短時間では考えにくいかと」
部屋へ静けさが落ちる。
窓の外から吹き込む風だけが、静かに布を揺らしていた。
私は落ち着かなくなり、小さく肩を縮める。
「で、でも、本当に偶然かもしれません」
「でしょうね」
フェルドはあっさり頷いた。
否定も断定もしない声音だった。
「我々も、まだ何も分かっておりません」
その言葉に、少しだけ呼吸が楽になる。
フェルドは机の上の地図へ視線を落としたまま続けた。
「ですが、もし意図して再現できるのであれば」
細い指先が、水差しの方へ向く。
「暑さで傷みやすい薬草や食料の保存に、役立つかもしれません」
「……でも、私、仕組みとか全然知らないですよ」
「理屈は後からでも構いません」
フェルドは静かな声で言った。
「実際に起きているのであれば、それだけで十分価値があります」
レオルドも小さく頷く。
「無理に答えを出す必要はない」
「……」
「まずは確かめればいい。少しずつな」
私は小さく息を吐いた。
帰れるのかも分からない。
自分に何が出来るのかも分からない。
不安はまだ消えない。
それでも。
何も出来ないと思っていた自分に、ほんの少しだけ違う可能性が見えた気がした。
窓の外では、乾いた風が静かに塔の隙間を抜けていく。
その音を聞きながら、私はもう一度だけ、机の上の水差しへ視線を向けていた。




