第九話
海を越え、北西の地へ向かうのは九年ぶりだった。新都から九頭へ延びる黒い鉄道は、あの時と変わらぬ速さで平原を走っている。帝国の地となった車窓はかつて地平線まで雪に閉ざされていた記憶が疑わしくなるほど、一面の高粱に覆われていた。
車輪の細かな振動が座席を伝い右の足裏まで降りていく。
左だけは、膝の下で途切れた。
その空白へ九年前の冬が戻ってくる。
アイリーン。
私はその名を呑み込んだまま目を閉じた。
♢
カフェの窓ガラスは内側にうっすらと曇りを残していた。指で拭った円い隙間から、午後の中央大街通が切り取られる。
毛皮の襟を立てたレスイ系の婦人がマフに手を埋めて足早に過ぎていく。白い肌に高い鼻梁、毛皮帽の下から灰金色の髪が覗いている。外套は陽の当たる側だけ毛並みが光り、裾の縫い直した跡が歩くたびにわずかに引き攣れた。その後ろから、長衫を着た華神の商人が裾を風になぶらせて歩いてくる。布靴は雪解けの泥を器用に避けていた。
二人がすれ違う。毛皮と長衣は触れもせずに行き違っていく。そこへ、背広に山高帽の若い男とコートをまとった若い女が腕を組んで間を横切った。
色も、丈も、歩調も違うまま、一つの通りを満たしている。誰も互いを見ていない。それぞれの帰る場所へ向かってただ通り過ぎていくだけだ。
九頭地区が帝国へ譲り渡されてもう二年あまりになる。それでもレスイの匂いは想像していたよりずっと深く、石畳に染みついて剥がれない。窓の向こうには大聖堂が覗き、方形の敷石を敷いた回廊の両側に、商館も、銀行も、ホテルも並んでいる。私が今こうして座っているカフェにもレスイ語が飛び交っていた。
新しい地を踏むのは嫌いではない。だが、休暇中にわざわざ.....
私は匙に盛られた紫色のジャムを舌に含みそれから濃い紅茶を流し込んだ。
「ここの店のメドヴィク、格別なんですよ」
流暢なレスイ語が自分に向けられていると気づいた時には、若い女はもう対面の椅子に腰かけ、ウェイターを呼んでメドヴィクを二つと紅茶を一つ注文していた。その立ち振る舞いは、昨夜、劇場で見た舞台女優のようだった。
「アイリーン・サイベルです」
今度は聞き慣れた言語で名を名乗り、両手を差し出した。
私はテーブルの下に手を下げたまま 彼女の美しい顔立ちと栗色のまっすぐ肩まで伸びた髪を見ていた。
「どなたかと間違っていませんか」
「『小瓶』をたどらせていただきました」
そう言って、アイリーンは右手で小瓶をつまむような仕草をし、私の問いに答える代わりに、通じている者にしかわからない単語を口にした。
「魔力痕を残していたつもりはないけれど」
しらを切るのをあきらめた私は右手で紅茶をすすりながら、黒に染めた自分の髪を窓の映りで確かめた。
「こう見えても私、鼻が利くんですよ。スクールでも一番だって言われるんです」
そのあと、アイリーンは顔を近づけた。
「ヘルザ殿。そろそろ、その左手の短筒を下げてもらえませんか」
ウェイターが彼女の横に立った。銀のお盆にのせた飴色と白色が幾層にも重なるケーキを私の前に置き、アイリーンにも一皿、紫色のジャムを添えた紅茶を加えて置いた。
ウェイターは軽く一礼して去る。
アイリーンは嬉しそうに匙を取り、メドヴィクの先端を削って口に運んだ。
「鼻はいいみたいだけど、自分の匂いを消すのは苦手みたいね」
そう言って、私は左手を膝から離し卓上へ出した。親指だけを折り髪を耳にかける。
アイリーンの手が止まった。
「大丈夫ですよ。彼らは新生レスイ派です。帝国には手を出しません」
「公にはね」
そう付け加えて、私もひと匙を口に運んだ。
「とはいえ、このままつけられるのも厄介ね。そちらの四時に二人。どうしようかしら、ノームスクール出の魔術師さん」
東征軍め。
『会』は現地の通達。よりによってノームスクール出とは。
私は仕返しのつもりで、わざと意地悪く左斜め奥の席にいる二人組の男へ向けて匙の先をくるくると回した。それから円を描いていた先端をぴたりと止め、今度はまっすぐアイリーンへ向けた。
アイリーンは少しも慌てなかった。再び、薄い生地に挟まれたクリームと蜂蜜の層を口へ運び顎に手を当てて首を傾げる。
「うーん」
今さらながら、私はその仕草が嫌いなのだと知った。発見というより苛立ちがひとつ形を得たのだった。
「公衆の面前で術式を使うことが禁じられているくらい、承知しているわよね」
小声のつもりだった。だが、どうだっただろう。
完全にこの女の間合いに飲まれている。
アイリーンは相変わらず笑顔のまま応えた。
「怖い顔をしないでください、ヘルザ殿。さすがの私も、そのくらいはわきまえていますよ」
それから少しだけ声を落とす。
「それに……対人の術式は、からっきしでして」
そう言って、今度は紫色のジャムには手をつけず、紅茶だけをすすった。
三十分ほど経っただろうか。
アイリーンはよくしゃべった。ボルシチを作れるようになった話。華神系の料理なら、鍋包肉という、豚肉を揚げて甘酢餡をからめたものがおすすめだという話。それから、この街では昼からウォッカをあおって道端で寝ている男がいても少しも珍しくないという話。
諜報とはほど遠い話ばかりだった。それが私をことさらに混乱させた。
二人組の卓には黒糖色の飲み物を入れたグラスが飲みかけのまま残っていた。私たちのケーキ皿はどちらも空になっている。
「私、ジャムだけを最後に舐めるのが好きなんですよ」
そう言って、アイリーンはいたずらっぽく笑い、紫色のジャムをのせた匙を口に含んだ。
それからようやく、肩越しに二人組の方を見る。
すっと立ち上がった。
「さあ、そろそろ行きましょう、ヘルザ殿」
アイリーンは伝票を取り、何事もなかったように勘定台の方へ歩いていった。
店を出ると、案の定、二人組がついてくる気配がした。当然だ。彼女は食べ物の話しかしていない。
私が訝しげな顔をしていたのだろう。アイリーンは私の右腕を取り、自然に腕を組んだ。
「大丈夫ですよ。もうすぐ追いつけなくなりますから」
そう言って、顔を近づける。
私はその澄んだ瞳から目を逸らすのに、一拍を要した。
「子どもの頃、食べられるか、腐っているか、いつもそんなことばかり考えて生きてきたんです」
私の腕を取ったままアイリーンは何でもないことのように言った。
「だから、腐るのを遅らせる術式はないものかって悩んでいたら、逆に腐らせる方ができるようになって……」
彼女の羽織の毛羽立った袖が手首に触れる。背後の気配はまだ消えていない。二人分。片方は靴底が硬く、もう片方は少し踵を引きずっている。
「アルコール発酵?」
いつ仕掛けたのか。あの卓で、私は一度も魔力の揺れを拾えなかった。
硬い靴底の方が一歩遅れた。踵を引きずる方がそれにぶつかり、低く何かを言う。二人の声は風に削られて聞き取れなかったが、片方が笑ったのだけはわかった。妙に大きな笑いだった。
「道端で寝ている男がいても、少しも珍しくないでしょう」
そう言って、アイリーンは急に立ち止まり、中央大街通を行き交う人々をゆっくりと目で追った。
「腐敗も発酵も、同じ変化です。それなのに、有益か有害かは、人の価値観だけで決まってしまう」
絡められた腕に少し力がこもった気がした。アイリーンは私の顔を見て、綺麗な歯を見せると再び歩き出した。腕は相変わらず取られたままで、私もそれに合わせるしかなかった。
「ヘルザ殿なら、あの場をどう切り抜けます?」
私は大通りを外れ、小筋へ引っ張られた。
「私なら、手洗いの窓から出ていくだけだ」
「えー。魔術師らしからぬ行動」
アイリーンは大袈裟に右手を口元へ当てた。
見渡せば、縦に長い看板が漆を塗った板に金や朱の文字を彫り込まれ軒から軒へと突き出している。慣れない文字の連なりが頭上で林のように交差していた。その下には赤い灯籠がいくつも吊られ、まだ昼だというのにほのかな赤を地面に落としている。
「建物の出入りを把握するのは、基本でしょ。人に対してではないとはいえ、無闇に術式を使うものではないわ」
アイリーンは「勉強になります」と、また大袈裟に首を上下させた。いや、彼女にとっては大袈裟ではないのかもしれない。
「だが、あの席で私にも悟られず術式をかけられる能力がありながら、なぜあの程度の者につけられる?」
気になっていたことを、思い切って聞いた。この女はまだ信用できない。
この筋の匂いは濃かった。
油で揚げる匂い。蒸籠から噴き上がる小麦の匂い。嗅いだことのない香辛料の甘く重い香り。それらが土埃と、どこかで焚かれる線香の煙に混ざってひとつの分厚い空気になっている。
その問いを聞いた途端、アイリーンはふいに腕をほどき私の方を見た。
私は反射的に身構えた。
華神の通りに入った時点で警戒はしていた。あっさり尾を出したか——そう思った刹那、アイリーンは両手を合わせて軽く腰を折った。
「ヘルザ殿、しばしお待ちを」
言うやいなや、私を追い越し右手の露店へ駆けていった。
正面に板切れが一枚、紐で吊られている。墨で「包子舗」と三文字。雨に流れたのか、最後の一画が滲んで尾を引いていた。四本の竹を組んだだけの骨に煤けた布を屋根代わりに張り、その下で湯気がもうもうと立ち上っている。台の上には蒸籠が高く積み上げられていた。
アイリーンは台の前に立つと、老婆に向かって早口で何か言った。聞き慣れない、巻き上がるような抑揚——まぎれもなく華神の言葉だった。老婆が皺だらけの顔をほころばせて返すと、アイリーンも声を立てて笑った。
私は呆然と、湯気の前に立つ彼女が紙袋いっぱいの包子を抱えて戻ってくるのを眺めていた。
「お待たせしました。行きましょう」
紙袋を胸に抱えた女は私の左手を掴み、手を引くようにして脇道へ入っていった。歩くたびに蒸された小麦のぼってりと重い甘さと脂の香りが押し寄せる。
今度は私が足を止め、彼女を止めた。
「どうかしましたか、ヘルザ殿。ああ、欲しいならそう言ってくださいよ」
アイリーンは子どもでもあやすような声で、油の染みた紙袋に手を入れた。
「私には、毒に変じた肉饅頭でも食べさせるつもりか」
半分は本気だった。言った自分の鼓動がかすかに高くなる。けれど彼女は、またまた、と笑って手を振った。
「怖い顔をして。そんなことしませんよ」
それから、相変わらず何でもないことのように言った。
「それに、糖性毒に即効性はありませんから」
脇道の奥から、「ジェジェ!」と複数の子どもが叫ぶ声がした。アイリーンはその声に応えて、「おーい」と叫び返す。
十二歳前後の華神の男の子が二人、アイリーンの方へ駆け寄ってきた。布靴の大きさが合っていないのか、ぱたぱたと音が狭い路地に響いた。
「今日は包子をいっぱい買ってきましたよ」
「やった! ジェジェ、ありがとう」
「俺にも。俺にも」
そう言って、アイリーンは子どもたちに包子を配った。
驚いたことに、色褪せた藍木綿の服を着たこの子どもたちは帝国の言葉で彼女と話していた。
目を丸くしている私の方を見て、アイリーンは二人に「この方は、私のお友達」と紹介した。それから私には、「坊主頭がイーサン、おかっぱがウロです」と、ずいぶん雑な説明をした。
「ジェジェの新しい友達か。へえ」
坊主頭のイーサンが包子を頬張りながら、私の顔を珍しそうに見た。おかっぱのウロは、もう一つ包子をねだっている。
そのやりとりの奥で、彼らより少し幼い女の子が壁の隅からこちらを見ていることに気づいた。
「あの子は?」
私はこの子たちと同じ藍木綿の当て布の目立つ服を着たおさげ髪の少女を指した。
「ああ、あれはマリ。あいつ、帝国の言葉を使えないんだ」
そう言って、イーサンはまた紙袋から包子を取り出した。
「ライライライ」
アイリーンはマリに向かって、大袈裟に手を振った。マリは嬉しそうにこちらへ駆け寄り、手渡された包子をすぐに口へ運んだ。
「ジェジェ、また手品やってよ」
イーサンがアイリーンの袖を引っ張りながらせがんだ。
手品?
私は呆れた顔で彼女を見た。彼女はすぐに私の視線から逃げるように子どもたちの方を向いた。
「一回だけですよ。今日は何にしようかな」
そう言って、アイリーンは辺りを見渡し、三フィートほどの捨てられた薄板を見つけると、その上に乗った。
「さあ、さあ、種も仕掛けもありません」
【空よ、わが足を忘れたまえ。地よ、しばし、その手を放したまえ】
詠唱を終えると、アイリーンは板ごと膝丈ほどの高さまでふわりと浮いた。
三人は包子を食べるのも忘れて、板の上に浮かぶ女に釘付けになっていた。背中だけでそれがわかった。
最高位の一つとされる浮遊術式を、こんな路地裏で手品などと。
匂いを消すどころか。どこまでも食えない女だ。まだ癒えきらぬ腹の古傷に沿って爪を立てられたような小さな痛みが走った。
「行くわよ。魔力を垂れ流していれば、またつけられる」
私はなるべく平坦な声を繕いその場を去ろうとした。するとアイリーンは、「はいはい、ただいま。ただいま」と坊主頭たちに手を振りながら私を追ってきた。
「随分と小さな工作員ね。箒部隊でも編成するき?」
いつまでも手を振る華神の子どもたちを尻目に、私は鼻で笑った。
すると、アイリーンは吹き出しそうな顔で笑った。
「箒にまたがって飛ぶなんて、異国の昔話みたいなことを。ヘルザ殿、意外と冗談がお上手で」
そう言って、彼女は私の肩を軽く叩いた。
彼女は私の表情も意図も解さないどころか、いつの間にか主導を握っている。
「今はこの辺で『屋根』を借りているんですよ。うろついていたら、あの子たちに言葉を教えあう仲になりまして——」
「だが、施しをしたところで何かが変わるわけではない。余計な行動は謹んでもらいたい」
私は遮るように、この世界では当然の理を冷たく言い放った。
「でも、今日のあの子たちは笑顔でしたよ」
小さな声で答えたアイリーンの目が、思いのほか曇った。
私はそれ以上何も言わなかった。




