第八話
列車の進行方向に背を向けて、淡い色のワンピースを着た少女が三人並んでいる。通路側から、ミーナ、ハンナ、そして移りゆく景色を珍しそうに眺めるヨル。私の横には「汽車なんかに乗らなくても魔法で移動できないの」と、しきりに袖を引くラッシュが座っている。
「あの夜以来、ラッシュはすっかりヘルザ先生のことが好きになったみたいで」
ハンナが少し申し訳なさそうに言い添えた。
ここでも私は先生らしい。
斜め向かいの老人が広げる新聞の見出しに目が留まる。
『レスイ連邦 西側共和国軍を撃退 九頭方面へ転用の模様』
窓の外を流れる麦畑の匂いが開いた隙間から細く忍び込んでくる。私は売り子を呼び、焼き菓子を子どもたちに買い与えた。焼き菓子を頬張るラッシュの旋毛がすぐ下で揺れている。
「ヘルザ、海に連れてって」
ミーナが突然言い出したのは、まだ朝食の皿が片づかないうちだった。
「海?」
私は匙を置いた。
「海水浴。約束したでしょう」
確かに海がどういうものかと聞かれて教えた覚えはある。けれど、約束した覚えはなかった。
「ヨルと、ハンナと、あとラッシュも一緒に」
「今から? あなたの友達も?」
「うん。今から。早く用意しましょう」
まだ寝間着のまま髪も梳かしていないというのに、ミーナはさも当然のことのように言った。
お母様に助けを求めても無駄だろう。現にお母様は「海水浴なんて、よろしいじゃありませんか」と、私ではなくミーナを見ながら皿を重ねている。
ミーナの少し勝ち誇った顔が、たいそう憎たらしい。
断る理由をいくつか思い浮かべた。日が強いこと。汽車が混むこと。海の近くは風が荒いこと。魔法の稽古が途中であること。けれど、そのどれも口に出すと自分の方が子どもじみて聞こえる気がした。
そもそも私自身、海はともかく海水浴というものをよく知らない。
「わかりました。早く用意なさい」
「では、先生。よろしくお願いいたします」
ミーナはすぐに椅子から立ち上がり部屋を出ていった。と思うと、再び顔を覗かせた。
「ヨルもハンナも海水浴は初めてだから、私のお洋服を貸してあげてもいいかしら」
そういうことを今さら言う。
「勝手になさい」
私は右手で追い払うように振った。こんな時だけ、先生扱いである。
「見て、見て。大きな川」
ラッシュは私の右腕を何度も叩いた。車窓を埋めていた緑が途切れ、その向こうに陽を返す濃い青がにひらけた。向かいの三人は窓辺に頭を並べ、誰ひとり目を離さなかった。私はラッシュの耳もとへ顔を近づけ、あれが海なのだと教えた。硝子に人差し指を当て、どこまでも途切れない水平線をゆっくりとなぞる。ラッシュは指先を追ったまま、しばらく瞬きもしなかった。
線路が浜へ寄るほど松と屋根が立ち上がり、あれほど広がっていた青は緑の隙間で細く残り、幾つにも千切れて、やがて消えた。
「海、なくなった」
ラッシュは恨めしそうな目でこちらを見た。心外だと言わんばかりに私は眉を上げ、「私の仕業ではありません、景色に隠れているだけです」と答えた。気がつけば、ミーナが唇の端をわずかに上げて私たちを眺めていた。
汽笛が短く鳴った。車内を細かく刻んでいた揺れが次第にゆるみ、身体が進行方向へわずかに傾く。四人の腰が一斉に座席から浮いた。
「まだ、止まっていませんよ」
四人は渋々と腰を下ろした。けれど戻ったのは体だけで、顔はもう揃って扉の方を向いていた。
停車すると、ミーナはヨルの鞄まで抱えて先頭に立ち、そのくせ自分の帽子を座席に忘れていた。私は黙って拾い、すれ違いざまに頭へ載せた。ミーナは礼の代わりにつばの角度だけを直した。ラッシュはとうに扉の前まで行きハンナに襟首を掴まれている。私が離さないよう視線で示すと、ハンナは深く頷いた。
駅舎と松の梢に遮られて青いものは何も見えない。ただ、潮気を含んだ風だけが海の気配を運んでくる。
「海の匂いがする」
ラッシュは鼻を上へ向け、得意げに姉を見た。
「知らないでしょう。海の匂いなんて」
「でも、海の匂いだと思う」
ハンナは呆れたように肩をすくめたが、今度は私も訂正しなかった。ミーナとヨルもつられるように鼻を上げ風を吸い込んだ。
小さな駅前は同じ汽車から吐き出された客で溢れ、浮き輪を抱えた家族が通りを塞いでは崩れた。ミーナは案内役の顔で人波の先へ進む。この子が道を知っているはずもなく、人の流れに乗っているだけだ。けれど胸を張って乗っている。私は呼び止める声を引っ込め、後ろに下がった。四人は、道の脇の氷の一字を染め抜いた旗や荷車の西瓜の山を見るたびに足を緩め、何か言い合っては笑い、また歩調を速めた。
駅前を抜けると松林を縫う砂の道になった。左の踵が砂を噛み、一歩ごとに、普段は使わない場所へ重みが逃げた。ラッシュが駆け、ハンナが追い、ヨルまで早足になる。子どもたちとの間が砂の分だけ開いていく。ふと振り返ると、来た道に深さの揃わない私の足跡が、右、左、右と正直に並んでいた。
ミーナだけが歩調を落とした。
「先に行って構いませんよ」
「道がわからないだけ」
こちらを見もせずに言い、私の半歩前を歩いた。砂の上には、この子の足跡がいつもより間隔を詰めて刻まれていく。私はその歩幅の意味を知っていた。
松林が切れ、砂浜と海が一度に現れた。車窓に納まった一枚の青ではない。視線をどこまで送っても尽きず何ひとつその広さを隠すものがない。人の声も鳥の声もそこへ吸われて遠くなった。
茶屋で着替えを済ませると、ラッシュが真っ先に走り出した。ハンナが名を呼んで追い、ヨルも駆け出す。ミーナは振り返ってこちらを見る。私が手を振ると、すぐに前を向いた。四人は競うように、同じ青へ駆けていった。
最初の波に触れたラッシュは、悲鳴とも歓声ともつかない声を上げて飛び退いた。ハンナは笑いながらその背を押し、今度は自分が波に追われて逃げる。ヨルは膝まで海へ入り、足もとを流れていく貝殻を飽きもせず追っていた。ミーナは誰より遅く波へ踏み込み、水着の裾を気にしながらも、最後には四人の中で一番大きな声で笑っていた。
海から上がると、五人で茶屋の板敷へ並んだ。削った氷に赤い蜜をかけた椀が運ばれると、ラッシュは匙を置く間も惜しむように口へ運びすぐに額を押さえた。
「先生、先生。魔法で氷出せる? 僕の家に毎日来て、これ出してよ」
赤い蜜の下で、細かな氷が陽を砕いていた。
「……氷は出せても、蜜は出せません」
「じゃあ、蜜はハンナに作ってもらう」
「どうして私なの」
ハンナが呆れ、ミーナが笑った。ヨルは返事もせず、椀の底に残った赤い水を匙で集めていた。私もようやく匙を取り、崩れかけた氷をひとすくいした。
ヨルは椀を脇へ置くと、膝の上に載せていた貝殻を一つずつ板敷へ並べはじめた。白いもの、飴色のもの、角の丸くなったもの。その中から一つだけを選び私の前へ差し出す。
「先生の分」
小さな巻貝だった。白と紅は寄っては離れ、互いを追うように殻の先まで渦を描いていた。要らないと思った。なのに、気づけば胸のポケットへしまっていた。
ヨルはそれを見届けると何事もなかったように椀を引き寄せ、底に残った赤い水をまた匙で集めはじめた。氷を食べ終えたラッシュとハンナが再び砂浜へ走り、ヨルも貝殻を抱えてその後を追った。ミーナだけが隣に残った。
「来てよかったでしょう」
「そうね。ありがとう」
ミーナは口もとを緩めた。それ以上は何も言わず、赤い蜜の残った椀を膝に置いて海を見ていた。
日が低くなったのを合図に、波打ち際から四人を呼び戻した。ラッシュはまだ帰りたくないと砂の上に踏ん張り、ハンナに腕を引かれている。
「また来ればいいでしょう」
ミーナが言うと、ラッシュは急にこちらを見た。
「先生も来る?」
「次までに、海と川の違いくらい覚えておきなさい」
ラッシュは大きく頷いた。約束したつもりはなかった。けれど、その場にいた誰もそうは受け取らなかった。
西へ傾いた日は、海の端へ触れようとして、なお、四人の足もとまで光を寄せていた。私はそれから、しばらく目を離さなかった。
帰りの汽車では、四人ともほどなく眠った。ラッシュは私の右腕にもたれ、向かいではミーナとヨルの頭が揺れるたびに触れそうになっている。窓の外から海が消えても、乾ききらない髪と衣服にはまだ潮の匂いが残っていた。中等科へ通わせるより、私の手元で学ばせた方がいい。そう思っていた。眠ったままハンナの肩へ寄りかかるミーナを見ていると、そう思った自分の頑固さに居心地が悪くなった。
♢
家に戻ると、ミーナは「おやすみなさい」とだけ言い、そのまま自分の部屋へ入っていった。私も続いて横になりたいところだったが、お母様から「あなた宛ての手紙が届いているわ」と、二通の手紙を渡された。
一通目は、手に取った瞬間に差出人がわかった。かすかに漂う魔力の香り。あの魔導具屋に違いない。
封筒は白い紙にしては妙に滑らかだった。おそらく、雁皮に魔力を漉き込んだ料紙であろう。指の腹にわずかな温みが伝わってくる。表書きには、流麗な毛筆で「ヘルザ・ラルフエルト殿」と記されていた。封じ目には「緘」の一字。だが、その下に見慣れぬ小さな印が捺してある。蝋ではない。紙そのものに浮き出た紋——魔導の封である。
あの店主がやりそうなことだと、私はひとり微笑み、封を切った。
『謹啓
先日は御多用の折、弊店へ御来駕賜り、誠にありがたく厚く御礼申し上げます。
さて、このたびお納め申し上げました魔導具、銘「暁烏」につきまして、ミーナ様のお手許にて御具合はいかがでしょうか。
初めて御用いになる方におかれましては、魔力の通り、重心、握りの癖など、いささか馴染みにくき点もあろうかと存じます。
万一、御使用に際して差し障り、または御心づきの点などございましたら、どうぞ御遠慮なくお申し付けくださいませ。弊店にて改めて御調整ならびに御手入れを承ります。
また御都合のよろしき折には、ミーナ様ともども御来店いただけましたら幸甚に存じます。
末筆ながらヘルザ様ならびに御家中皆々様の御健勝を心よりお祈り申し上げます。
敬具 ダイン・ロースト』
「あけがらす……」
そんな立派な名が、あの杖にはあったのか。
それをミーナが「うずまき」と名付けたことを知ったら、ダインはどんな顔をするだろう。そう考えただけで、笑いが声になって漏れた。
次に行くときは、ミーナも連れていかなければならない。私は手紙を丁寧に畳み直して、机の引き出しにしまった。
もう一通の封筒を手に取る。
ダインの手紙とは打って変わり、同じ白でもこちらはひどく無機質な白だった。表には、私の名だけが印字で小さく中央に置かれている。裏の閉じ目には、「〆」の字が赤い筆記具で引かれているきりで、差出人の名はなかった。
ただ、封筒は二重になっており、そこだけがやけに丁寧だった。
胸騒ぎがした。
私はこの手紙の来方を知っている。
無意識に、左膝の下へ目を落とした。それから、立っていられなくなり椅子に腰を落とす。まさか、という思いと、とうとうその時が来たのだ、という思いが胸の中を行き来した。
封を開けた。
中には二枚入っていた。
一枚は軍の添え状。もう一枚は、聞き覚えのある地方の病院から託された、看護人の手紙であった。
添え状
『謹啓 ますます御健勝のことと存じます。
過日、九頭陸軍病院より、アイリーン・サイベル氏御逝去の知らせと、貴殿宛ての一通の手紙が当方へ届きました。取り急ぎ、これに添えてお送り申し上げます。
故人には身寄りもなく、御存命の折、しきりに貴殿の御名を口にされていたとのこと。御縁の深い貴殿にお届けするのが筋と心得、不躾ながら、このように取り計らいました。委細は同封の書面に譲ります。まずは右、御報せまで』
看護人の手紙
『拝啓
突然の手紙、御無礼の段、どうか御許し下さい。私は、九頭地区の陸軍病院にて、アイリーン様の御看護を勤めておりました者でございます。
アイリーン様には、去る二十五日の未明、ついに快復叶わず、静かに息を引き取られました。長い御療養も実を結ばず、まことに残念でなり——』
手紙を置き、目を閉じた。
私は友人の死をそれ以上、文字で確かめたくなかった。




