第七話
どうもミーナは自室にこもっているらしく、居間には、お母様が少し奥にひとり立っていた。部屋から笛の音は漏れてこない。先ほどのことで相当機嫌を損ねているに違いなかった。お母様はすっとした姿勢のまま、瞳の奥の埃でも見つけるように、私をまじまじと見た。それから、ふふっと笑った。
「あなたはわかりやすい人だから、ミーナも困ってしまったのでしょう」
そう言うと、お母様は、食事の支度をするわ、と台所へ向かってしまった。
机に置かれた刺繍が視界に入る。花はいくつかの青の中に、鮮やかな赤が目立つところに咲いていた。束ねた髪の付け根が痒くなり、杖を握った右手が汗ばむ。何もかもお見通しだった。お母様のような術式を私も持っていれば、もっと違った景色で人にも魔法にも向き合えたかもしれない。
よし。
私は両手で髪を整え、ミーナの部屋の前に立った。なんと切り出そう。そういえば、せがまれたフルートの譜面をまだ渡していなかった。しかし、そんなもので釣るのも癪だ。この期に及んで、何に意地を張っているのだろう。お母様とはほど遠い、屈折した術式。右手の杖をもう一度強く握った。
「ミーナ、聞いてますか。私はあなたを魔術師としか見ていませんでした。家族として……ミーナとして見ていなかった。ごめんなさい。私の魔法は……やさしくない」
真鍮色の取っ手がゆっくりと回り、扉が細く開いて、ミーナが顔を覗かせた。
「ヘルザの魔法は、やさしいよ……」
私はその小さな声の続きを待った。
「先生! 先生! いらっしゃいますか!」
場を割る声の主は、ノマーク村長だった。
玄関口で村長は膝に手をつき腰を落としていた。お母様が差し出した水を息もつかずに飲み干す。
「どうかしましたか」
「子どもが、ひとり戻らんのです。ウエルバさんとこのお孫さん。男の子の方、ラッシュという名で」
空になったコップを握りしめたまま、村長は続けた。
「学校からは戻ったらしいんですが、昼過ぎに家を出たきり。川の方も、炭焼き小屋の方も見たんですが、どこにもおらんのです。もう、村の衆も出ております。先生、灯りだけでもお願いできんでしょうか」
玄関の外は青黒い空に雲の輪郭を僅かに残すばかりだった。お母様も外を見たまま「ヘルザ」と私の名前を呼んだ。
「私も行かせて」
いつのまにかミーナが私の背後に立っていた。
「ラッシュは、ハンナの弟なの」
声に湿りはなかった。先ほどまでの不機嫌などなかったかのような顔をしている。
私は「来なさい」とだけ言い、『うずまき』を彼女に返した。
門を出ると、村の辻に提灯の火が幾つも浮いていた。男たちは鍬や竹竿を手に、沢、桑畑、炭焼き小屋と短く言い交わしている。誰もが、ラッシュ、ラッシュ、と口々に呼びながら、思い思いの方角へ散っていく。その中に瓜をくれた井戸の夫婦の姿もあった。男は提灯を二つ手に下げ、女の袖口には泥がこびりついていた。
「先生が来てくれたで。もう安心だ」
男は私の姿を認めると、女の肩を叩いて安堵したように笑った。女は隣に立つ少女の肩を押した。
「ミーナ、ラッシュが……ラッシュが……」
ミーナにすがりついたのは、同じ制服の少女だった。髪を解き、頬を涙で濡らしている。
「大丈夫よ、ハンナ。ヘルザが探してくれるから、泣かないで」
ハンナは私の方を見て、深々と何度も頭を下げた。
日はもう、山の端へ落ちかけていた。
私は右手を上げ掌に小さな光を灯した。淡い黄色の球がひとつ浮かび、続いて二つ、三つと増える。光は私の肩の高さで止まり、村人たちの顔を下から照らした。
「これを持って、道のあるところだけを探してください。沢へ下りる斜面には近づかないこと。名前を呼ぶ時は、一人ずつ。続けて叫ぶと、返事が聞こえません」
光の球は提灯の火の代わりに村人の手の少し前で揺れた。触れようとした男が指を引っ込める。
「先生、なんとか魔法で、ぱっとわからんのですか」
村長が私の顔を覗いた。来るときから、その言葉はどこかで待っていた。子どもを探すのに魔法はほとんど役に立たない。火を灯すことはできる。獣を遠ざけることもできる。沢へ落ちた石の位置なら暗がりの中でも拾える。けれど、魔力の薄い子どもひとりを山と畑と水の気配の中から選び出すことはできない。
私は魔術師だ。目の前にあるのは——提灯を持つ手。辻に残った足跡。桑畑の方を向いたまま動かないハンナの背中。そういうものが、みな私の方へ寄ってきていた。
「人を探す魔法はありません。少なくとも、魔力の薄い子どもには、あまり役に立ちません」
村長は口をつぐんだ。少し顔を下げたように見える。
「ヘルザ」
ミーナが私の袖を引いた。
「結界で魔力を選り分けられるなら、小さい魔力も、大きく響かせられないの。音叉みたいに」
この子の提案に、私は口角だけを上げていた。結界の応用。考えなかったわけではない。あれが、合わぬ波長に「否」を返す術なら、その裏面は——合う波長だけを響かせる術になる。
「できるかもしれない。ある人の固有波長にこちらを合わせ込めば、共鳴して感度が上がる。音叉のように。どんなに微かなものでも、増幅されて拾えるはず——」
言いかけて、視線を逸らした。
「でも合わせるには、その子の波長を先に知っていないと。同調の鍵は、本人からしか採れない。肝心のラッシュがここにいないのだから」
ミーナは少しのあいだ黙った。それから、すがりついたままのハンナをそっと体から離した。
「ハンナ。ちょっとだけ、じっとしてて」
ミーナは、『うずまき』をハンナの胸のあたりへそっとかざした。
「ヘルザ。姉弟なら似てるでしょう。ヘルザとお母様だって、少し似ているもの。ハンナの音からラッシュの音をたぐればいいんじゃない」
ミーナは杖先の朱い珠を高く上げ、「この杖なら助けてくれる」と小さく言った。
響き合わせる。裏庭で私が音になぞらえて説いたこと。あの理屈を、この子は自分の手の中へ握り直していた。壊す魔法ではなく、生かす魔法として。
夕闇の中で杖先の朱い珠が灯る。ミーナは目を閉じ、ハンナの胸から拾った音をそっと宙へ放った。
しばらくして、「ハンナの魔力しか掴めない」と杖先を下げた。
「ハンナを探すのではありません。ハンナの中でハンナではない方を拾いなさい。似ているが、重ならないところです」
「そんなの、どうやって」
「二つの笛を同時に鳴らすと、よく似た音ほど、うなりが出るでしょう」
ミーナは杖を持つ指に力を入れた。
「ハンナをひとつの音として、ラッシュをそこから少しずらすの」
ミーナは私に「やってみる」と頷くと、ハンナにもう一度『うずまき』を当て、朱い珠を高く上げた。さっきよりも明らかに感度が変わった。
「そうです。近すぎるところを、避けなさい」
遠い、本当に微かな——けれど確かに、それと同じ響きを持つものを北の雑木林のほうに感じた。
よし。魔力が共振している。
「あっち」
先にミーナが、指差した。
魔力の方向へ、私とミーナとハンナは駆けていった。そこには、大きな樫の根方の洞のような窪みがあり、膝を抱えてうずくまるラッシュがいた。泥だらけの顔を上げるとばつの悪そうな目で私たちを見た。
「ラッシュ!」
ハンナが転がるように駆け寄り、その肩を強く揺さぶった。
「みんな探してたのよ。おじいちゃんも、おばあちゃんも……」
ラッシュは、姉の手を振り払った。
「.......どうして」
「どうして.......僕んちには、おとうも、おかあも、いないんだよ」
ハンナは口を開けたまま、何も言わなかった。やがて、膝の上に置いた両手の甲へ、雫が落ちた。ひとつ、ふたつ。土のついた指の間を濡らしていく。
ミーナは二人のやりとりを、朱く灯った杖を持ったまま黙って見ていた。
私は姉弟のそばに寄り、膝をゆっくり折った。土の湿りが衣の裾に移る。
「ハンナ、ラッシュ。手を出しなさい」
二人は顔を上げた。「さあ」と促すと、姉弟は手のひらを私に向けた。
【玉よ
影に触れず
名を呼ばず
内なる鏡とみよ】
二人の掌の間に透明な球が生まれた。水よりも澄み、硝子よりもやわらかい。球の縁だけが時折、呼吸のように淡く白んだ。
ハンナとラッシュは球をのぞいた。
庭が映る。水を張った桶。夏の草と裸足の足。男が木を削り、女が軒下で洗濯物を広げている。ハンナが走り、ラッシュが桶の水を叩く。水滴が跳ね、女の袖にかかる。音はない。それでも、水滴の形だけはひとつひとつ鮮明だった。
「幻なんかじゃないのよ」
私は、できるだけ静かに言った。
「これは、あなたたちの中にあるものを、映しているの。本物よ。ずっと、そこにあったの」
球の中で女の手が幼いラッシュの髪を撫で、男が幼いハンナの額を指で軽く弾いた。映像はそこでほどけ、透明な球へ戻った。
私は球を閉じた。透明な光は、掌の線に沿って薄くなり、最後は湿った空気の中へ消えた。
ラッシュは声をあげて泣いた。ハンナがその頭を今度はちゃんと抱き寄せた。
その後、二人は何度も頭を下げ、礼を言って祖父母の待つ家へ帰っていった。村長は私の手を取らんばかりにして、流石は先生だ、と繰り返した。
「いいえ」
私は、首を振った。
「見つけたのは、ミーナです。私は、何も」
村長は、はっとしたようにミーナを見た。
「お若いのに、流石、先生のところの娘さんですな」
ミーナは少し居心地が悪そうに、両手で杖を抱いていた。私は「まだ子どもゆえ、あまり言いふらさないでください」とたしなめた。
「わかりました。そりゃあ、もちろん」
村長は頭に手を当て、数回軽く会釈し、帰っていった。他の灯りが散り散りになると私たちも家へ向かった。すれ違う村人から、「見つかってよかった」「先生、ありがとう」などと声をかけられる。
「ヘルザ」
ミーナが言った。
「なに」
「あの光の玉、はじめて私が来た時も、してくれたよね」
私は少し足を止めた。
六年前のことだった。私はその時も、両手の間に透明な球を出した。幼いミーナは、球の中に映った何かを、両手で包むように見ていた。映っていたものの細部はもう思い出せない。ただ、球の表面に触れた小さな指と、瑠璃色の瞳に返った白い光だけが残っている。
「覚えていたの」
「うん」
それ以上言わず、ミーナはそっと私の左手を取った。交互に踏んだ小さな音が、土の上でひとつずつ鳴った。
まとわりつくような湿気も、その時は気にならなかった。




