第六話
裏手の庭は半エーカーほどもあるというのに、何もなかった。隅に木が数本植わっているだけで、あとは低い草が風に伏したり起きたりしている。前の家主がここまで手を入れる前に手放したのか、あるいは初めから庭など持て余していたのか、知る由もない。ただ、魔法の練習場としてはかえって都合がよかった。
得難き杖の先にあったのは、白いブラウスの上に肩から吊る濃紺のジャンパースカートをまとった少女。
その取り合わせは、ひどく調和を欠いていた。
『才を望む者は、才がない者』とはよく言ったものだが、ただ杖を携えただけのその姿を前にして、私はそれを認めざるを得なかった。
私はまず、基礎六段の結界を、杖を使って張るよう言った。それだけしか言わない。大概は、杖に魔力を思うように伝えられずに躓く。けれど、私は自分にできなかったことしか伝えたくなかった。
「結界? なんかもっと、楽しいのがいいわ。光の玉を出すとか、宙に浮くとか。あと動物とお話がしたいわ」
ミーナは杖を地面と水平に持ち上げ、首のあたりで、二、三度、掌の上で弾ませた。同時に、日の高い空の中で、杖先の朱い残像が二、三度、上下に揺れた。
伝わっている。
「結界術は、魔術師にとって一番大事な術式なの。これができないと、ほかに何ができても、一流の魔術師とは呼べない」
また、いらぬ説法をしている……。
「……光の玉は、今度教えてあげるわ」
ミーナは小さく笑ったあと、杖の尾を地に刺した。
【垣よ、巡れ——結え】
随分短い詠唱だった。
紫色の線が地面から左右同時に斜めに走り、螺旋状に折り重なった。
「どうかしら」
光の格子の間隙から、得意げな声がした。
私は「そのまま」と手を前に出し、手頃な枝を拾って、紫の格子に向かって軽く投げた。
ばちり、とも、ざわり、ともつかない微かな変化があっただけで、炎に投げ入れたときのような匂いはない。燃え上がることも、弾ける音もなく、枝は落ちた衝撃で、わずかに跳ねただけだった。
地に横たわる木片は何も変わらないように見えた。だがよく見ると、表面がじわりと暗く沈みはじめている。茶色だった繊維はゆっくりと黒へ染まり、炭のように鈍い光を帯びた。やがて黒くなった部分がさらに色を失いはじめた。灰色がにじみ出るように広がり、木の表面は、まるで風化した石のような質感へと変わっていく。指で触れれば崩れそうなのに、まだ形は崩れない。年輪も繊維の流れも、そのまま残っている。
しかし、その内側はすでに空だった。
そっと風が流れた。白い粉がふわりと浮き、光の中で散りながら消えていく。かつて木の枝だったものは何も残されていなかった。
私は、粉の消えたあとの宙から、しばらく目を離せずにいた。
「……じゃあ、次は私の手だけを界内に受け入れるようにして」
ミーナは戸惑いの声をあげた。突然、この女は気でも触れたのかと思ったのだろう。
「いい、結界はね、触れるものの波長を一つひとつ問うているの。属さぬ波長には『否』を返し、形を保つ魔力を解く。だからあの枝は崩れた。けれど、結界自身の波長と共鳴する波長だけは別。共鳴したものを、結界は同じものとみなして通す。だから、私の魔力の波長を、あなたの結界に覚えさせる。私だけが通れるように」
私は教科書通りの理屈を捏ねた。
「一度にそんな難しいことを言われても、全然わからないわ」
少女が頼りなく幼い答えを返すのは当然のことだった。そんな当たり前のことに気づかないぐらい、私はさっきの結界に魅せられていた。
「心地よく聞こえる音でとらえて。ハの音とニの音を一緒に鳴らすと、不快に感じるのはなぜ?」
「それは、音の高さが近いから?」
「そう。より正確に言うと、周波数が近いから。近い周波数同士が重なると、波同士が干渉して『うなり』が生じる。これが不快さの原因。ホやトのような音は、ハの基本周波数に対して単純な整数比で関係づけられている。そのため、波形が調和して心地よく響く」
私は、紫の格子を指さした。
「私の魔力をトの音だと思って、結界をハに合わせて」
我ながら無茶苦茶な理屈だった。だが、いくら体系化したところで感覚には勝てないのも事実だ。魔法が理論だけで成せるなら、私はこの少女にここまでの期待はしなかっただろう。
「どうなっても、知らないから」
ミーナは何やらぶつぶつと小さな声で、詠唱らしきものをつぶやいた。少しずつ、紫色の格子の気配が変わりゆくのを感じた。
「大丈夫よ。私はすでに一つ失っている」
独り言のつもりだった。だが、その余計な一言がいけなかった。紫の光は私が手を伸ばす手前で、ぱたりと消えた。
目の前には、今にも泣きそうな不機嫌な顔のミーナがいた。杖を抱くように両手で体に寄せている。
「そんな怖いこと、私にさせないで」
かすれそうな声で空気を震わせたあと、ミーナは小走りで私の方へ駆け寄った。視線も合わせず『うずまき』を突き返し、そのまま裏戸から家に入っていった。
私は、不本意にも握る機会の生まれた杖を右手に取り、左右に軽く振った。それから日が沈みかけた空を仰ぎ、ミーナと同じ紫色の光の格子を張った。
【天地の境を分かち
四方の風を鎮めん
東に青龍、西に白虎
南に朱雀、北に玄武
四神よ、今ここに目覚めよ
見えざる垣を立て
垣よ、巡れ——結え】
いつから、自分の魔法はこんなにも血生臭い代物になったのだろう。
——美しいと思いますよ。
こんな時に、ダインの長い綺麗な指が撫でてくる。あの子の描く線の美しさ。繊細で、容赦のない光。あれを目にしてなお、彼は同じ言葉を私に向けるだろうか。




