第五話
居間の外から、小刻みに地を踏む響きがしだいに近づいてくる。やがてそれは玄関先で止み、戸の軋む音がひとつ立った。そのあと、戻りました、と言う声が、まだ息の上がったまま家の奥まで届いてきた。
「おかえりなさい、ミーナ」
お母様は居間の窓ぎわで刺繍をしていた。膝の上の白い布には、小さな花がいくつも咲きかけている。
「ただいま戻りました、叔母さま」
ミーナは敷居のところで頭を下げた。紺色の鞄の紐が肩からずり落ちかけている。
「走ってきたのですか」
「少しだけです」
「少しだけで、そんな頬にはなりません」
お母様は刺繍枠を膝から外し、そばに置いた手巾を取った。
「こちらへいらっしゃい」
ミーナは素直に居間へ入ってきた。お母様はその額の汗を押さえ、乱れた襟を指で直した。ミーナはくすぐったそうに顎を引く。
「髪もほどけていますよ」
「あとで結びます」
「いま直してしまいましょう」
お母様は針を持っていない方の手で、ミーナの緑髪を軽く撫でた。
「お腹は空いていませんか」
「別に、いりません」
「昼の瓜を、油で炙ったものが残っていますよ」
「今はいいです」
「そう。では、あとで」
お母様はそれ以上すすめなかった。ミーナも、それ以上断らなかった。
私は、膝の上に置いた左手が、いつのまにか自分の赤髪の曲がった端を撫でているのに気づいた。
手を洗いに行きかけて、ミーナはふと刺繍の布をのぞきこんだ。
「花、増えましたね」
「少しだけですよ」
「昨日より、青い花が咲いてます」
「よく見ていますね」
ミーナは少し笑って、それから廊下へ出ていった。
お母様は刺繍枠を膝に戻し、先ほどの続きを縫いはじめる。台所の方で、水の音がしている。
私も左手を膝に戻した。
「ヘルザ、昨晩の新しい譜面のお話だけど」
台所から戻るなり、ミーナは濡れた手を払いながら私に言った。その勢いで、彼女が走って帰ってきた理由がわかった。
「そうね。でもその前に、私の部屋にいらっしゃい。渡したいものがあるの」
少しは嫌な顔でもするかと思ったが、ミーナは「いいわ」と素直に私についてきた。
「立派な木箱。渡したいものって、これでしょうか」
あのときと違うのは、右隣にミーナが立っていることだけだった。机に置かれた木箱は、今か今かと中身を見せたがっているように、私には見えた。
「よく聞いて、ミーナ。あなたの魔法の才は、誰よりも本物よ。帝国大にも、魔術士官学校にも、あなたほどの人には出会わなかった。だからあなたに、この中身を手に取ってほしいの」
ミーナは唇を結んだまま、視線を木箱に落とした。
少し、しゃべりすぎた。
「あなたが笛を吹くことが好きで、魔術学科のない中等部でも不満がないことはわかっています。だけど、魔法を忘れないでほしいの」
私はもう一度、ミーナを見た。ミーナの瑠璃色の目から、強張りがわずかにほどけているように見えた。
「真面目な顔して、いつも以上に大袈裟に言うんだから、少し怖くなっちゃった。別に魔法が嫌いなわけじゃないのよ。ただ、笛を吹いたり、本を読んだり、みんなとお話ししたりする方が好きなだけ」
でも、あなたのその才は何のために与えられたの。
そう言おうとしたが、まだ幼さの残る少女の姿を見て、唇を噛まざるを得なかった。
私は、開けてみて、とミーナを促した。彼女は真鍮の掛け金を、右、中央、左の順に手早く外し、木箱の蓋を上げた。
「ねえ、ヘルザ。杖って、なんのために必要なの。なくても魔法はできるでしょ」
それが、彼女の開口一番の言葉だった。
私は、ミーナがこの黒く沈み、朱い珠を抱いた杖を見て、何と言うのかを気にしていた。私の望む言葉でないことは、予想していたつもりだった。けれど、この問いに返す用意まではしていなかった。
「目で物も景色も見えるでしょう。でも、遠くを見るには双眼鏡を使うし、小さなものを見るには虫眼鏡を使うでしょう。杖は、魔法の力を合わせるためのものなの」
咄嗟にそう例えた。けれど、ミーナは首を傾げている。その可愛らしさに、私はかすかな苛立ちを覚えた。
「あなたは口笛を吹けるのに、どうして、わざわざ銀色に輝く横笛で吹いているの」
ミーナは、ああ、と小さく口を開いた。それから鞄の中から銀の横笛を取り出し、
「そっか。綺麗な音色を出すためね」
と言って、杖と見比べはじめた。
「じゃあ、この杖にも名前をつけないと」
「名前?」
「うん。このフルートにも名前があるのよ。『とぐろ』って」
「とぐろ?なんだか、蛇みたいな名前ね」
ミーナは銀の管を持ち上げ、歌口の下にある刻印を私に向けた。
「だって、ここのところ。巻いてるでしょ」
たしかに、細いSの英字の端が、蛇の尾のようにくるりと丸まっていた。
「この子の名前は何がいいかしら」
「伊良奴比なんてどう」
私は紙に、その字を書いた。
「いらぬひ?」
「昔の言葉で、入らぬ日。『沈まぬ太陽』という意味よ」
ミーナはいらぬひ、いらぬひ、と小さく繰り返した。
「ちょっと、言いにくいかな。そうだ。『うずまき』なんてどうかしら」
そう言って、ミーナは杖の先に巻きついた鈍い銀色の金属を、指でなぞった。
私は、たかが、名前だ。これ以上無理強いしても意味がない、と自分に言い聞かせた。
「その名前でいいんじゃない」
そう返した声が硬くなかったか、後になって気がかりだった。
「よろしくお願いします、うずまき」
ミーナは名付けたばかりの杖に丁寧なお辞儀をし、墨色の柄へ、小指から人差し指までを順に巻きつけていった。
「ヘルザ?」
その声を聞くまで、私はミーナの手首を掴んでいることに気づかなかった。慌てて離すと、手のひらに細い骨の輪郭がしばらく残った。ここでは狭いので庭に行きましょう、と私は言い、今度は彼女の白い手を取って、部屋を後にした。




