第四話
いつもは見送りなどしないのだが、今朝はミーナと何だか話がしたくて、バス停までついていった。髪を後ろでひとつにくくり、中等科の制服をまとった彼女は、どこにでもいる村の娘に見えた。
この村に学校はなく、子どもたちはバスで三十分ほどかけて町まで通う。バス停にはすでに同じ制服の子どもが七、八人いて、ミーナに手を振っていた。
「行ってくる」
ミーナはそう言って、駆けていった。話したかったことは、結局ひとことも口にできなかった。
私は少し離れたところから、ミーナたちが草色のバスに乗り込むまでを眺めていた。かばんをやり取りし、口元に手を当てて笑い合う。そのしぐさを、自分のころと比べては打ち消した。
前にミーナが言っていた。
「遠い西の国では、箒にまたがって空を飛ぶらしいの。ヨルやハンナと一緒に行けたら楽しいよね」
あれはただの異国のおとぎ話よ、とたしなめたのは、私だ。遠ざかるバスの音のなかで、私はそのたちの悪い冗談をいつまでも思い出していた。
家に帰り着き、門扉に手をかけたとき、「先生、先生」と遠くから声がした。ほどなく、農作業姿の男女が息を切らして駆け寄ってきた。
「先生。いやあ、ちょうどよかった。また水が出んようになって。ちょっと見てくれねえか」
男は額の汗を拭い、私に手を合わせた。今からなのかと思う間もなく、女は土のこびりついた手で「ほらほら、はやくはやく」と袖を引いた。こうなっては、向かうしかなかった。
夫婦の畑に着くと、男は「あれです」と手押しポンプを指差した。鋳鉄の黒い塗装はところどころ剥げ、赤錆が浮き出ている。周りの地面は、湿って黒ずんでいた。
とりあえず、私は地金が銀色に光る把手を握り、何度か上下させた。乾いた金属の擦れる音ばかりが立ち、注ぎ口からは一滴も出ない。女は、ほらね、と言いたげに首を傾げた。
「革が乾いて、弁と筒のあいだに隙間ができたのでしょう。呼び水をすれば、すぐに戻りますよ」
そう言うと、女は少し表情を変えた。
私はポンプの上の小さな口に手をかざし、わざと女に聞こえるように大きく長めに詠唱した。
【天つ水、地の脈を伝ひて
今ここに集ひ給へ
雲の裾より滴る慈雨よ
泉の底に眠れる清水よ
我が掌に応へよ
うるはしき流れとなりて
――湧け
――溢れよ
――巡れ
天地の理をもて
ここに水の生まるることを希ふ】
掌の下で、ぽこり、と小さな音がして、水の落ちる気配があった。把手を握り直し、もう一度ゆっくりと上下させる。はじめは錆びた息のような音がして、それから濁った水がひと筋、注ぎ口から吐き出された。
「出よった、出よった」
男は手ですくった水を女に見せた。女はまだ疑わしげに覗き込んでいたが、やがて澄んだ水が続くのを見ると、ほっとしたように腰に手を当てた。
「先生、これ、よかったら」
去り際に、女は籠に瓜を入れて差し出した。
「頂戴します。これから暑くなれば、氷も要りましょう。そのときはお声掛けを」
大人げない振る舞いへの、せめてもの言い訳だった。
♢
畑まで来たついでに、獣除けの結界を確認しに、村の端まで足を運んだ。
面倒な作業ではある。区画ごとに結界の青白い網目をたどり、綻びがないかを探していく。昔、この村にも大型の魔獣が入り込み、数名が犠牲になったのだと、ノマーク村長は、自分がそれを追い払った武勇伝を付け加えて、何度も聞かせてくれた。
真偽のほどはともかく、私がいるあいだにそんなことを起こすわけにはいかないので、頻繁にここへ来るようにしている。
畝に並んだ緑の中に、赤茄子がいくつも実っていた。まだ青いものは固く張りつめ、緑のなかで白い光をはじいている。熟れたものは、上のほうから深い赤に染まっていた。
昨晩、あの子が一日で六段まで終わらせていたことを思い出す。
あの緋色の実が、誰の目にも留まらず、いずれ枝先で垂れ下がり、黒く崩れるなど、あってはならない。
いや、嘘だ。
あの子はきっと、自分で早々に摘んで、塩でも振って、夕食のつなぎとして当たり前のように食べるだろう。
私はただ、自分の役目が欲しいだけの、さもしい女なのだ。
結界の外側で、何やら茂みの擦れる音がした。覗いてみると、幼獣の左後脚をくくり罠が捕らえていた。
艶のある黒地の短い毛に、頭部から鼻先にかけて白い模様が走っている。角のように尖った耳と、裂けた口。尻尾は、痕跡ほどの短さしかなかった。蝙蝠犬の類だろう。この幼獣の声を群れに聞きつけられると厄介だ。
仕掛けた人間は、何のための結界かわかっているのだろうか。村長を通して、やめてもらうよう言ってもらわなければならない。
私はため息まじりに、左後脚の仕掛けを外した。脚の付け根から血が滲んでいる。幼獣はひょこひょこと脚を突っ張らせた。
仕方なく、私は幼獣を右手で押さえ、治癒魔法を施そうとした。予想どおり、幼獣は私の左手に噛みつこうとしてきたので、そのたびに手を引っ込め、また治癒をかけることになった。
左後脚がようやくまともに動くようになると、黒と白の塊は茂みの奥へ潜っていった。
左手を少しかすったらしい。親指の付け根が、うっすら赤くなっていた。
♢
居間の時計を見ると、正午をまわっていた。
私は、朝方、農家のご夫婦からいただいた瓜を、お昼にいただきましょうか、とお母様に申し上げた。籠のなかには、白瓜が三つ、四つ。どれも、つやつやと太っていた。
焼いてみましょう、と私は言った。輪切りにして、油でこんがり焼けば、さぞ美味しいでしょう、と。お屋敷にいたころ、女中があぶら焼きにしてくれたことを、ふと思い出したのである。
しまった。
油壺は、もうずいぶんと軽くなっていた。あのころは、油などいくらでも壺に満たされていて、惜しいなどと思ったことも、ついぞなかった。
お母様は、けれど、それはよいお考えね、とそれしか言わず、微笑まれた。
私は油壺の油をいつもよりほんの少しだけ多めに鍋へひいた。同じ厚さに輪切りにされた瓜は、ふちから飴色に焦げ、しんなりと身を沈めていった。箸の先で押すと、やわらかく、汁がにじむ。両面にきつね色の焦げ目をつけ、仕上げに醤油をほんのひとたらし。焦げる音と香ばしさが、いちだんと立った。
皿に盛って、二人で小さな卓を囲んだ。
お母様はひと切れを、おいしそうに召しあがって、
「やわらかいこと。これは、瓜なの」
と、目をまるくなさった。
「さすが、魔法使いね」
「油の力ですわ、お母様」
私は一度も、魔法でお母様をこんなふうに笑わせたことがないのかもしれなかった。
時計はまだ、二時にもなっていなかった。




