第三話
家の前まで着くと、私は一万フーリエ紙幣を二つ折りにして半紙に包み、こより掛けにした心付けをノマーク村長に差し出した。
いやいや、先生から頂戴するわけには、と村長は両手をあげて、なかなか受け取ろうとしなかった。私はこの前のミーナの入学手続きを手伝っていただいたお礼もありますから、と重ねて言った。すると村長は、ではでは遠慮なく頂戴いたします、とようやく受け取ってくれた。
私は鼠色の車が夜に消えるまで見送り、いまだ我が家と呼べずにいる建物を少し眺めた。
どこかの貴族が使っていた別荘だけあって、当時流行りだった西国を真似た瀟洒な造りで、母屋は数寄屋風の平屋、深い軒と縁側が山の緑へ開かれ、その一隅に赤い洋瓦の翼が継ぎ足されていた。前の魔術技官は簡素な小家に住んでいたので、この村では良家出身の目で見られても仕方がなかった。
門扉も立派で重い。静寂の中でぎいぎいと耳に張りつく音を避けたくて、なるべくゆっくり押した。
門から母屋へは、飛石が緩やかに続き、両脇には躑躅の合間を縫って夜光草がのびている。人が通ると光がいっせいにこちらを向く。その健気さで抜く気になれず、そのままにしてある。
奥では、大理石で彫られた竜の彫刻が池の真ん中に座っている。今夜は月明かりもないのに、やけに私を見ているような気がしてならない。お母様はあんな恐ろしいものは早く手放しましょうと、私を気遣ってか仰っていた。けれど貰い手などあろうはずもなく、かといって山奥に置くわけにもいかず、仕方なく毎日顔を合わせる羽目となっている。ばらばらにしてやってもよいのだが、彫刻とはいえ神竜だ。何か災いがあった場合、私の行いのせいになるのも気分が悪い。
「もどりました」
窓から灯が漏れていたので、お母様は起きていらっしゃるだろうが、小声で知らせた。
居間には女性が薄緑色のソファに背筋を伸ばし、静かに座っていた。結い上げられた髪の下から見えるうなじが艶めかしく、私は少し目を背けて
「お母様、戻りました」
と声をかけた。お母様は少し肩をあげ立ち上がると
「……ごめんなさい。どうやら寝てしまったようで」
と、どこか子供じみた声で私に寄った。
「お母様、先にお休みになられたらよかったのに」
「セントラのお話を聞きたくて起きていたのですよ」
私は明日でもいいような話をし、彼女はただただ相槌を打ちながら、ブランデーにお湯を注ぎ、最後にスプーンで蜂蜜を入れて、私に手渡した。
グラスの中で琥珀が溶け合い、熱が右の手のひらを覆う。アルコールのにおいが、つんと鼻をついて、それから甘くやわらかい湯気へと変わった。
魔法も使えぬ目の前の母親は自身と私を誤魔化すことに長けていた。そのせいだろうか、魔導店の店主が息子に代替わりしたことや、その時の彼の整った仕草を伝えなかった。
話題を変えて、ミーナは寝たのかと聞くと、一時間ほど前までは部屋から笛の音色が漏れていたらしい。今は聞こえないところを見ると、もう寝たのだろう。
お母様は私の足元にある桐の箱をしばらく見たあと、私はそろそろ休みます、とお部屋に戻って行かれた。後ろ姿だけでは、私の買物を良く思っているのか、それとも愚かと思っているのか、想像するしかなかった。
私はグラスを壁際にある円弧の小さな机に置き、紐を引いて、赤い髪をようやく解放した。
左手で後頭部あたりを撫でていると
「ヘルザ、帰ってたの」
聞き馴染んだ声に、すぐには振り向けなかった。左膝上、右腹部、脊柱の古傷を長く伸びた爪で遊ばれるような感覚が走った。
「ミーナ、起きてたの」
一拍置いて、それだけしか返せなかった。
ようやく振り向くと、黒色の長い髪をおろした寝間着姿の少女が、澄ました表情で立っている。もう六年も同居しているのに、いまだにあの子の無自覚な魔力には驚かされる。
私はミーナの瑠璃色の瞳ではなく、グラスの中の琥珀に目をやり、今朝与えた課題の進捗を聞くのがやっとだった。
「それなら、六段まで終わらせましたよ」
予想以上の答えが返ってきた。
いつものあの子なら、やっていないか、せいぜい二段ぐらいを軽く舐める程度だ。だが、私がセントラで新しい譜面をついでに買ってきてあげると言ったことが効いたようだ。
「六段も。界衛学の基礎とはいえ、一日でそこまで進める方はいないわ」
私はこの少女の才を久しぶりに再認識できたことで、声が高くなっていた。ミーナにはさぞ不気味に映っただろう。
「ヘルザはやったらやったですぐ大袈裟に褒める。で。お伝えした、譜面は買っていただけたかしら?」
私の感嘆など冗談でしか受け取っていない様子で、ミーナは無邪気に笑いながら目当てのものを欲しがった。
すぐに渡してもよかった。
しかし、なんだか素直になれず、もう遅いからと寝るよう理由をつけて、また明日と言って聞かせた。
明日学校から戻ったら絶対ね、と念を押すその背後はどこにでもいる少女だった。




