第二話
ようやく赤煉瓦の駅舎の雑踏を抜け、ウゼ行きの鉄道に乗るころには日は傾きかけていた。私の生まれ年に再建されたセントラ駅は、三十数年あまりを経て煉瓦がいくぶん煤けていた。けれどそれは、かえって落ち着いた風格を帯びているようにも見えた。
兵役から帰ってきた家族と再会するとは、こういう気持ちなのだろうか。お母様は、ザルクが戦地から戻ってきたらどんな顔をなさるのだろう。
私は建物が線から点になり、やがて森に遮られて見えなくなっても、頬杖をついたまま車窓から離れなかった。
ザルクは帝国大を中退し、魔法を捨て、音沙汰もなくひょっこりシンシラリのお屋敷に帰ってきた。そうかと思えば、「陸軍機兵部隊に入りました」と、馬鹿丁寧に寝たきりのお父様へ報告し、お父様はそれはたいそうお嘆きになった。
弟のザルクは、暖炉の前にある金で縁取られた赤紫のソファにどっと腰を下ろし、グラスにウイスキーを注いだ。けれど口もつけず、姉である私とお母様に向かって言った。
「魔法の時代は終わった――そう言って、僕は軍に入った。利口そうな顔をしてね。だが本当のところを言おうか、ママ、ねえさま。終わったのは時代じゃない。僕だよ。
パパの嘆きはわかる。嘆かわしい息子かもしれない。でも、聞いておくれ。ここなら才能がいらないんだ。引き金は、誰が引いても同じように弾が出る。魔法のように、僕の無能を白日の下に晒したりしない。兵器は平等だ。誰にでもできる。――僕はそれにほっとしたんだ」
私はその時のことを、ほとんど覚えていない。きっと縄張りを荒らされた犬のように、高い声で叫んでいたのだろう。いや、ウイスキーの入ったグラスを奪い取って、暖炉に放り込んですらいたのかもしれない。私が覚えているのは、お母様が息子の詠唱を黙って受け取るように聞いていたことだった。
がたっと車体が揺れた。
私は顎に乗せていた右手をどけ、余分に取った隣席に置いてある桐の箱を左手でそっと押さえた。
お母様はどんな時も、私たちの前で顔を変えない方だった。
お父様が亡くなった時も。
私が特務で左膝から下を失った時も。
叔父夫婦が戦地で死んだ時も。
私が破談になった時も。
シンシラリのお屋敷を手放し、ウゼに移った時も。
まるで不幸を食べて生きているかのように、お母様はいつも優しく笑い
「ヘルザがいてくれるから、私もいるのですよ」
と言って、私の赤い曲がった髪を撫でるだけだった。
気がつけば、私は自分の髪を押さえていた。その行動がなんだか恥ずかしく、誰も見ていないのに左手をスカートの裾で拭った。
「えー、お食事はいかがでしょうか。サンドイッチ、焼き菓子、紅茶はいかがでしょう」
首から木の箱を紐で吊した少年がよく通る声で入ってきた。
そういえば、今日一日、何も食べていない。それもあの若い店主のせいだと、今さら思い出した。
彼は、ダインは、店の入口で「近くにいい洋食屋がございますから、ぜひ寄っていかれては」と言った。私が「ええ」と答えると、丁寧な地図まで渡してくださった。
確かに、誘われたわけではない。
それなのに、なんだか見当違いの恥ずかしさがあった。それにまだ他のお使いもあった。だから私は地図だけ受け取って、洋食屋には寄らなかった。
私は思いのほか勢いよく左肘を伸ばし、「いいかしら」と少年に声をかけた。
「はい、ただいま」
少年は木箱を揺らさないようにして、私のところへ寄ってきた。歳の頃は、ミーナより少し上くらいだろうか。私がサンドイッチを頼むと、少年は四角い紙箱を差し出した。
「七百フーリエになります」
財布を開いたが、気の利いた貨幣がなかった。仕方なく、三枚に折られた二千フーリエ紙幣を伸ばす。
エイド・ハーバーの肖像が目に入った途端、少し気が悪くなった。
「お釣りは取っておいてください」
私は少年に向かって、紙幣を押しつけるように差し出した。少年はちょっと目を丸くしたあと、
「まいど」
と嬉しそうに会釈し、再び、
「えー、お食事はいかがでしょうか。サンドイッチ、焼き菓子、紅茶はいかがでしょう」
と、よく通る声をあげてその場を去った。
私は少年の背を見ながら、紙箱からサンドイッチの直角部を親指と中指でつまみ、鋭角部を口に運んだ。
乾いたパンと、ぼそぼそとした玉子を腹に収めながら、ダインはきっと完璧な手つきでフォークを使い、少し生の残ったステーキを押さえ、ナイフを入れるところをまじまじと正面から見せつけてくるに違いない――スープを飲む時にスプーンでも落とせばいいのに、と考えていると、いつの間にか紙箱は空になっていた。
二千フーリエも出すなら、紅茶もついでに頼んでおけばよかった。
窓の外を見ると、幾条もの黒い線が行く手へ向かってのびていた。それが電柱の一本を過ぎるたびに、たるんと垂れ下がっては、また次の柱へと吊り上げられる。垂れて、吊られ、垂れて、吊られを繰り返していた。
別に、魔法が端に追いやられたのは、この黒い線のせいでもなければ、ダムという電気を作る要塞を建てたハーバーのせいでもない。
「水の精霊が流勢に置き換わっただけですよ、ねえさま」
ザルクはなんでもないように言っていた。それでも、お屋敷も婚約者もハーバー家に置き換わったのは事実だ。
どうも列車は退屈でいけない。今朝セントラへ向かう時も、同じようなことを考えていた気がする。
『美しいと思いますよ』
あの若い店主の小さな声が不意に蘇る。私は気がつけば、眠っていた。
♢
列車を降りたころには、灯りは列車のものと、転々とある電灯だけになっていた。平屋の木造で、漆喰の壁がところどころ剥げたウゼの駅舎に立つたび、いつも思い出す。
赤褐色が目立つ格子の隙間から見たお屋敷。少ない灯りの下で、お母様とミーナと三人で並んで座った沈黙。
ラルフエルト家の息女といえば、澄んだ水のなかで、ただ美しく肥えてゆけばよい身だ。私が針子や料理を担う賄い方なら、そう思っただろう。
特務では、各地の駐屯地で、猫でも爪を立てれば削れそうな壁、馬のほうがまだましな床の上で、何日も、何ヶ月も暮らしていた。私は異国の地に住む時の得体の知れない違和感が、しばらくすると、ふと自分の体に吸収されるのを密かな楽しみにしていた。
でも、この時は違った。
やはりというべきか、どんな劣悪な住まいでも、シンシラリのお屋敷という、お母様が待つ家があるからこそ成り立つ遊びだったのだと理解した。現に、違和感の錆は削られることなく、肺の裏あたりで薄い膜になって張りついている。
私は長椅子に座り、桐の箱を抱きかかえながら、いつぞやのように、蛾の集まりと「温泉街は東へ五百ヤード」の看板へ交互に視線をやり、ほのかに香る硫黄の匂いのなか、ノマーク村長の迎えを待った。
三十分ほど経つと、鼠色の小さな荷台を持つ自動車が目の前に止まった。
「先生、お待たせしましたね」
ノマーク村長は運転席から降りることなく、窓から少し顔と手を乗り出し、大きな声で私を呼んだ。
私はそそくさと立ち上がり、頭を下げて、自動車まで小走りで駆け寄った。荷物は荷台に置くことを勧められたが、大事な代物なのでと断り、窮屈ではあったが抱きかかえることにした。
「結構待たれたんじゃないんですか。伝令鳥じゃ、どうしても。うちの役場にも電話があればいいんですけどね」
「いやいや、先生がうちのようなへんぴな村に来てくれて助かってますよ。ルドルフ様が突然お亡くなりになった時は、どうしようかと村中大慌てでした。オキシの婆さんなんて、畑が死んじゃうっつって、役場に掴みかかってくるし。不謹慎かもしれませんが、皆、自分のことでいっぱいいっぱいでしたからね。でも、まさかこんな若くてお綺麗な方が来てくれるとは思わなかった。ほら、だいたい村に派遣される技官って老人でしょう」
ノマーク村長はハンドルを握りながら、よくしゃべった。私はもう十遍は聞いたであろう話を気まずい沈黙よりはましかと思い、手慣れた相槌で受け流した。
私は移住した先で、たまたま魔術技官として先生と呼ばれるようになっただけの人間だ。ただ、そのことをしがみつく理由にしているのも確かだった。
村にハーバーの黒い線が通っても、私はきっと別のしがみつく理由を探しているのだろう。
家に着くまで、窮屈とは感じなかった。




