第十話
「こちらが、今の『屋根』です」
アイリーンの指の先には、洗濯物の綱と物干し竿が幾重にも空を遮り、見上げても光の差す隙間はほとんどなかった。
脇道のどん詰まりに建つ灰煉瓦の集合住宅は、入口には扉もなく一歩入ると昼の光がそこで断たれた。奥へ伸びる階段は踏むたびに木がたわんで軋む。階を上がるごとに扉の隙間から家々の暮らしが滲み出した。たらいの水音。湿った洗濯物の匂い。風の一筋も通らぬ吹き抜けにそれらは行き場をなくし湿った熱となって肌にまとわりついた。
三階の奥、ささくれた木の扉の前で彼女は立ち止まった。
薄い鍵を取り出し、回し、戻し、また回してから、扉を押した。
「さあ、どうぞ。どうぞ」
差し伸べられた手とその立ち姿はこの場所には不釣り合いなほど可憐に、私の目には映った。
複数の異国語を操る才。術式を扱う器用さと、それに見合う魔力量。にもかかわらず、特務らしからぬ軽率な振る舞い。ノーム育ちの得体の知れなさが、私の足を戸口の前に留めていた。華神の子どもに見せたあの目すら偽りなのだろうか。
「ヘルザ殿、『札』はちゃんと集めてますから。さあさあ」
先に部屋へ入ったアイリーンが奥から呼びかけた。私は仕方なく戸口をまたぎ、子どもでも蹴破れそうな扉に頼りない錠を掛けた。
部屋は物が多かった。魔導具ではない。
窓辺の鉢植え。棚に並ぶ籐の籠、琺瑯の鍋、硝子瓶、華神の文字が書かれた茶葉の缶。壁には赤い更紗の上衣が掛かり、部屋の中でそこだけが小さく灯っているように見えた。円形の卓には、茶碗、筆記具、薄い紙束。どれも安物で使い込まれている。けれど貧相ではない。
外の階段に染みついた湿気や饐えた臭いは、ここにはなかった。壁も床も古びている。けれど床板はよく拭かれ、足を置くところだけ木目が鈍く光っていた。
「潜伏先にしては、随分と小洒落ている」
そう言ってしまったことが、少し癪だった。
「ここに来て五週間ほどのあいだに、色々と増えまして」
アイリーンは薄青の格子柄の布が敷かれた寝台の上を片付けながら、こちらと視線を合わせなかった。
「五週間? 通達では、十二週間前から潜伏していると聞いていたが」
「いや、それが……前の所は、窓から手投げ弾が入って来まして。ドカン、と」
アイリーンは頭をかきながら炊事場へ行き、ヤカンに水を入れ始めた。
「手投げ弾? 結界は? ここにも張っていないわね」
炊事場で、アイリーンは「いや、その……」と言いにくそうに口ごもり、指先から釜戸へ火を灯した。
「私、結界はからっきしでして」
ばつの悪そうな声だった。
「あれほどのものを見せつけておいて、随分下手な嘘をつくのね」
「ほんとなんです。恥ずかしながら。私、魔術課程どころか中等科にも行ってなくて、ふらふらと人探しみたいな仕事をしていたら、役人に捕まって、気がつけば——」
「ノームに入れられたと」
そう言って、私は薄青の格子柄のソファに腰を下ろした。
「そうそう。だから理屈の強い結界術式は苦手で、教官にも、お前の結界は赤い旗を立てているのかって、いつも怒られるんです」
ヤカンの蓋が揺れ、高い音が鳴った。
「本土からの武官は、機関最高の結界術の使い手とお聞きしています。どうかお力を」
そう言って、急須に茶葉を落としながら、アイリーンは長い間、頭を下げた。
私は彼女が腰を低くして湯呑みを差し出すあいだ黙ってその姿を見ていた。
手元から立ちのぼる湯気は、香りだけが先に来る紅茶とは違って甘くも渋くもなかった。香りは湯の奥に沈み、蘭にも似た乾いた花の気配がひそんでいる。
ひと口含む。
熱が舌に広がり、遅れてほろ苦さがほどけた。渋みは残らず、香りだけが口の奥に居座った。
「この部屋の結界は私がやるわ。あなたの杖を貸してもらえる」
私が部屋を見渡すと、アイリーンは湯呑みを卓に置いた。
「杖も、魔導具も、前の部屋もろとも——」
そう言いかけて、彼女は胸の前で両手を小さく握り、それから指を一斉に開いた。
「……面目ない」
髪で隠れた顔の下から、細い声だけが漏れた。
「そう……まあ。私とあなただけの選択性結界なら、杖なしでもできるわ」
私は怒る気にもなれず、部屋の真ん中に立った。
【天地の境を分かち
四方の侵しを鎮めん
見えざる垣を立て
清き者を受け入れ
垣よ、巡れ——結え】
「一週間は持つかしら」
アイリーンは立ち上がり、流石です、と部屋の角にそって見渡した。
「ちなみにこれって、私以外が入るとどうなるんでしょうか?」
私は再び寝台に腰掛け、残りのお茶を飲み干した。
「無理に入れば、身体の境目を結界の方で決めることになるわね」
アイリーンは「ですよね」と愛想笑いを浮かべ、椅子に浅く座った。
「杖があれば、もう少し穏やかな調整もできるけれど……ということは、投影石も失ったの?」
私はようやくその点に気づき、彼女を見た。
「た、確かに投影石は失いましたが、そこのところは大丈夫です」
しどろもどろに答えながら、アイリーンは両手で器を作り、詠唱をはじめた。
【玉よ
影に触れず
名に縛られず
観の鏡とみよ】
「リードル・クライアトフ」
名を呼ぶと、両手の球から金髪を束ねた鼻の高い青年が浮かび上がった。投影石の代用というところだろう。
「リードル。彼は、亡命レスイの……白系のまとめ役のような男です」
アイリーンは球の中の青年を掌でくるりと回した。リードルは横を向き、こちらに半身を見せた。仕立ての良い外套の襟、几帳面に後ろへ撫でつけた金の髪。指が長い。やけにそこが目についた。
「白系?」
「旧公国側です。革命で爵位と領地を失い、レスイを出た連中のうち、復古派に近い一派ですね。ただ、リードル自身は旗を振る人間ではありません。旗の下で、人の出入りを見る人間です」
「要領を得ないわね」
「すみません。つまり、顔が広いんです」
アイリーンは球を片手に持ち替え、紙束から一枚を抜いて、卓の上に広げた。レスイ語でいくつもの名が並んでいる。人名の横には、短い肩書きと、地名らしいものが添えられていた。いくつかの名には、赤い線が引かれている。
「もとは、薬種と医療品の商いで名をなした家です。製薬会社をいくつも持ち、軍病院、地方官庁、鉄道局。そういうところへ物を入れていたため、役所の裏口に詳しい」
「それが、革命で」
「はい。家も、爵位も、一族も、何もかも連邦に奪われて。あちこちを流れた末に、この九頭まで落ちてきた口です」
アイリーンは球の縁を人差し指でゆっくりなぞった。
「流れ着いたここで、あの男は粉の作り方を見つけました」
なぞる指が止まる。球の内側がふっと翳り、リードルの像が水面に映った影のように歪んだ。
「『淵殻』——華神のあいだに、この一年で広がった粉です。一度くべれば、二度目を欲しがらずにはいられない。それを撒いて、金と人を集めました」
「亡命者が密薬で身代を立て直したと」
「初めは、そうだったかもしれません」
球の光がゆっくりと戻った。歪んでいたリードルの輪郭も、何事もなかったように整っていく。
「でも、力を持ってしまったんです。金と、人と、手駒を——淵殻で大きくなりすぎて、新生レスイに睨まれた。連邦は、亡命者が金と力を持つのを許しません。追われた彼は帝国に取引を持ちかけてきた。守ってくれるなら、連邦の手の内も、供給の筋も、洗いざらい話す、と」
アイリーンは、掌の球を卓の端へ低く浮かせたまま、紙へ目を落とした。
「革命後も、商いの頃の縁がいくつか残ったんです。新生レスイの中にいる旧知、寝返った役人、国外へ逃げ損ねた親族、亡命者同士の連絡役。リードルは、それらを細く繋いでいる」
「本人が情報を持っているのではなく、情報の通り道を持っていると」
「はい」
アイリーンは少しだけ頷いた。
「だから、東征軍は彼を欲しがっています。リードルひとりの話を聞いて終わりではありません。彼を押さえれば、レスイ内部から今後も札を取れる。軍の移動、鉄道輸送、内務局の動き、亡命者の名簿。どれも、こちらから手を伸ばすには遠すぎるものです」
私は、卓に広げられた名の連なりを眺めた。赤い線の引かれた名が、四つ、五つ。線の先はいずれも紙の端で途切れている。
「この赤いのは」
「もう、亡くなった方々です」
アイリーンは、線の一本に指を置いた。
「リードルが繋いでいた糸は、片端から切られています。連邦も彼の使い道には気づいていますから。通り道を残しておけば、いずれ自分たちの喉元に届く。だから、道ごと潰しにかかっている」
「糸が全部切られる前にこちらが手繰り寄せたい、と」
「ええ。札は生きているうちにしか取れません」
指の下の赤い線をアイリーンはしばらく見ていた。それから思い出したように顔を上げる。
「淵殻は」
私が問う。答えはわかっていた。それでも、あえて尋ねた。
「淵殻のことは……軍は、何もするなと。あの粉が華神にどれだけ流れていようと、リードルの通り道さえ手に入れば、上はそれでいいんです」
その声は淡々としていたが、球の光がわずかに濁った。彼女はすぐに紙束へ目を戻し、それ以上は続けなかった。
球の中で金髪の青年は、相変わらず誰も見ていない遠くを見据えていた。これだけの糸を指先に巻きつけて、今は自分がその糸を頼りにようやく息をしていた。




