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暁烏の杖  作者: ozoo39
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第十一話

 薄い布を一枚敷いただけの床から身を起こすのも、今日で五度目になった。

 初日の晩、アイリーンは寝台の前で、ひどく恐縮したように両手を重ねていた。


「ヘルザ殿、こちらをお使いください。私は床で眠れますので」


 私は布を自分の足もとへ引き寄せた。


「お気遣いは無用。床の硬さで眠れなくなるほど、私は上等にはできていません」


「ですが——」


「それに、ここでは客人として扱わないで。場所をひとり分お借りできれば、それで十分」


 アイリーンはまだ何か言いたそうにしていたが、結局、寝台の端に腰を下ろした。


 そのやりとりは、二晩しか続かなかった。三晩目から、彼女は何も言わず、私の枕もとに水差しだけを置くようになった。


 今ではそのアイリーンの方が寝台の真ん中で遠慮なく大の字になって眠っている。世の裏など、まだ一度も覗いたことがないような寝顔だった。頬は枕に少し潰れ、半開きの唇からかすかな寝息が漏れている。あのよく回る舌も、芝居じみた身振りも、今はどこにもなかった。

 その顔のまま、どれほど汚れたものを見てきたのだろう。あるいは、見たあとでも、なおその顔で眠れるようになったのだろうか。

 そう思うと、布の下の床の硬さがあらためて背中へ戻ってきた。


 アイリーンは『宣伝(せんでん)』と称して、ふらりといなくなったかと思えば、いつの間にか華神(カシン)の子どもたちに食べ物を分け与え、魔法を披露し、私の咎める声も気にせず一緒になって笑っていた。


 次の日も、その翌日も。


 だが、昨日は笑うことがなかった。


 亡命レスイの縄張りがあるとされる、黒水街(コクスイガイ)の調べを終えた帰りだった。路地へ入ったあたりで微かな魔力が肌に触れた。一つではない。細く、濁ったものが幾筋も絡み合うように漂っている。

 私は不意にアイリーンを見た。けれど彼女はいつもと変わらぬ足取りで先を歩いていた。


 いや、変わらぬように歩いていたのだろう。


「あれが、淵殻(エンカク)です」


 小さな声だった。


 アイリーンの指す先では、道端に何人もの人間が座り込み、あるいは寝転がっていた。壁にもたれたまま動かない者。膝を抱え、何かをぶつぶつ呟いている者。濡れた石畳の上に顔だけを横に向けている者。


 私はその亡霊めいた姿よりも隣に立つ彼女の声に胸がざらついた。


「この魔力は.......淵殻の作用で」


 ようやくそう尋ねると、アイリーンは「ええ」とだけ答えた。


 それから、目の前に座り込んでいた男のそばへ膝をついた。

 男は湿りで黒ずんだ地面に腰を落とし、虚ろな目で宙を見ていた。呼吸は浅く、遅い。首筋をしきりに掻いている。骨ばった肩と、皮ばかりになった腕。間近で見るまで、それがまだ若い男だとはわからなかった。


「淵殻には強い魔毒作用があります」


 アイリーンはそう言って、男の折れそうな腕を取った。

 彼女の手のひらから薄い緑の光が漏れる。光は男の皮膚の下へ染みるように広がり、しばらくすると、乱れていた呼吸が少しずつ整っていった。男の瞼が落ちる。眠りに沈んだのだとわかるまで、私はその顔を見ていた。


「私の力では、魔毒を全部抜くことはできません」


 アイリーンは男の腕をそっと地面へ戻した。


 毒を生み出せるなら、その逆もできる。理屈だけなら、そういうことなのだろう。けれど、カフェで見せたときとは違っていた。たった一度、術を通しただけで、彼女の頬から血の気が引いているように見えた。

 それでも彼女は膝を伸ばすと、向かいに横たわる男のそばへ移り、同じように腕を取った。薄い緑の光が、また男の皮膚の上に落ちる。


 私は止めるための手を動かさなかった。


 薄汚れた路地を縫うように、アイリーンは一人ずつ膝をついていった。声をかけ、腕を取り、光を通し、眠った者の手を地面へ戻す。そのたびに、彼女の目の縁だけが少しずつ赤くなっていった。


 六人目の前で、ようやく私はアイリーンの腕を掴んだ。


 アイリーンは振りほどこうとした。けれど、その手から漏れた緑の光は、女の皮膚の上を薄く滑るばかりで、もう内側へ沈んでいかなかった。女は壁ぎわにうずくまり、濡れた髪を頬に貼りつかせたまま、少しも動かなかった。


 アイリーンの指先から、光が消えた。


 彼女はしばらくその女の腕を握っていたが、やがて、置き忘れたものを戻すように、そっと地面へ下ろした。


 『屋根(やね)』の近くの道境まで戻ると、子どもたちの呼び声が飛んできた。アイリーンはまだ目の縁を赤くしたまま、いつもの能天気な調子で片手を上げた。


「ごめん、今日は何も持ってないんだ」


「えー、なんだよ」


 イーサンとウロが左右から腕を掴み、おさげ髪のマリは、遠慮がちにアイリーンの指を握った。アイリーンは少し屈んで、マリと目の高さを合わせた。


「じゃあ、手を出して」


 ゆっくりと言いながら、自分の両手を丸めて見せる。水でも受けるように小さな椀を作る仕草だった。マリはそれを真似て両手をそっと差し出した。


 アイリーンは右手を袖の中へすぼめた。それから、マリの掌の上へ、ぽろぽろと小さな塊を落とした。


「わあ」


 ひとつひとつ、薄い紙で捻り包まれた色とりどりの砂糖菓子だった。マリは両手いっぱいの飴をこぼさないよう胸へ抱えた。イーサンとウロが横から覗き込み、すぐに騒ぎはじめる。    

 アイリーンは私の耳もとに手をあて、今日は魔法使いませんでしたよ、と囁いた——。


 わずかしか入らない窓の光が、アイリーンの閉じた目元にかかっている。私は昨日の冷えた手がまだ頬に残っているような気がして、そこへ指を重ねた。

 床の布を畳み、炊事場に立つ。小さな鍋に水を注ぎ、火を入れるとしばらくして底の方から細かな泡が立ちはじめた。


「おはようございます。ヘルザ殿」


 寝台の方から気の抜けた声がした。


 振り向くと、アイリーンが寝台の上に座っていた。髪は片側だけ跳ね、両手を上げて、猫のように背筋を伸ばしている。


「私の分のお茶もお願いしてもいいですか」


 ほとんど開いていない目で当然のようにそう言った。


 図々しい。だけど、私はひどく安堵していた。


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