第十一話
薄い布を一枚敷いただけの床から身を起こすのも、今日で五度目になった。
初日の晩、アイリーンは寝台の前で、ひどく恐縮したように両手を重ねていた。
「ヘルザ殿、こちらをお使いください。私は床で眠れますので」
私は布を自分の足もとへ引き寄せた。
「お気遣いは無用。床の硬さで眠れなくなるほど、私は上等にはできていません」
「ですが——」
「それに、ここでは客人として扱わないで。場所をひとり分お借りできれば、それで十分」
アイリーンはまだ何か言いたそうにしていたが、結局、寝台の端に腰を下ろした。
そのやりとりは、二晩しか続かなかった。三晩目から、彼女は何も言わず、私の枕もとに水差しだけを置くようになった。
今ではそのアイリーンの方が寝台の真ん中で遠慮なく大の字になって眠っている。世の裏など、まだ一度も覗いたことがないような寝顔だった。頬は枕に少し潰れ、半開きの唇からかすかな寝息が漏れている。あのよく回る舌も、芝居じみた身振りも、今はどこにもなかった。
その顔のまま、どれほど汚れたものを見てきたのだろう。あるいは、見たあとでも、なおその顔で眠れるようになったのだろうか。
そう思うと、布の下の床の硬さがあらためて背中へ戻ってきた。
アイリーンは『宣伝』と称して、ふらりといなくなったかと思えば、いつの間にか華神の子どもたちに食べ物を分け与え、魔法を披露し、私の咎める声も気にせず一緒になって笑っていた。
次の日も、その翌日も。
だが、昨日は笑うことがなかった。
亡命レスイの縄張りがあるとされる、黒水街の調べを終えた帰りだった。路地へ入ったあたりで微かな魔力が肌に触れた。一つではない。細く、濁ったものが幾筋も絡み合うように漂っている。
私は不意にアイリーンを見た。けれど彼女はいつもと変わらぬ足取りで先を歩いていた。
いや、変わらぬように歩いていたのだろう。
「あれが、淵殻です」
小さな声だった。
アイリーンの指す先では、道端に何人もの人間が座り込み、あるいは寝転がっていた。壁にもたれたまま動かない者。膝を抱え、何かをぶつぶつ呟いている者。濡れた石畳の上に顔だけを横に向けている者。
私はその亡霊めいた姿よりも隣に立つ彼女の声に胸がざらついた。
「この魔力は.......淵殻の作用で」
ようやくそう尋ねると、アイリーンは「ええ」とだけ答えた。
それから、目の前に座り込んでいた男のそばへ膝をついた。
男は湿りで黒ずんだ地面に腰を落とし、虚ろな目で宙を見ていた。呼吸は浅く、遅い。首筋をしきりに掻いている。骨ばった肩と、皮ばかりになった腕。間近で見るまで、それがまだ若い男だとはわからなかった。
「淵殻には強い魔毒作用があります」
アイリーンはそう言って、男の折れそうな腕を取った。
彼女の手のひらから薄い緑の光が漏れる。光は男の皮膚の下へ染みるように広がり、しばらくすると、乱れていた呼吸が少しずつ整っていった。男の瞼が落ちる。眠りに沈んだのだとわかるまで、私はその顔を見ていた。
「私の力では、魔毒を全部抜くことはできません」
アイリーンは男の腕をそっと地面へ戻した。
毒を生み出せるなら、その逆もできる。理屈だけなら、そういうことなのだろう。けれど、カフェで見せたときとは違っていた。たった一度、術を通しただけで、彼女の頬から血の気が引いているように見えた。
それでも彼女は膝を伸ばすと、向かいに横たわる男のそばへ移り、同じように腕を取った。薄い緑の光が、また男の皮膚の上に落ちる。
私は止めるための手を動かさなかった。
薄汚れた路地を縫うように、アイリーンは一人ずつ膝をついていった。声をかけ、腕を取り、光を通し、眠った者の手を地面へ戻す。そのたびに、彼女の目の縁だけが少しずつ赤くなっていった。
六人目の前で、ようやく私はアイリーンの腕を掴んだ。
アイリーンは振りほどこうとした。けれど、その手から漏れた緑の光は、女の皮膚の上を薄く滑るばかりで、もう内側へ沈んでいかなかった。女は壁ぎわにうずくまり、濡れた髪を頬に貼りつかせたまま、少しも動かなかった。
アイリーンの指先から、光が消えた。
彼女はしばらくその女の腕を握っていたが、やがて、置き忘れたものを戻すように、そっと地面へ下ろした。
『屋根』の近くの道境まで戻ると、子どもたちの呼び声が飛んできた。アイリーンはまだ目の縁を赤くしたまま、いつもの能天気な調子で片手を上げた。
「ごめん、今日は何も持ってないんだ」
「えー、なんだよ」
イーサンとウロが左右から腕を掴み、おさげ髪のマリは、遠慮がちにアイリーンの指を握った。アイリーンは少し屈んで、マリと目の高さを合わせた。
「じゃあ、手を出して」
ゆっくりと言いながら、自分の両手を丸めて見せる。水でも受けるように小さな椀を作る仕草だった。マリはそれを真似て両手をそっと差し出した。
アイリーンは右手を袖の中へすぼめた。それから、マリの掌の上へ、ぽろぽろと小さな塊を落とした。
「わあ」
ひとつひとつ、薄い紙で捻り包まれた色とりどりの砂糖菓子だった。マリは両手いっぱいの飴をこぼさないよう胸へ抱えた。イーサンとウロが横から覗き込み、すぐに騒ぎはじめる。
アイリーンは私の耳もとに手をあて、今日は魔法使いませんでしたよ、と囁いた——。
わずかしか入らない窓の光が、アイリーンの閉じた目元にかかっている。私は昨日の冷えた手がまだ頬に残っているような気がして、そこへ指を重ねた。
床の布を畳み、炊事場に立つ。小さな鍋に水を注ぎ、火を入れるとしばらくして底の方から細かな泡が立ちはじめた。
「おはようございます。ヘルザ殿」
寝台の方から気の抜けた声がした。
振り向くと、アイリーンが寝台の上に座っていた。髪は片側だけ跳ね、両手を上げて、猫のように背筋を伸ばしている。
「私の分のお茶もお願いしてもいいですか」
ほとんど開いていない目で当然のようにそう言った。
図々しい。だけど、私はひどく安堵していた。




