↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
暁烏の杖  作者: ozoo39
PR
12/27

第十二話

『某月某日 モデルナ館 二十二時』


「ようやく、リードル・クライアトフが接触の機会を示してきましたね。ですが、この場所と時間は……」


 アイリーンは伝令鳥を指にのせたまま、青い羽を撫でていた。本部から届いた紙片には必要な事項だけが活字で打たれている。


「出入りの激しい夜会(やかい)なら、お互いに紛れやすい、ということでしょう」


「夜会?」


 アイリーンが顔を上げた。


「ということは、舞踏会か何かですか」


 私は答えなかった。答えるまでもなかった。彼女の指が揺れ、青い鳥は羽をばたつかせて窓辺へ逃げた。


「や、夜会服なんて持っていませんよ」


 彼女は壁に掛けた赤い更紗(さらさ)の上衣へ、こわばった目を向けた。


 私はおかしさを堪えて言った。


「モデルナ館の帳場に頼めば、貸衣裳屋へ使いを出してくれます」


「ですが、踊りなんてしたことありませんし」


 アイリーンは力なく、膝から床へ崩れるように座り込んだ。私はその座り方にシンシラリの屋敷を思い出した。


「あなたさまにお仕えできたことが、わたくしの誇りでございました」


 長く仕えた養育掛(よういくがかり)が、屋敷を去る日に残した言葉だった。彼女は私の手を取り、「ヘルザ様は、どうか、ご自分の足でお歩みください」と言った。私はその乾いて筋の浮いた手を、なかなか離せずにいた。


「礼法は今からでも間に合わせます」


 アイリーンの手を取り、床から引き起こす。


「まず、座り込まないこと」


 たしなめると、アイリーンは「かしこまりました」と両手を前に重ねて辞儀をし、最後に「先生」と、わざとらしく付け加えた。


「頭を下げるのは謝罪。腰を落とすのが敬意です」


 片足を引き、膝をわずかに落とす。上体はまっすぐのまま。私の声が少し張っていたのか、アイリーンは慌てて真似をした。


「沈みすぎれば、媚びに見えます。同じ年頃の娘には、膝を折る真似だけ。名のある老婦人には、ひと呼吸ぶん、長く」


「難しいですね」


 言いながら、アイリーンは私を見つめ、頭のてっぺんの位置を膝の曲げ具合で合わせている。


「礼法とは、難しいことを難しく見せない技術です」


 養育掛の言葉を借りて、私は当然のように腕を組んだ。


「なんだか、魔法を教えてもらっているみたいです」


 アイリーンは華神(カシン)の子どもたちのような顔で、上目遣いに私を見た。


 借り物の言葉が急に恥ずかしくなり、私は話題を変えた。


「それから……相手を見る時は、目を覗き込まない。胸元も見ないこと」


「では、どこを見るのです」


「鼻筋のあたりです。嘘をつく者は目を見たがります。育ちのよい者は、目を見すぎません」


 言い終えてから、後悔した。


 アイリーンは気に留めるふうもない。彼女に向けたつもりはなかった。けれど、礼法を語る者の選ぶ言葉ではなかった。


「どうかされましたか、ヘルザ殿」


 黙り込んだ私の顔を、アイリーンが覗き込んだ。


「いえ、先ほどの……失言でした」


 私は頭を下げた。


 アイリーンは目を丸くし、それから慌てて私の肩を支え、頭を起こさせた。


「育ちのよい者は、目を見すぎない、という発言です。あれは、あなたのことを言ったわけでは——」


 言い終わらぬうちに、アイリーンは声を上げて笑い出した。


「そんなことを気にされたのですか。ヘルザ殿はやっぱり繊細な方ですね。第一、育ちが悪いのはまぎれもない事実ですので」


 彼女は上体をまっすぐにし片足を引いて、膝を落とした。


 ひと呼吸ぶん、長く。


 私はその不器用な敬意から目を離せなかった。


「そんなことより、踊りの方をご教示ください。ヘルザ殿」


 先ほどのやり取りなどなかったかのように、アイリーンが詰め寄ってくる。今度は私が、彼女の肩を両手で押し戻す番だった。


「夜会で大切なのは踊ることではありません」


「さっき笑った仕返しに、からかっているのですか」


 アイリーンは口を膨らませた。


「いいえ、真面目です。大事なのは踊れるふりをして立っていることです」


 私はわざと低く、ゆっくり言った。


「ですが、お誘いされた場合はどのように……」


 アイリーンは下を向いたまま小声になった。語尾は聞き取れなかったが、組んだ両手の指が、二、三本、せわしなく動いている。


 急に若い娘の顔になった彼女に、私は卓の紙片を一枚取り細く折って渡した。


「これは舞踏手帖(ぶとうてちょう)の代わりです」


「手帖?」


「夜会では、曲ごとに相手の名を書き入れることがあります。すべて空けておくと、暇な娘に見える。すべて埋めると、話しかける隙がなくなる。ですから、三つほど埋まっているように見せておきなさい」


「誰の名前を書けば」


「読めない字でよろしい」


 紙片の端を指で叩いた。


「誘われた時の断り方も覚えておきなさい。『恐れ入ります、その曲は先約がございます』。もう一つ。『少し休ませていただいております』。相手がしつこければ、『連れの者が参りますので』。これで大抵は退きます」


「退かなければ?」


「足を踏みます」


「それも礼法ですか」


「ええ。少なくとも、私にとっては」


 アイリーンは真剣な顔でうなずいた。どうやら、そこだけはすぐに覚えたらしかった。


「手袋は、食事の席以外では外しません。手を洗う時と、物を食べる時だけ」


「面倒ですね」


「面倒を面倒と見せないのが夜会です。汗ばんだ手を素手で差し出す方が、よほど無作法です」


 アイリーンは自分の手のひらを見て、少し顔をしかめた。


「それから、話題です。天気。花。音楽。差し障りのないことだけを、さも大切そうに話しなさい。政治は避ける。国の話は、もっと避ける。誰がどこの生まれかを、決してこちらからきかない」


「きかれたら?」


「はぐらかす。『わたくしのような者の話など』と。謙遜は、いちばん上等な嘘です」


「嘘は苦手です」


「あなた、特務の人間でしょう」


 そんな問答のような稽古は、夜会の日まで続いた。


 アイリーンはどうしても踊りを教えてほしいとせがんだので、最後に簡単なワルツだけを教えた。


 一、二、三。一、二、三。


 拍を刻むうち、組んだ手の輪郭が少しずつ曖昧になっていく。


 燈の灯り。衣裳の白さ。花火。夜の闇。どこか借り物のような色の奥に、お母様の横で、亡きお父様がパイプをくわえ、こちらへ手を上げていた。私も右手を軽く上げ、それから、名も忘れた若い士官と組んだ。

 一拍目で進む。二拍目で揃える。三拍目で流す。左足が床を捉え、右足が寄り、裾が遅れてついてくる。何も考えていなかった。足はただ動き、床は踏めば応えるものだった。回るたび、灯りが糸を引き、士官の襟の金釦(きんボタン)が、光の点になって流れた。彼が何を話したのか、私が何と答えたのか、何ひとつ残っていない。


 残っているのは、拍子だけ。


「ヘルザ殿、そろそろ出発を」


 前に出ていた左足を私はさりげなく戻した。それから窓を見た。青白い光がわずかに差し込んでいるだけで、部屋の模様も半分ほど見えない。思っていたよりも、ずっと時間が経っていた。


 日が落ちて、一時間ほど経った頃だった。


 華神の狭い筋を三つ折れると、灯りは灯籠の赤からガス燈の白へ変わった。その白い光の下で、アイリーンが「イズヴォスチク(ぎょしゃさん)!」と手をまっすぐ上げる。辻に客待ちしていた黒塗りの低い四輪馬車が、一拍おいてこちらへ(ながえ)を向けた。塗りは艶を失い、泥よけには乾いた跳ねの跡が残っている。

 御者(ぎょしゃ)台では、綿入れの外套で樽のように着膨れた御者が、無言のまま顎で客席を示した。


 アイリーンは「アプレ・ヴ(お先にどうぞ)」と、得意そうに手を前へ出し、二人掛けの狭い座席へ私を先に乗せようとした。私が腰を下ろし、彼女があとから乗り込むと肩と肩が触れた。革の座面は冷えきっていて、古い馬具と煙草の匂いがする。


 レスイ語で行き先を告げる。鞭が鳴る前に、馬はもう歩き出していた。車輪が石畳を拾うたび、座席が小さく跳ねる。自動車が前をよぎり、黒い車体が街道の白い灯を散らした。建物の影が切れ、大聖堂の丸屋根が夜空に黒く浮かぶ。その手前、街灯の連なりの向こうに、窓という窓へ灯をともした石造りの館が見えてきた。近づくにつれ車輪の音に楽の音が薄く混じりはじめる。


「ここで」


 私が言うと、御者は手綱を軽く引いた。馬車は館の車寄せの明かりが届くか届かないか、その境で停まった。降りる際、アイリーンはまたもや「ペルメテ・モワ(手をお許しください)」と得意そうに手を差し出した。私はその手を取り、小声で言った。「夜会は、知ってる西側の言葉を披露する場ではないわ」彼女は離した手を頭に当て、恥ずかしそうに笑った。


 三階建ての石造の建物『モデルナ館』。淡い色の壁は夜目にも明るく、高い半円の窓という窓に灯がともり、黄金色を敷き落としていた。屋根の上には小塔がいくつか立ち、そのひとつだけが玉葱の形に膨らんで夜空を鈍く受けている。

 回転扉が一周するあいだに、外の音が消えた。靴音だけが、先に広間へ届く。大理石の床は鏡のように磨き上げられ、シャンデリアの光を足元にまで敷いていた。

 天井は高く金の刳形が縁を走り、その下がり壁に沿って大小の鏡が幾枚も掛かっている。広間の中央、赤絨毯を敷いた大階段が二階へ向かって開いている。

 左手には旧式の板張りの酒場。飴色の壁に、古びた写真が隙間なく並んでいた。歌劇の衣装をまとった男、勲章の軍服、扇を持つ夫人。

 彼らを知る者は、もうこの街には幾らも残っていないのだろう。


 右手の奥に、帳場があった。


 黒檀(こくたん)の長机に、真鍮の呼び鈴と宿帳。背後の壁には、鍵の下がった木の格子棚が天井まで組まれ番号札が並んでいる。その手前に、白髪をきれいに撫でつけた帳場係が立っていた。


「お泊まりでございますか」


 レスイ語だった。


「二階を。静かな部屋を」


 私もレスイ語で返した。舌が思いのほか滑らかに動いた。


 宿帳がこちらへ向けて開かれる。私は備え付けのペンを取って、偽りの名を迷いのない筆致で書き入れた。


「二〇六号でございます。階段を上がられて、左手の廊下の奥に。なお、こちらが今宵の夜会のご招待券でございます」


 差し出された券を受け取り、真鍮の鍵を掌へ収める。ずしりと重く、冷たかった。


 部屋は広くはないが、ニ室に別れて天井が高かった。寝台、鏡台、衣装箪笥(たんす)。窓には厚いカーテンが下り、隙間から中央大街通(チュウオウダイガイ)の灯が細く差し込んでいる。


 私は外套の留め具に手をかけ、それから衣装箱の紐を解いた。


 夜会まではまだ二時間ある。





 

 

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。