第十二話
『某月某日 モデルナ館 二十二時』
「ようやく、リードル・クライアトフが接触の機会を示してきましたね。ですが、この場所と時間は……」
アイリーンは伝令鳥を指にのせたまま、青い羽を撫でていた。本部から届いた紙片には必要な事項だけが活字で打たれている。
「出入りの激しい夜会なら、お互いに紛れやすい、ということでしょう」
「夜会?」
アイリーンが顔を上げた。
「ということは、舞踏会か何かですか」
私は答えなかった。答えるまでもなかった。彼女の指が揺れ、青い鳥は羽をばたつかせて窓辺へ逃げた。
「や、夜会服なんて持っていませんよ」
彼女は壁に掛けた赤い更紗の上衣へ、こわばった目を向けた。
私はおかしさを堪えて言った。
「モデルナ館の帳場に頼めば、貸衣裳屋へ使いを出してくれます」
「ですが、踊りなんてしたことありませんし」
アイリーンは力なく、膝から床へ崩れるように座り込んだ。私はその座り方にシンシラリの屋敷を思い出した。
「あなたさまにお仕えできたことが、わたくしの誇りでございました」
長く仕えた養育掛が、屋敷を去る日に残した言葉だった。彼女は私の手を取り、「ヘルザ様は、どうか、ご自分の足でお歩みください」と言った。私はその乾いて筋の浮いた手を、なかなか離せずにいた。
「礼法は今からでも間に合わせます」
アイリーンの手を取り、床から引き起こす。
「まず、座り込まないこと」
たしなめると、アイリーンは「かしこまりました」と両手を前に重ねて辞儀をし、最後に「先生」と、わざとらしく付け加えた。
「頭を下げるのは謝罪。腰を落とすのが敬意です」
片足を引き、膝をわずかに落とす。上体はまっすぐのまま。私の声が少し張っていたのか、アイリーンは慌てて真似をした。
「沈みすぎれば、媚びに見えます。同じ年頃の娘には、膝を折る真似だけ。名のある老婦人には、ひと呼吸ぶん、長く」
「難しいですね」
言いながら、アイリーンは私を見つめ、頭のてっぺんの位置を膝の曲げ具合で合わせている。
「礼法とは、難しいことを難しく見せない技術です」
養育掛の言葉を借りて、私は当然のように腕を組んだ。
「なんだか、魔法を教えてもらっているみたいです」
アイリーンは華神の子どもたちのような顔で、上目遣いに私を見た。
借り物の言葉が急に恥ずかしくなり、私は話題を変えた。
「それから……相手を見る時は、目を覗き込まない。胸元も見ないこと」
「では、どこを見るのです」
「鼻筋のあたりです。嘘をつく者は目を見たがります。育ちのよい者は、目を見すぎません」
言い終えてから、後悔した。
アイリーンは気に留めるふうもない。彼女に向けたつもりはなかった。けれど、礼法を語る者の選ぶ言葉ではなかった。
「どうかされましたか、ヘルザ殿」
黙り込んだ私の顔を、アイリーンが覗き込んだ。
「いえ、先ほどの……失言でした」
私は頭を下げた。
アイリーンは目を丸くし、それから慌てて私の肩を支え、頭を起こさせた。
「育ちのよい者は、目を見すぎない、という発言です。あれは、あなたのことを言ったわけでは——」
言い終わらぬうちに、アイリーンは声を上げて笑い出した。
「そんなことを気にされたのですか。ヘルザ殿はやっぱり繊細な方ですね。第一、育ちが悪いのはまぎれもない事実ですので」
彼女は上体をまっすぐにし片足を引いて、膝を落とした。
ひと呼吸ぶん、長く。
私はその不器用な敬意から目を離せなかった。
「そんなことより、踊りの方をご教示ください。ヘルザ殿」
先ほどのやり取りなどなかったかのように、アイリーンが詰め寄ってくる。今度は私が、彼女の肩を両手で押し戻す番だった。
「夜会で大切なのは踊ることではありません」
「さっき笑った仕返しに、からかっているのですか」
アイリーンは口を膨らませた。
「いいえ、真面目です。大事なのは踊れるふりをして立っていることです」
私はわざと低く、ゆっくり言った。
「ですが、お誘いされた場合はどのように……」
アイリーンは下を向いたまま小声になった。語尾は聞き取れなかったが、組んだ両手の指が、二、三本、せわしなく動いている。
急に若い娘の顔になった彼女に、私は卓の紙片を一枚取り細く折って渡した。
「これは舞踏手帖の代わりです」
「手帖?」
「夜会では、曲ごとに相手の名を書き入れることがあります。すべて空けておくと、暇な娘に見える。すべて埋めると、話しかける隙がなくなる。ですから、三つほど埋まっているように見せておきなさい」
「誰の名前を書けば」
「読めない字でよろしい」
紙片の端を指で叩いた。
「誘われた時の断り方も覚えておきなさい。『恐れ入ります、その曲は先約がございます』。もう一つ。『少し休ませていただいております』。相手がしつこければ、『連れの者が参りますので』。これで大抵は退きます」
「退かなければ?」
「足を踏みます」
「それも礼法ですか」
「ええ。少なくとも、私にとっては」
アイリーンは真剣な顔でうなずいた。どうやら、そこだけはすぐに覚えたらしかった。
「手袋は、食事の席以外では外しません。手を洗う時と、物を食べる時だけ」
「面倒ですね」
「面倒を面倒と見せないのが夜会です。汗ばんだ手を素手で差し出す方が、よほど無作法です」
アイリーンは自分の手のひらを見て、少し顔をしかめた。
「それから、話題です。天気。花。音楽。差し障りのないことだけを、さも大切そうに話しなさい。政治は避ける。国の話は、もっと避ける。誰がどこの生まれかを、決してこちらからきかない」
「きかれたら?」
「はぐらかす。『わたくしのような者の話など』と。謙遜は、いちばん上等な嘘です」
「嘘は苦手です」
「あなた、特務の人間でしょう」
そんな問答のような稽古は、夜会の日まで続いた。
アイリーンはどうしても踊りを教えてほしいとせがんだので、最後に簡単なワルツだけを教えた。
一、二、三。一、二、三。
拍を刻むうち、組んだ手の輪郭が少しずつ曖昧になっていく。
燈の灯り。衣裳の白さ。花火。夜の闇。どこか借り物のような色の奥に、お母様の横で、亡きお父様がパイプをくわえ、こちらへ手を上げていた。私も右手を軽く上げ、それから、名も忘れた若い士官と組んだ。
一拍目で進む。二拍目で揃える。三拍目で流す。左足が床を捉え、右足が寄り、裾が遅れてついてくる。何も考えていなかった。足はただ動き、床は踏めば応えるものだった。回るたび、灯りが糸を引き、士官の襟の金釦が、光の点になって流れた。彼が何を話したのか、私が何と答えたのか、何ひとつ残っていない。
残っているのは、拍子だけ。
「ヘルザ殿、そろそろ出発を」
前に出ていた左足を私はさりげなく戻した。それから窓を見た。青白い光がわずかに差し込んでいるだけで、部屋の模様も半分ほど見えない。思っていたよりも、ずっと時間が経っていた。
日が落ちて、一時間ほど経った頃だった。
華神の狭い筋を三つ折れると、灯りは灯籠の赤からガス燈の白へ変わった。その白い光の下で、アイリーンが「イズヴォスチク!」と手をまっすぐ上げる。辻に客待ちしていた黒塗りの低い四輪馬車が、一拍おいてこちらへ轅を向けた。塗りは艶を失い、泥よけには乾いた跳ねの跡が残っている。
御者台では、綿入れの外套で樽のように着膨れた御者が、無言のまま顎で客席を示した。
アイリーンは「アプレ・ヴ」と、得意そうに手を前へ出し、二人掛けの狭い座席へ私を先に乗せようとした。私が腰を下ろし、彼女があとから乗り込むと肩と肩が触れた。革の座面は冷えきっていて、古い馬具と煙草の匂いがする。
レスイ語で行き先を告げる。鞭が鳴る前に、馬はもう歩き出していた。車輪が石畳を拾うたび、座席が小さく跳ねる。自動車が前をよぎり、黒い車体が街道の白い灯を散らした。建物の影が切れ、大聖堂の丸屋根が夜空に黒く浮かぶ。その手前、街灯の連なりの向こうに、窓という窓へ灯をともした石造りの館が見えてきた。近づくにつれ車輪の音に楽の音が薄く混じりはじめる。
「ここで」
私が言うと、御者は手綱を軽く引いた。馬車は館の車寄せの明かりが届くか届かないか、その境で停まった。降りる際、アイリーンはまたもや「ペルメテ・モワ」と得意そうに手を差し出した。私はその手を取り、小声で言った。「夜会は、知ってる西側の言葉を披露する場ではないわ」彼女は離した手を頭に当て、恥ずかしそうに笑った。
三階建ての石造の建物『モデルナ館』。淡い色の壁は夜目にも明るく、高い半円の窓という窓に灯がともり、黄金色を敷き落としていた。屋根の上には小塔がいくつか立ち、そのひとつだけが玉葱の形に膨らんで夜空を鈍く受けている。
回転扉が一周するあいだに、外の音が消えた。靴音だけが、先に広間へ届く。大理石の床は鏡のように磨き上げられ、シャンデリアの光を足元にまで敷いていた。
天井は高く金の刳形が縁を走り、その下がり壁に沿って大小の鏡が幾枚も掛かっている。広間の中央、赤絨毯を敷いた大階段が二階へ向かって開いている。
左手には旧式の板張りの酒場。飴色の壁に、古びた写真が隙間なく並んでいた。歌劇の衣装をまとった男、勲章の軍服、扇を持つ夫人。
彼らを知る者は、もうこの街には幾らも残っていないのだろう。
右手の奥に、帳場があった。
黒檀の長机に、真鍮の呼び鈴と宿帳。背後の壁には、鍵の下がった木の格子棚が天井まで組まれ番号札が並んでいる。その手前に、白髪をきれいに撫でつけた帳場係が立っていた。
「お泊まりでございますか」
レスイ語だった。
「二階を。静かな部屋を」
私もレスイ語で返した。舌が思いのほか滑らかに動いた。
宿帳がこちらへ向けて開かれる。私は備え付けのペンを取って、偽りの名を迷いのない筆致で書き入れた。
「二〇六号でございます。階段を上がられて、左手の廊下の奥に。なお、こちらが今宵の夜会のご招待券でございます」
差し出された券を受け取り、真鍮の鍵を掌へ収める。ずしりと重く、冷たかった。
部屋は広くはないが、ニ室に別れて天井が高かった。寝台、鏡台、衣装箪笥。窓には厚いカーテンが下り、隙間から中央大街通の灯が細く差し込んでいる。
私は外套の留め具に手をかけ、それから衣装箱の紐を解いた。
夜会まではまだ二時間ある。




