第十三話
衣装箱から二着の夜会服を取り出し、寝台の上に並べて、私たちはまじまじと見下ろした。
一着は深紅だった。胸元が大きく開き、襟ぐりには黒い細紐が蔓草のように縫い込まれている。肩から袖へ落ちる絹は、灯りを受けるたび葡萄酒のように暗く光り、腰のあたりで固く絞られていた。
もう一着は白だった。喉元まで布が詰まり、細い立襟に小粒の真珠が並んでいる。胸から腹へかけては銀糸の刺繍が静かに走り、袖口には薄いレースが重ねられていた。白というより古い象牙に近い色で触れなくとも布の硬さがわかった。
私が断りもせず白に手を伸ばしかけたとき、アイリーンの指が先にそれを摘まんでいた。
「私、こっちの方が」
「……あなたが?」
私は白い服と、彼女の細い肩とを交互に見た。
「ほら、ここが、すかすかなんで」
アイリーンは胸の前で両手をひらひらと泳がせた。
私は息をひとつ吐いて、
「まあ、いいわ」
と深紅を腕に掛けた。
布は見た目より重かった。絹の下に形を保つための芯が幾重にも入っているのだろう。腕の上で、それは花のようには揺れず、濡れた幕のように沈んだ。
「では、着替えて参ります」
アイリーンはそう言うと、白を持ち上げ、立ち去ろうとした。
「待ちなさい。その服は、ひとりでは着られないわ」
私は袖をまくりかけていた。
「またまた。私たちは、かの帝国の魔術師ですよ」
アイリーンはそれを宙に掲げ、勝ち誇ったように片眉を上げて、奥の部屋へ入っていった。扉が閉まる音がやけに静かだった。
しばらくして、奥の扉が開いた。
「ヘルザ殿、それ……」
アイリーンは深紅の私を髪の先から裾まで眺め、それから、ため息とも感嘆ともつかない息を漏らした。
「絵姿みたいです。ほら、昔の——歌劇の看板の」
「古い、と言いたいのかしら」
「違います違います。ええと……様になりすぎていて、悔しい、という話です」
言い直しの方が、よほど失礼だった。けれど不思議と腹は立たなかった。
私も彼女を見た。
白は、思いのほか彼女に似合っていた。
喉元まで詰まった立襟が細い首をまっすぐに立たせている。古い象牙の色は彼女の栗色の髪を常より深い色に見せていた。肌は、手の先まで、どこも見えない。それなのに隠しているという感じがしなかった。
教えた礼法のせいではない。
あれは姿勢ではなく——そう、あの路地で包子を配っていた時と同じ背筋だった。
場所が彼女に馴染むのではなく、彼女が場所をこちら側へ引き寄せてしまう。路地裏でも、夜会でも。
「変、でしょうか」
黙っていた私にアイリーンが襟元を指でつまんだ。
「いいえ」
私はそれだけ言って、手袋を取り上げた。
「行くわよ。夜会で人を待たせるのは、格上の者だけの特権よ」
二〇六号室の扉を後ろ手に閉める。
緑の絨毯が二人分の靴音を呑む。突き当たりの角を折れると、空気の揺れが変わった。階上から、楽の音と、グラスの触れ合う音と、幾重にも重なるざわめきが、暖気にまじって降りてくる。三階に人が集まると、建物は内側から熱を持つらしかった。
深紅の裾は一歩ごとに遅れてついてきた。腰から下の布が重い。私は手袋を嵌めた指で、裾をほんの少しだけ持ち上げた。持ち上げすぎれば品が損なわれる。持ち上げなければ、踏む。
隣では白い袖を揺らしながら、アイリーンが緑をかき分けるように歩いている。顎が上がりかけていた。私は自分の肘を彼女の肘に軽く当てる。
教えたとおり、肩がすっと下りた。
「急ぐときほど」
「ゆっくり、でしたね」
アイリーンは小さく会釈した。
廊下の突き当たりで空間が開けた。三階へ続く大階段だった。
幅広い段の両脇には、一段ごとに棕櫚の鉢が据えられ、その合間に銀の花器が置かれていた。花器には白百合が束ねられ、反り返った花弁だけが、階段の灯を受けて冷たく浮いている。この季節に、この数。温室をひとつ空にしてきたような白だった。
階段の中ほどで、アイリーンが足を止めた。
まさかと思ったが、案の定、彼女は萎れかけた一輪に寄った。前屈みになり、花弁へ息を吹きかけるように顔を近づける。数秒もしないうちに、何食わぬ顔でこちらを向いた。
彼女が去ったあとの百合は、花弁の先まで張りを取り戻していた。黄色い花粉がひと粒、白い段の上に落ちた。踏めばすぐに汚れる色だった。
視線を感じた。上から降りてくる青年がこちらを見ている。銀の配膳皿を捧げ持った、短髪の使用人——華神だった。私ではなく、アイリーンを見ていた。
だが、青年は足を止めず、白百合を一瞥しただけで、私たちの脇を通り過ぎていった。
「こう見えて、ご交友も増えましたのよ」
アイリーンは扇子代わりなのか、自分の手で口を隠しながら気取った口調で言った。
「いずれにしても、この場では軽率」
「……はい」
彼女は肩をすくめたが、おそらくまたやるだろう。
階段を登り切ると、廊下を挟み舞踏室の扉はすでに開かれていた。
光と音が遅れて届く熱とともに、いっぺんに私たちを迎えた。
建物の最上階はほとんど一つの広間として抜かれていた。天井は高く、屋根裏の梁を隠すように白い漆喰が塗られ、その下にシャンデリアがいくつも吊られている。
昼より眩しい光が、黒の燕尾と、深い青、苔色、葡萄色の絹を照らし、磨かれた寄木の床の上にゆるやかな渦を作っていた。
壁に嵌めこまれた鏡はその渦を幾重にも映していた。そのため広間は実際よりも広く、また実際よりも混み合って見えた。
楽団は奥の一段高い場所にいた。ワルツは人々の話し声の少し上を流れていた。誰も聴いてはいなかった。けれど、止まれば全員が気づく——そんな音だった。
広間の灯の最も集まるあたりに、帝国の礼服が一団を成していた。今宵の主賓だった。権益を譲り受けた側が上座に据えられ、譲り渡した側が杯を掲げにいく。
銀盆を捧げて泳ぐ給仕には、レスイ系の顔と華神の顔が混じっていた。仕着せは揃いで、違うのは、客の目の留まり方だけだった。レスイ系の給仕は呼び止められ、名を呼ばれ、軽口を受ける。華神の給仕の前では、客は話を中断しない。同じ盆を捧げて、片方は人として、片方は家具として、同じ床を歩いていた。
レスイ語の笑い声が、広間全体に薄い膜をかけていた。
亡命した白系ばかりの集い——あの笑い声のいくつが本物か、誰にも分からない。連邦の眼と耳が交じる床で、誰もが知らぬ顔で踊っていた。祖国の言葉で語り合いながら、その祖国が二つに割れていることだけは、誰も口にしなかった。
乾杯の声。絹の衣擦れ。誰かの短い笑い。
同じ床の上で、誰も同じ国にはいなかった。
アイリーンに額の禿げ上がったレスイ系の男が歩み寄った。男が手を差し出すと、彼女は教えたとおり膝を折り、その手を取った。やがて白い裾が楽団の拍子に合わせて寄木の床を滑りはじめる。
白く細い線が人々の黒い衣服のあいだを縫っていった。
美しい姿だった。
だからこそ、それが一つの偽りにすぎないことを、私は少し残念に思った。
曲がワルツからマズルカへ変わった。
アイリーンは白髭を蓄えた伯爵らしき老紳士とその夫人を相手に、グラスを片手に微笑を浮かべていた。天気。花。音楽。教えたとおりだった。それでも私は、白百合の花言葉ぐらい仕込んでおけばよかったといまさら悔やんだ。
「恐れ入ります。次の一曲、御手を賜る栄誉をいただけますでしょうか」
今度は、初老のレスイ系の男が私に声をかけてきた。
私は舞踏手帖を手に取った。
「連れの者が参りますので」
男は少しも困った顔をしなかった。
「では、お連れ様もご一緒に。左奥の談話室まで」
落ち着いた声だった。言葉だけを聞けば、招待のようでもあり、道案内のようでもあった。
男は一礼し、すれ違いざまに低くつけ加えた。
「クライアトフ卿がお待ちです」
そのまま、彼は人の波へ戻っていった。
曲はカドリーユへと変わっていた。広間の中央では、四組の男女が向かい合い、互いの位置を入れ替えながら、寄木の床に幾何学の線を描きはじめている。
私はアイリーンを目で探した。
白い立襟はすぐに見つかった。彼女は、何か不服そうな顔の男と向かい合っていた。私の視線に気づくと、ぱっとこちらへ駆け寄ってくる。
「ワルツしか踊れないってお断りしたのに、しつこかったので」
そう言って、アイリーンは男に見えるように、軽く足踏みをしてみせた。男の顔がいっそう険しくなった。私は詫びともつかぬ会釈を男へ送り、アイリーンの肘にそっと手を添えて、壁際へ連れていった。




