第十四話
舞踏室の奥の硝子戸を押すと、露台だった。
夜気が開いた胸元から素肌を刺し、吸い込んだ息が肺の奥で冷たい形になる。戸一枚でワルツも人熱れも背中に断たれ、あとは風が手すりの鉄を撫でる音だけが残った。眼下の中央大街通には、ガス燈だけが儀仗のように等間隔に立ち夜景と呼ぶにはその間の闇が多すぎた。
「リードルは談話室にいるわ」
「談話室は正反対ですよ。なぜわざわざ屋外に」
アイリーンは二の腕を摩りながら身を縮めた。
「談話室の入口に二、いや三人いるわ。新生派」
「どうして、そんなことわかるのですか」
「舞踏室で靴が綺麗すぎる男は信用できません」
「靴?」
「踊っていないのです。相手を探すふりもしていなかった。入口を見て、廊下を見て、また入口を見る。あの床で一曲踊れば、爪先に細かな擦れが残る」
私は裾の下に隠れた自分の靴先を見た。
「私たちみたいに」
いや、アイリーンは踊っていたか。
「とにかく、ここには下に続く階段がある。そこから一度回って、談話室へ行くわ」
アイリーンは風が吹くたびに体を震わせ、
「……はい。建物の出入りを把握するのは、基本ですよね」
と、顔をしかめた。
露台の端には、壁に貼りつくような階段があった。足をのせるたび、鉄が小さく軋み、そのたびに私は背後を振り返った。
一階まで降りると、そこは建物の裏手だった。石炭置場と空瓶の木箱が並び、半開きの扉から石鹸と濡れた布の匂いが流れてくる。
アイリーンが先に扉の隙間から覗きこみ、給仕の一人に華神の言葉で早口に何かを言った。それから、こちらを振り返った。
——大丈夫。行きましょう。
声には出さず、目だけがそう言った。
白い壁の細い廊下を抜ける途中で、二度、給仕とすれ違った。けれど、向こうは私たちを見ても何も言わなかった。これも彼女の日頃の『宣伝』の結果だろうか。
白百合の飾られた大階段は使えない。正面から来れば、あの三人の横を通らなければならない。だが、アイリーンが指さす先の扉は、壁紙の模様にまぎれるように奥まっていた。使用人が茶器を運ぶための裏階段だろう。
狭い段を上るにつれ、石鹸と濡れた布の匂いは薄れ、蝋と香水の匂いが戻ってきた。三階まで上りきると、談話室へ続く廊下に人影はなかった。管楽器の音に乗って遠くから三拍子が届く。
「ワルツ以外も練習すればよかった」
アイリーンは残念そうに呟いた。
私は彼女を見ずに、手袋のまま把手に指をかけた。
指先に冷えとは別の痺れが返ってきた。金具は動く。だが、木の板一枚の向こうに、薄い水膜のようなものが張っている。
私は把手から手を離した。
「結界?」
アイリーンが、小さく息を呑んだ。
私は黙って頷く。
触れるまで気づかぬほどの、極微量の魔力だった。侵入を拒む結界ではない。触れた者を内へ知らせるためのもの。
ならば、こちらの手はもう読まれている。
退くか、開けるか。迷う間もなく、内側から把手が回りはじめた。
私は左手でアイリーンを制した。自分の喉が小さく鳴った。この期に及んで。その音が、遠くの三拍子に重なった。
扉は呆気なく開き、先ほど舞踏室で声をかけてきた初老の男が現れた。
「先程は、ご一緒できず残念です。お入りください」
初老の男は、柔らかな落ち着いた声で私たちを迎えた。
談話室は舞踏室とは別の種類の明るさを持っていた。笠つきの灯りが中央の玉突き台だけを青白く照らしている。緑の羅紗の上に白球がひとつ忘れられた目のように残っていた。床は黒褐色の寄木張りで艶はない。靴を置くたび、乾いた音が短く返った。
部屋の奥には細い小窓——夜気を入れるには足りても、人ひとりを逃がすには狭すぎた。右手の壁の硝子戸の中で伏せられたグラスと、琥珀や深緑の瓶が灯りを鈍く受けている。その前に、低い革張りのソファ。
リードルは、そこにいた。
金髪を束ねた鼻の高い青年は、アイリーンの球に映したよりも静かに見えた。青年は立ってはいなかった。待っていたように片肘を肘掛けに預けていた。
私たちが玉突き台の前に立つやいなや、初老の男はグラスを用意し、酒棚の下から銀の氷桶を取り出した。リードルはゆっくり立ち上がり、私たちを見るわけでもなく、角形の氷をひとつ、あの長い指先で摘み上げグラスに入れた。
鑿で切り出したものだろう。細かな面が灯りを受けるたび内側で光を砕いた。
「純度の高い氷というものは、無垢な湧水を寒さの底でゆっくりと寝かせて作る。ここらではヴィエルナの谷の険しさと、あの底冷えがなければこうは澄まない」
うっとりと氷を眺めたまま、彼は続けた。
「それでも、欲のためなら、こんなものを私のために運んでくる者がいる。わざわざ遠い谷からね」
そう言って、リードルはグラスを傾けた。
氷は音もなく落ち、緑の羅紗の上で淡く光った。濡れた跡がゆっくり広がっていく。彼はそれに目もくれなかった。
「だが、今宵は別のものが欲しい。——例えば、魔術師の作る氷などね」
グラスの口が、こちらへ向けられた。
「では、私が——」
アイリーンが一歩前へ出るのを、リードルは掌を上げて押し留めた。
「いや」
そして、私を見た。
「深紅のあなたにしてもらいたい」
長い指でグラスを宙に提げたまま、彼は顎先で私を示した。アイリーンではなく、私を。その指は、少しも迷わなかった。
奥歯を噛んだ。
横でアイリーンが小さく息を吐いた。ちらと私を窺っている。その目には、からかいも、催促もなかった。ただ、私がいま何を呑み下したのかを知っているようだった。
だからこそ、退けなかった。
私は台をよけ空のグラスを受け取った。
それを左の掌に伏せて載せ、口を下へ向ける。リードルがわずかに眉を上げた。氷を器の中ではなく外で作るつもりか、とでも言いたげだった。
右手の二指を伏せたグラスの底へかざした。
指先から冷気が降りる。
掌の上の空に、一点、白い芯が結ばれた。芯のまわりに水が呼ばれ、層を巻きながら太っていく。角はひとつも立たなかった。ただ丸く、内へ内へと締まり、やがて掌の上に欠けるところのない透き徹った球がひとつ生まれた。
谷の険しさも、底冷えの夜も、運ぶ者の労苦もいらない。寝かせる年月さえ、いらない。指の一閃で足りる。
だが、この一閃にどれほどの年月を積み上げてきたか、お前は知らない。
私はグラスを返し、その底へ球をことりと落とした。
ガラスの円みに、氷の円みが吸いつくように収まる。継ぎ目も刃の跡もない。先ほどリードルが摘み上げた面だらけの角氷がひどく粗末な細工に見えた。
リードルはしばらく黙っていた。
「……ほう」
それから、笑った。
「流石は、東洋の魔術師だ」
リードルはグラスを目の高さまで掲げ、灯りに球を透かした。
光は砕けなかった。ひとつに澄んだまま、彼の整った顔をゆるく歪めて映している。
彼はボトルを傾けた。琥珀色の酒が球の肩を滑り底へ満ちていく。
奥歯を、私はようやく緩めた。




