第十五話
リードルはグラスの中身を飲み干すと、手首を返し、底に残った氷の球を退屈した子供のように回して遊んだ。
「バイン、例のものを」
バインと呼ばれた初老の男へ、もう片方の手を差し出す。バインは懐から紫色の玉を取り出し、リードルの掌へ丁寧に載せた。
「君たちの欲しがっている『話』のほんの端切れだ」
リードルは紫の玉を羅紗の上に置き、指先で私たちの方へ転がした。玉は途中でわずかに軌道を逸れた。アイリーンが慌てて腕を伸ばし、拾い上げる。彼はグラスの氷を回したまま目を細めてその様子を眺めていた。
「中身は、検証させていただきます」
私は氷にも紫の石にも目をやらず、リードルの目だけを見て言った。声だけはなるべくなだらかに保った。
「好きに答え合わせをするといい。——ただし」
リードルは空になったグラスをバインへ差し出した。琥珀色の液体が注がれる音だけがしばらく部屋を満たした。彼はその音が絶えるまで口を開かなかった。
「先に庭の掃除を頼みたい。私の庭を嗅ぎ回る野良が一匹いる。残りの話は、それからだ」
「私たちは、あなたの雇われではありません」
行進に近いゆったりした三拍子が壁越しにわずかに届き、ポロネーズだとわかった。
「雇う?」
リードルはその言葉を初めて舌に載せる異国語のように繰り返した。
「傭兵は金で買う。君たちは違う。君たちの上官——いや、国は生きた私が欲しい。死んだ私に通り道は開けない。ならば私を生かしておくのは、初めから君たちの仕事だ。私はただ、その仕事に名前を付けてやったにすぎない」
「本部が呑むかは、別の話です」
「呑むさ」
リードルは高い鼻の先を、指で一度さすった。
「君たちがここで立ち往生している間にも私の糸は切られている。上官殿の帳面から、取れたはずの紙が一枚ずつ消えていく。——急かしているのは私ではないんだよ」
卓の下で、アイリーンの白い袖がわずかに私の裾に触れた。
「その野良にお心当たりがおありなのでしょう」
アイリーンが訊いた。リードルが指を一本立てると、バインが懐から一葉の写真を抜き、羅紗の上へ滑らせた。
灰色の短髪。彫りの深い大柄な男。左の頬に縫い跡の古い傷が走っている。
「ネールランド・アメリオロ。——野良かと思えば首輪だけは赤い。連邦の狗だよ。爵位も、領地も、家名すら持たぬ男でね。それゆえか、我々を殺すことに実に熱心だ」
「魔術師ですか」
アイリーンの問いに、リードルは喉の奥で笑った。
「使えんよ。一片もね。それでいて、この二年で葬られた白系は六人。うち二人は宮廷魔術師の家系だった。詠唱が終わる前に声を奪われていたそうだ」
「……詠唱の前に」
アイリーンは小さく繰り返し、それきり口を閉じた。
「君たちも名簿は検めただろう。赤い線の引かれた名を。あの者たちは皆、私の糸の結び目だった。その全員を葬ったのが——この男だ」
——引き金は、誰が引いても同じように弾が出る。弟の言葉がやけに近く私の耳元を通り過ぎた。
「私の手の者は銃には慣れている。ナイフにもだ。だが銃で死なぬ男に何人差し向けたところで骸が増えるだけでね。魔法を殺す男には——殺されぬ魔法を。だから君たちなのだよ、帝国の魔術師殿」
リードルは氷の球を、親指と長い中指でグラスから摘み上げ、玉突き台の白球の脇へ落とした。氷は割れもせず、羅紗の上を私たちの方へ真っ直ぐに転がってきた。
「それに、先ほどの氷は悪くなかった。あれは学舎で褒賞をもらうための術ではない。命のやり取りの合間に、無駄を削ぎ落として残った手際だ。——道具の見立てには自信があってね」
「私たちは、暗殺者ではありません」
私は行き場を失った氷を掌に受け、無に返した。
「殺せとは言っていない。退けろ、と言った。方法は君たちの品性に任せよう。私は結果だけを受け取る」
品性、という語が気に入ったのか、リードルは笑った。
「では、その品性で応じましょう。特定まではいたします。退けるかどうかは——石が本物だと分かってから、あらためて」
リードルは私を見た。値踏みの目ではなかった。値踏みはとうに済んでいる目だった。
「結構。だが急ぎたまえ。答え合わせが済む頃、君たちの帳面に新しい赤が増えていないことを——祈っているよ」
バインが音もなく扉へ寄り、把手に手を掛けた。
「あの、リードル殿。ちょっとよろしいでしょうか?」
白い袖の女が、場違いに挙手をした。
「あなたはお守りしますので、華神へ淵殻を売るのをやめにしませんか」
初等科の子供が先生に提案するような調子で彼女は続けた。楽の音が遠のき、すれ違いに鼓動にギャロップめいた速い二拍が混じる。私はバインを見た。バインもまた私を見ていたが、把手から手は離していない。
リードルの口の端がわずかに震え、あの微笑ともつかぬ形へ戻るまでの一瞬がひどく長かった。それから彼はアイリーンの目の前に立ち、灰の混じった青で見下ろした。
「ひと月ほど前から、私の客のあいだで妙な噂が流れていてね。掌から毒を吸い出す女が現れた、という。栗色の髪で、帝国訛りの華神語を話すそうだ。……ちょうど、あなたのように」
リードルは笑みを崩さぬままアイリーンの右手首を掴んだ。自分の目の前まで引き寄せ、品物の傷でも確かめるように指の腹でその脈所を押さえる。
アイリーンは抵抗しなかった。
「ええ。ですから、そういうことは楽ではないので、できればおやめください」
平然とした声だった。
その一拍あと、リードルの指がわずかにずれた。
影が肩を掴み、鈍い痛みが背骨に沿って滴った。私は扉の方をもう一度見た。バインの手は把手から離れている。さきほどまで皺の奥に畳まれていた落ち着きが、その目からきれいに消えていた。
この場で、はじまってしまう。
だが、リードルはアイリーンの手を離した。離す、というより手の中に残ったものを捨てるような仕草だった。
「この女の、名は」
声は低く、喉の奥で握り潰されていた。
「彼女はアイリーン・サイベル。私はヘルザ・ラルフエルト」
この期に及んで、偽称は無意味だった。
リードルは彼女の名を、口の中で一度転がし、それから、私を見た。
「ヘルザ・ラルフエルト。その毒蛇には牙を向ける方向が逆だと教えておけ」
彼はバインの開けた扉を抜けていった。アイリーンを掴んでいた方の手が、去り際、まだ小さく震えていた。
リードルが閉じきらずに残した扉へ、私は手をかけた。廊下の灯と楽の音が細い隙間からまだ流れ込んでいる。それを押し戻すように静かに閉めた。
振り返ると、アイリーンは白い袖の下で指を落ち着きなく動かしながら、私が何か言うのを待っていた。私は深く息を吐き、彼女に歩み寄った。艶のない寄木の床が軋むたび、白い肩がわずかに上がった。
「随分と危ない賭けをしてくれたわね」
なるべく声を荒げずに言ったせいか、アイリーンは急に、雲間から日が差したような顔をした。そして右手で小瓶をつまむような仕草を、私の前へ差し出す。
「はい。これで『小瓶』は取れましたので、いつでも追えます。おまけに、おつきの魔術師のおじいちゃんの分も」
私は肩を落とした。正規の武官なら処分は免れない振る舞いだ。ノームのやり方なのか、アイリーンのやり方なのか。いずれにしても、正気の沙汰ではなかった。
「魔力痕を確保できたからいいものの、あの場で刺し違えていてもおかしくなかったのよ」
何が「嘘は苦手です」だ——嫌味の一つも付け加えたかったが、淵殻へ向けた彼女の目を思うと、言葉は喉で止まった。もっとも、あの魔力を前に、彼らの方から向かってくるとも思えないが。
「ヘルザ殿を氷室代わりにした罰ですよ」
アイリーンは閉じた扉へ向かって、ほんの少しだけ舌を出した。私はその幼い横顔へ、声になる手前で謝った。彼女に聞かせるためではなかった。考えごとの底に、ふと沈んだ息のようなものだった。
私の内側で、この地に立つ前に受けた命令が、消し忘れた信号のように明滅していた。
一、レスイ連邦へ流れる情報経路の特定。
一、魔毒汚染の拡大状況の把握。
一、資金回収経路の解明、ならびに——流通者の、保護。




